第二章・体育祭
第二章・体育祭
暦は六月。緯度の低い星見の島では、とっくに夏の気候だ。本島の学校では体育祭は熱中症の危険性を考えて涼しい季節に開催するものだが、星雲高校は六月に強行する。暑い代わりに星見の島には都会にはない涼しい風が吹くので、体育祭当日は心地良い風を望むばかりだ。
岸本四季がバスケ部の練習中に倒れた日から一週間が経過していた。四季は漆原から渡されたサプリを欠かさずに飲み続けている効果もあってか、このところは調子がいい。
現在、午後二時三十分。本日最後の五限目の授業はホームルーム。体育祭で出場する種目を決めることになっている。
教室では体育委員が取り仕切って、話し合いが進んでいた。
「各学年の共通競技が二つ、これはみんな出るからね。これ以外に一人二つ以上選択種目に出場するの」
各委員は男女一人ずつ。こういう話し合いを取り仕切るのは、高校だと女子が多い。今回も、女子の体育委員が教壇に立って声を出し、男子の方が資料を配っていた。
まずは、体育祭の花形競技である男女混合千二百メートルリレーと星見の島駅伝の選手を選ぶことになった。リレーは各クラス男女一人ずつ。駅伝は各団で男子一人だ。
どちらも、秀次にとっては縁のない競技だ。
「えっと、千二百メートルリレーは男子と女子一人ずつだけど、男子は御影君でいいよね?」
体育委員のその発言に心の底から喜ぶ者がいた。生駒健吾だ。内心のガッツポーズが表情に出てしまうほど目を輝かせていた。宿敵の御影が、駅伝ではなくリレーに? ぜひ走っていただきたい。そういう目だ。
体育委員の提案に異議を唱える者はおらず、御影本人も了承をしたので問題なく選手は御影となった。
「次、星見の島駅伝ね。このクラスで誰かやりたい人は……」
「俺が出ます!」
立候補者は生駒健吾一人だった。この立候補に、今度は体育委員が笑みをこぼした。驚いてもいた。星見の島駅伝はとにかく疲れるということで、見る分には楽しくても参加したいと思う人は少ないのだ。
「生駒君、いいの? すごく助かるけど」
「うん! 俺が出る!」
そうして健吾が選ばれたおかげで、スムーズに話は進み、選択種目の振り分けの話になっていた。
選択種目は多岐に及ぶ。借り物競争、棒倒し、障害物競走、玉入れ、スウェーデンリレー。
「スウェーデンリレーってなんだ?」
秀次が前の席の四季に聞いた。
「だんだん走る距離が増えていくリレーだよ」
第一走者が百メートルを走り、百メートルごとに増えて第四走者が四百メートルを走る。
「それは出たくないな」
他の種目はフットサル、借り人競走、三輪車リレー、数学競争なんというものもあった。クラスのみんながそれぞれ話し始めて、まとまりがなくなりそうなところで体育委員が手を叩いて注目を集めた。
「この時間しか話し合う時間がないから、はい、すぐに決めちゃうよ」
体育委員が場を引き締め、秀次たち二年三組の話し合いは滞りなく進んだ。その結果、秀次は借り物競争と棒倒しに出場することになった。四季は竹馬レースとスウェーデンリレーに出場することになった。
「健吾、駅伝のランナーになれてよかったじゃん」
秀次は会長と話し込んでいる健吾に話しかけた。
「ほんとよかったよ。御影君がリレーに行ってくれて助かったよ」
「楽しみにしていますよ、頑張ってくださいね」
えらく上機嫌な健吾に、秀次の他に話しかける人物がいた。御影弓弦だ。
「生駒君、もしかしてリレーの方がよかった?」
御影は男子にしては長い髪の毛と、長い手足で芸能人にいそうな生徒だ。女子受けのいい顔とミステリアスな雰囲気をしているのでとてもモテている。しかし寡黙なために女子と話しているところはあまり見ない。
「いやいや、その逆だよ。よくリレーを選んでくれた」
「まぁ、こっちはなんでもよかったんだけどね。秀次は何に出ることになった?」
「借り物競争と棒倒し」
このとき、秀次は何気ない会話をしたつもりだったのだが、健吾と月見にとってはその会話が「意外」に映った。あの友達の少ない清峰秀次が御影弓弦とフランクに話す。このことが違和感だったのだ。
「お二人は、仲が良かったのですね」
「ん? ああ、秀次とは帰宅部仲間だから」
御影が秀次の肩に手を置いてそう言った。月見にとってはその光景がおかしかったらしく、上品にクスクスと笑った。
「星雲高校に、帰宅部なんてありませんよ?」
「俺も知らなかったよ。失礼を承知で言うけど、秀次は友達少ないから」
「失礼を承知しているなら言うなよ」
教室の出入り口から、御影を呼ぶ声がした。
「御影君。一年の可愛いお客さんだよ」
御影と一緒に秀次たちが声の方を振り向くと、一年生は既に入ってきていた。お客さんは二人、確かに可愛い女の子と一年生にしては大人びた男の子。
女の子の方が元気な声で言った。
「御影先輩、初めまして。一年の飛鳥美里です」
栗色の髪の毛が肩まである。おしゃれ気が少しもない上品な子だなと秀次は思った。
「同じく一年の秋草明良です」
大人びた男の子のイメージは堅物だった。飛鳥のボディガードのような存在にも思えた。背は百八十以上あるだろう、その場にいるだけで圧迫感があった……後輩のくせに。
しかし先輩に敬語を使う礼儀はある子のようだった。二人の顔を見た御影は怪訝な表情を浮かべた。
「えっと、一年がどうして俺に? というか授業は?」
その質問には月見が答えた。
「この時間を使って、全校一斉に種目決めを行っているのですよ。そしておそらく、このお二人は千二百メートルリレーの走者。そのことでしょう?」
御影がそうなのかと一年に聞くと、そこは答えず飛鳥は月見に近づいた。
「苗代会長ですか⁉ 会えてうれしいです! うわぁ、近くで見るとさらに美人」
飛鳥が月見に握手を求めるので、月見はその手を取ってあげて、愛想のいい笑顔で一言、「ありがとう、よろしくね」と言ってあげると飛鳥は子供のように飛び跳ねて喜んだ。
「美里、リレーの話に来たんでしょ」
もう一人の一年生、秋草がたしなめると飛鳥はむすっとしたが、話を戻した。
二人はリレーの練習の日程の話し合いに来たのだと言う。体育祭の練習は、応援団以外は基本しない。体育祭当日まで通常の授業と部活を平常運転させる。しかし、花形競技のリレーと駅伝だけは二回ほど練習があるのだ。そういう面倒も含めて、やはり参加したくない競技だと秀次は思った。実際は参加できないのだが。
「そういうことか。俺は部活やってないから、放課後はいつでもいいよ」
「わかりました。そうだ、連絡先だけ交換してもらえますか? 三年の人とも話して、日程が決まったら連絡しますので」
御影と連絡先を交換すると、一年生の二人は一度頭を下げてから教室を出た。秋草明良はしっかりと御影に。飛鳥美里はしっかりと苗代月見に。
「それにしても、駅伝楽しみだなぁ」
「そんな楽しみになるようなものか? だって島一周だぞ?」
各学年の各団で一人を選び、三人でチームを組んで島を走る。学年で一人というのはとてもプレッシャーを感じるだろう。さらに、応援も歓声もなく、黙々と走ることになるのだ。せいぜい、整備された道であることだけが救いだ。秀次には楽しめるポイントなど見つからない。
「体育祭を盛り上げる立場の私から言わせてもらえるのなら、駅伝に出場すれば、島の絶景ポイントに行くことができますよ」
島の北東にある発電施設には立派な風車が並び、西欧の雰囲気を感じる。北では島一番の海を見ることが出来る。鏡、もしくは空と勘違いしてしまうほどに透き通った海だ。西には沈む夕日がろうそくのように灯る岩の柱がある。
「たしかに、そういう場所には普段は行かないか」
チャイムが鳴り、五限の終わりが告げられた。担任の教師が帰りのホームルームを短い連絡だけに済ませて、生徒たちは皆部活に向かった。
四季は東京大会に向けて気合を入れ、健吾は駅伝の光景を想像しながら部活に向かった。教室には帰宅部の秀次と御影だけが残っていた。
「御影はこの後どうするの?」
「俺は屋上で昼寝でもしてから、寮に戻るよ」
「屋上で昼寝って、気持ちいいのか?」
屋上にはベンチこそあっても布団はない。
御影は荷物をまとめて席を立った。どうやら本当に、屋上に行くようだった。
「最高だぞ? そのうちやってみるといい」
弓道部にしても他の部活にしても昼寝にしてもここ最近、様々な誘いを受けているなと、ふと思った。
「気が向いたらね。俺は寮に戻って寝るよ」
秀次も御影同様に荷物を片付けて教室を出た。靴を履き替えて、応援団の練習と部活動の賑わう第一グラウンドを横目に、秀次は寮の自室へと帰った。
六月、第三週。体育祭当日
僅か二週間でさらに気温が上がった。海面の温度も上がっているのか、期待していた風が吹いてもそこまで涼しくない。それでも雨からは逃れたこの日は、暑さを我慢すれば最高の体育祭日和だ。
一年生の大玉転がしで火ぶたが切られ、体育祭は例年どおり大盛り上がりだった。
秀次たち二年三組と四組は暑い日に似合う赤団。クラスごとに用意された観覧席では、赤のハチマキがウヨウヨしている。
二年全員が参加する百メートル走は六人中二位という無難な結果で終わらせることができ、秀次は一安心していた。
(次の棒引きが終われば後は選択種目の棒倒しと借り物競争。たいしたことのない種目だ)
早く競技を終えて、秀次は内心休みたいななどと思いながら、選手入場ゲートでじっと始まるのを待っていた。
「秀次、調子はどうだ?」
みんなが好き勝手に騒ぎ立てる中で、秀次に話しかけたのは御影弓弦だった。彼は騒がしすぎる周囲に負けないように声を張っていた。
「べつに、いつもどおりだよ」
体育祭を楽しみにし過ぎて、前日から小学生のように寮のロビーではしゃいでいるグループに属する生徒ではないのだ。秀次はちゃんと寝て体調も万全だった。
「そうか。俺は暑くて参っちゃうよ」
「まぁ暑くはあるけど。それより、どうしたんだよ。俺に何か用事でも?」
普段、話し出せばフランクに話せる中ではあるが、なにも用事がないのに話すということは滅多にない。そういう微妙な間柄だ。教室で最後に残ったときも、話すとき常に最後の別れ際をどう締めるかを考えて話している。
「べつに用事があるわけじゃないけど、話しかけることだってあるだろう? まぁでも、強いて用事というのなら、岸本さんの体調は最近どうだ?」
体育大会に参加しても、何も問題なさそうなのか?
どうやら、秀次が思っているよりも先日の四季の騒動は広まっているらしかった。平野美穂が四季に止められる前に、何人かに話してしまったのだろう。それにしても御影と四季は仲が良かっただろうか。それほど接点のないクラスメイトを、わざわざ気遣う必要などないのに……。
高校生らしいヒラメキがあって、秀次はニヤリと微笑を浮かべた。
「どうしたんだよ。もしかして四季のこと気になってるのか?」
常に明るくて、チラッと見た横顔を可愛いと思うこともあるが、仲良くなると色々と注文があるので、仮に付き合うとなると大変かもな。と、内心思った。まず夜の散歩は絶対条件。屋上で昼寝をする余裕だってなくなる。
「そんなんじゃないよ。問題ないならいいんだ。お前も、最近になって目眩とかないか?」
「俺に? 俺はただの健康男児だよ。漆原先生が言うには貧血は女子の方が多いらしいよ」
星雲高校全体に、放送部のアナウンスが流れた。
『続きまして、二年生による棒引きです。選手の皆さんは入場してください』
集団がぞろぞろと動き始めた。秀次と御影も転ばないように歩調を合わせて進んだ。御影が秀次にだけ聞こえるように言った。
「何もないならいいんだ。保健委員として、一応気にかけておいたんだ」
立場を利用してわざわざ聞くというのが、もう明言しているようなものだ。否定しようとするのも、男子学生そのものだなと、あくまで大人目線の感想を秀次は抱いた。
(というか保健委員だったのか、あいつ)
御影は数少ない友達だ。純粋に、恋を応援することにしよう。ただ、秀次のそんな思いは、棒引きが終わった後のお昼休憩に入ると、大きく揺れた。
それは、秀次と四季、加えて健吾と月見で昼食を取っているときに起きた。
「男子の百メートル走、もうちょっと頑張りなさいよね」
四季がそうぼやいたのをきっかけにして始まった会話だ。
「俺は一位だったし、秀次も二位だったぞ?」
「他の人たちよ。陸上部以外は惨敗じゃない」
月見は今日もまた上品に食事をしていた。体操着でも美しく見えてしまうのが不思議だ。
「あと、御影さんも一位でしたよ。そういえば、御影さんはどこでしょうね。今日は全然見ませんね」
秀次も言われて気づいたのだが、棒引き以降御影の顔を見ていなかった。しかし、重要なのは御影が居るか居ないかではない。月見が、御影に会いたいような言い方をしたことが問題だ。
(いや、ただの俺の勘違い……だよな?)
そうして昼食をもやもやとした気持ちで終え、グラウンドに戻ったところで花形種目の一つ、星見の島一周駅伝がスタートした。
三人一組で、島の外周を三等分して走るのだが、最初は全員一斉にスタートすることになっている。まったく歓声の送られない第二走者への救済措置でこのような形になったのだ。グラウンドから校門まで走ると、第一走者以外は車で移動だ。
駅伝が行われている間も体育祭のプログラムは進む。午後の一つ目の種目はプログラムの中でも目立っていた数学競争というものだった。
百メートルのコースに十メートル間隔で数学の問題が設置され、純粋な百メートル走のタイムと問題の正答率を合算して順位を決める。この種目はかなり盛り上がった。月見が出場し、全問正解で一位を獲得したからだ。
(あいつ、すっかり学校の人気者になって……サッカーボールで気絶していたくせに)
日陰で休んでいるところに、四季が走り寄ってきた。
「ちょっとシュウ! もうすぐ棒倒しだよ!」
「あ、もう俺の番?」
棒倒しは各クラス五人が選出される。各学年二クラスが同じ色の団になるので、つまり各学年十人が選出され、三学年合同の三十人による対戦だ。
重い足取りでゲートに向かう秀次に、四季が激励の言葉を送った。
「シュウ、頑張ってよ? 勝てるところは勝っておきなさいよ」
四季がそんなことを言うとは思っていなかった。バスケの大会が近いので、体育祭よりもはるかにバスケ優先だったはずの四季が、これほどに気合を入れたことを言うとは。
「どうしたんだよ。体育祭にそれほど乗り気だったか?」
「だって、優勝したら食堂のデザート無料券を七つ貰えるのよ?」
バスケが優先なのは変わりないが、体育祭をやるからには優勝して、特典をゲットしたいのだと言った。
「へぇ、そんなの知らなかった」
「とにかく、デザート無料券は魅力的よ。頑張ってね」
背中を押されて挑んだ棒倒しは、体つきの良い男子ばかりの暑苦しい競技だった。
秀次はこの競技を名前の印象から勝手に平和的な競技だと思っていたので、完全に選ぶ種目を間違えたと後悔した。競技が始まる前からわかるのだ。この競技は格闘技に近いものだと。
そして案の定、競技が始まってすぐに秀次は弾き飛ばされていた。
「こらー! シュウ! 頑張りなさい!」
観客席から四季の声がよく聞こえた。どんな表情をしているのかも想像できた。
(頑張ると言っても、体格に差があり過ぎる)
完全に自分は戦力外だとして諦めていた。しかし、膝についた砂を落としながら立ち上がった秀次の目の前に不可解な光景が広がっていた。
……
誰も、秀次のことを見ていなかったのだ。対戦相手の誰一人として、秀次の存在を認識していない。そう思えた。
秀次はそっと動いた。歓声は聞こえる。四季が叫ぶように応援してくれているのも聞こえる。それなのに……。
(俺だけ、違う空間にいるかのような……)
今はうだるような夏の体育祭。恐怖を感じなければならないものなど、熱中症意外に何もない。けれども、寒気がした。
ぞわぞわと鳥肌が立って、気味悪さも感じたが、秀次はとにかく相手チームの棒に向かって走った。そして、棒を守る相手の肩を足場にして棒の先端に飛び乗った。ここまで来てようやく相手チームは秀次の存在に気づいた。
その時には既に棒はほとんど倒れており、立て直すのは不可能だった。
競技終了の笛が、秀次をただただ暑いグラウンドに引き戻した。チームメイトたちが秀次に駆け寄る。
「よくやった清峰! ナイスプレイだ!」
胴上げされて称賛されているときも、秀次は先ほどの偶然とは思えない現象に心取られていた。
(偶然にしては出来過ぎてるだろ。三十人全員が、俺に気づかないなんて)
肩を踏んだ男子生徒すら、目の前から秀次が迫ってきていたはずなのに、まるで見えていないようだった。
二回戦は秀次の出番はなかった。てきとうに味方の背中を押していると、いつの間にか勝利していた。
観客席に戻り、四季に肩を叩かれるとようやく鳥肌が収まった。
「やるじゃんか! シュウ!」
四季の笑顔を見ていると先ほどの現象について、真剣に考えているのが馬鹿らしくなった。
(まぁいいや。人は視ようとしているもの以外は視界に入っても視ることができないって聞いたことがある。きっとそれと同じだ)
四季が次の種目に出場するとのことで秀次の元から離れると、入れ替わりで月見が秀次に話しかけた。
「先ほどはお見事でした」
「いやいや、会長こそ。数学、全問正解だったんでしょ?」
二人は日陰で休むことにした。グラウンドの隅で腰を下ろし、遠目に四季の参加しているスウェーデンリレーを観戦していた。
「駅伝はどのあたりでしょうね」
「さあね。そろそろ第二走者かな」
月見は競技よりも、目の前を通る生徒一人ひとりの顔を見ているようだった。誰かを探すためだというのは、彼女の次々に移り行く視線ですぐにわかった。
その相手が誰なのかを、探ってもいいのか、それとも触れない方が良いのか。
「……誰か探してるの?」
「わかります? はい。御影さんを」
予想した名前だ。実際に口にされるとやはり複雑な気持ちだ。
御影は神出鬼没だと月見は話す。
「あの人、いつもシレっといろんな場所にいるんですよね。屋上にいたり、グラウンドにいたり。時々、堤防を散歩していることもあるんですよ。それで、なんだか見つけると珍しい人を見つけたみたいで楽しいんです。同じクラスなのに、変な話ですよね」
秀次は踏み込んで聞いてしまうことにした。
「御影のことが好きなの?」
月見は驚きで目を見張った。まさか私が色恋に浸るような学生に見えますかと言わんばかりの呆れたという表情を秀次に見せた。
「そんなんじゃありません。御影さんは私なんて眼中にありませんよ。ただ、生徒会でたまに話が出るだけです」
どこか触れてはいけないところに触れてしまった気がした。いつものおしとやかな雰囲気が消し飛んでいる。柔らかい敬語が棘のある敬語に感じる。
「生徒会で、御影の話が?」
「はい」
月見は生徒会で取り上げられた御影に関する話の内容を秀次に話した。
御影は中学時代に問題を起こし、停学処分を受けていたことがあるそうだ。その問題というのが、教師に暴力を振るったというもの。
今の御影弓弦からは想像もできないが、念のため生徒会だけでも注視しておこうという話になったのだ。
「まぁ、生徒会と言っても私と半崎さんだけですけどね。半崎さんには誰にも話さないように言ってあります。清峰さんも、他言は無用ですよ」
半崎卓也。生徒会副会長だ。
(あの御影が暴力か、信じられないことだけど……)
「それを、俺に話していいの?」
月見は「はい」とはっきり言った。
「御影さんのご友人で、私から見ても清峰さんは信頼できる方ですから。まぁでも、私が御影さんを好いているなんて、そんな浮ついた思考をするお方とは知りませんでしたけど」
やはり、機嫌を損ねてしまったのは間違いなかった。月見は滅多に嫌味な言い方をするような人間ではないのに。
優等生にも苦手な話はあるようだ。
「わかったよ。悪かったって」
タイミングよく借り物競争の選手をゲートに呼ぶアナウンスがかかったので、秀次はその場から離れた。
次に話すときには月見の機嫌が直っていることを祈りつつ、秀次は月見から聞いた御影のことを考えていた。
(暴力を振るう奴には見えない。だけどもし本当なら)
本当なら、四季とのことも……。
秀次は気持と頭を切り替えることにした。事実かどうかわからないことで、人の印象を変えてしまうのはよくない。噂で人を評価するのは確実に間違っている。いずれ、本当にその時が来たら解決すればいいことだ。
秀次は入場ゲートへ向かった。
借り物競争は棒倒しのように殺伐としておらず、得点の高い種目でもないので気が楽だった。一緒に走る相手と話したりもした。
いざ秀次の番になり、お題の紙を取ってみると、そこにはあまり見慣れない漢字の列があった。
【聴診器】
(聴診器って、あの医者が持っているやつだよな。誰がこんなお題作ったんだ)
ケチをつけても、聴診器を手に入れなければこのレースは終わらない。
珍しいものではあったが、幸いにもそれを手に入れることのできる場所は知っていた。秀次はグラウンドの隅に設置されている真っ白な医療テントに向かった。
勢い良く、テントの入り口を開けて、
「すみません! 聴診器を貸してください!」
テントの中には漆原玲がいた。扇子で首元を扇いでくつろいでいるところだった。
「どうしたのさ? 誰か倒れた? その場合は落ち着いて一一九をダイヤルして……」
「冗談はいいですから」
一一九でつながるのは本島の東京都の救急だ。
「借り物競争です」
「ああ、そういうこと」
漆原が扇子をパチンと閉じ、その先端で聴診器の位置を示すので、秀次はお礼を言って聴診器を手に取って急いでゴールに向かった。
観客席の人混みをどうにか抜け、ゴールにたどり着きはしたが、結果は最下位。他の人のお題はヘアピンや眼鏡等で、明らかに聴診器だけ難易度が違っていた。
『はい、借りたものは競技終了後、ちゃんと返してくださいね。では次の組です!』
他の組の成績が良かったおかげで、クラスメイトからも四季からも(四季は見ていなかったようだが)何も言われることなく、無事に借り物競争が終了し、秀次の参加する種目はすべて終了した。あとは日影で休んでいるだけの楽しい時間だ。
医療テントに入り、漆原に聴診器を返す際に秀次は呼び止められた。
「ちょっと清峰君。私これから休憩なんだ。少し付き合ってよ」
漆原玲は生徒からも人気のある人だ。一緒にいると面倒な噂が立つのではないかと思ったのだが、秀次が断る言葉を探す暇を漆原は与えなかった。
医療テントから出て、二人は一緒に歩いていた。
「もしかして、聴診器を貸してもらったお礼でもしろと?」
「それもいいけど、単純に一人で休むのが寂しかっただけさ」
この人は上手いこと、男子が言い返しにくいことを言う。
二人は騒がしいグラウンドに背を向けて校舎に向かった。グラウンドから一番近い西棟の玄関でスリッパに履き替えて校舎に入ると、西棟の教室には構わずに東棟に繋がる連絡通路を渡り始めた。
「売店に行くんですか?」
「正解。ついでに食堂で休んでいこう。もう私は外に出ているの疲れたよ」
結局、売店のオレンジジュースを奢ってもらえたので秀次としては得ができた。漆原はアイスコーヒーを選んだ。
「体育祭は、楽しんでるかい?」
「まあまあですね。先生みたいに暑さに負けないように」
「私だって若い頃はずっと外にいても大丈夫だったさ。それより、棒倒しは大活躍だったと聞いたよ」
食堂には秀次たちと同じく、暑さから逃げてきた生徒たちが数えるほどだがいた。汗をかいた体に、冷房の風が当たると急激に熱が下がり気持ちがいい。
「あれは本当に偶然なんですよ」
誰一人として、清峰秀次のことを見ていなかったのだから。
「誰一人? 一人ぐらいはいただろう」
「いいえ、本当に誰も僕を見ていませんでしたよ。たぶん観客も。あ、でも四季が俺を応援してくれる声は聞こえたな」
四季が、デザート無料券のために出している声をしっかりと聞いていた。「シュウ」と名指しをしたのも聞こえた。
「四季と言うと岸本さんのことだよね。仲がいいねぇ。君たちは付き合っているんだって? 平野さんから聞いたよ」
時々、そんな勘違いをされるのでもう慣れていた。こういう話が出る度に、
「そんなんじゃありません」
と、答えるのだ。このときは、先ほど月見が感じていたであろう憤りを秀次も感じた。
「なんだ、そうだったの」
漆原はアイスコーヒーをごくごくと飲み、すぐに缶を空にしてしまった。秀次はなぜ自分を休憩に同行させたのかを尋ねた。
「さっきも言ったじゃないか。一人だとつまらないと思ったからさ。まあ、それとついでに最近の君のガールフレンドの調子を聞きたくてさ」
「ガールフレンドではないですけど、調子はいいですよ」
あの日以降、目眩がすることもなく食事もしっかりしており、睡眠も十分に取っている。不健康な生活は体のどこかしらを使って表現されるが、今の四季からはそんな気配すらない。
「それはよかった。睡眠は美容にも大事だ。君も夜更かしには気をつけた方がいい」
漆原は頬に手を当てて肌を労わった。彼女は二十八歳。まだまだみずみずしい肌を装備できる乙女だ。
秀次は一つ、思い出したことがあった。夜更かしという言葉で、これまでずっと機会があれば聞いてみようと思っていたことだ。
「夜更かしと言えば先生。夜って保健室で仕事されているんですか?」
「保健室で? 仕事というよりも保険医は三人でローテーションして、いつでも対応できるようにしているけど……」
しかし、夜の当番の人は保健室で仕事をすることはあまりないと言う。基本的に急患は寮で発生するので、保険医も寮の自室に待機しているのだ。
「だから夜中に私たちに用があれば、まず電話してもらうことになっているんだよ」
一一九ではなく、保険医の携帯に繋がる番号に。
「あ、電話するんですね。それは知らなかった」
「入学のときに説明しているはずなんだけどね。生徒手帳にも書いてある。どうしてそんなことを聞くんだい?」
保険医の仕事体制など聞いて、何か悪い企みでもあるかのい?
問い詰める漆原に秀次は首を横に振ってから、質問の意図を話した。先日、五月頃のことだが、夜保健室の前を通ったとき、微かに光が漏れていたのだ。
「それで、こんな遅くまで仕事しているなんて、大変だなと思って」
秀次は追及されるのを恐れ、保健室には入っていないことにした。
「大変って。ほんとだよ、仕事は大変だよ」
いつか仕事をしてみればわかると漆原は言った。どんなに好きな仕事でも、大変と感じたり、やりたくない部分が必ず浮き出てくるから。
と、仕事について簡単に話してから、保健室の光については心当たりがないと言った。
「気味が悪いね。防犯カメラつけようかな」
「つけてないんですね」
自立警備ロボットがいるから基本的に安全だという考えだ。以前、防犯カメラを保健室にだけでも設置したらどうかと提案したのだが、稟議が通らなかったのだそうだ。
「この麗しの女医が、男子たちに襲われたらどうするんだ」
この先生は時々自虐ネタを吐く。だが、こういう美人が言うと、ネタなのか本気なのかの判断が非常に難しい。
秀次は聞かなかったことにして話を逸らした。
「そういえば、ずっと聞いてみたいと思っていたんですけど先生はどうしてこの島に来たんですか?」
医者の免許を持っているのであれば、本島でいくらでも仕事はあったはずなのに。どうしてこんな辺境の地で保健室の先生などしているのか。
きっと、星雲高校の生徒であれば誰しも一度は思ったことだ。漆原に対してだけではない。理事長以外のすべての教師陣に共通して投げかけることのできる質問だ。
タバコを吸っているわけでもないのに、妙に様になって息を吐いてから漆原は言った。
「乙女の都合上、お金が必要なんだよ」
それは、話す気はないと言っているのだと、秀次にもわかった。話したくないことの一つや二つ誰にだってある。それをわざわざ聞き出そうとはするまい。
「乙女の都合なら、もう聞きません」
「お、話のわかる男子はモテるよ」
話している間に、体育祭のアナウンスが幾つか流れていた。現在の種目は借り物競争の亜種、借り人競争だ。いたずらなお題が用意されていたりするので、ある意味盛り上がる種目だ。
(たしか、会長が出るよな)
会長が例えば、「かっこいい人」なんてお題を引いてしまった日には、しばらくその話題で学校は埋め尽くされるだろう。
アナウンスとは別に、今度は階段を駆け上る音が聞こえてきた。ドタドタと慌てている。
「漆原先生、やっぱりここにいた。ちょっと来ていただけますか。生徒が一人、熱中症に。念の為先生にも診ていただきたい」
「わかりました。すぐに行きます」
漆原は白衣をマントのようにはためかせて走り出した。患者が出たとなれば怠けた態度は一変し、医者の顔になる。その姿に秀次は一瞬だが見とれてしまった。
何を隠そう、秀次も漆原玲のファンの一人なのだ。真剣な眼差しと、生徒たちと話す柔らかい眼差し。医師一人に大きな責任がのしかかるこの星見の島で働く彼女は、秀次がこれまでの十七年間で出会ってきた大人の中で、最もカッコいい大人だったのだ。
「あ、君は清峰君だよね。こんにちは」
漆原を呼びに来た宇井将司という保険医に話しかけられた。
「こんにちは」
「体育祭をおさぼりかい? 漆原先生と何を話してたんだい?」
「乙女の秘密です」
秀次が言うと、宇井は大いに笑った。
「ははは! それなら私は何も聞かないでおこう。乙女の逆鱗に触れるのはよろしくない。きれいな人ほどね」
仲間内でも、一定の距離を置いておくのが一番いい仕事の仕方だ。
「君も、適当にグラウンドに戻りなよ。こういうイベントは達観するよりも楽しんだ方がよかったりする」
「はい。そうします」
宇井が戻ってから数分後に、食堂に居座る理由のなかった秀次は言われたとおりグラウンドに戻ることにした。
歩いているうちに、グラウンドの歓声の中で何が起こっているのか気になり始めた。駆け足で西棟の玄関で靴を履き替え、グラウンドに出ようとしたときだった。偶然にも、校舎の影で一休みしている理事長の林道純彦と目があった。いや、あってしまった。
秀次は呼び止められた。
「理事長先生、こんにちは」
「こんにちは。今日は暑いね。休憩してたのかい?」
「はい」
秀次は漆原に買ってもらったオレンジジュースを見せた。
「水分補給を少し」
歳を取るほど話が長くなるのが人間の性だと秀次は思っているのだが、このときも、理事長はきっと理事長の思う「良いこと」を話すために長い立ち話になるのだろうと覚悟を決めていた。
雄弁ゆえに刻まれたしわが、ゆっくりと動き出す。
「今日はいい天気だね。やはり、高校の日常には太陽が似合う」
「日常に、ですか?」
「そうだよ」
青春を送る若芽にはやはり太陽が似合う。写真に残すのならやはり青空が大切だ。
「星見の島は一年を通して雲のある日が多い。今日がその日でなくてよかった」
「星雲高校って体育祭や文化祭にとても力を入れていますよね。何か理由が?」
理事長はよく聞いてくれたと言わんばかりの笑顔をしわの奥に浮かべた。秀次より、はるかに長い年月を生きた、まったく敵意を感じない優しい老人の笑顔だ。
「高校生活はそのとき限り。同じ仲間と同じ時間を過ごすチャンスは、おそらく最初で最後。私は若い子たちに、めいっぱい高校生活を楽しんでもらいたい」
理事長は締めくくりに、欲を言えば、星雲高校の理事長はあんな顔をしていたなと、記憶に残っていてほしいが。と、付け加えた。
「こんな島に高校を作った人として、たぶん覚えていますよ」
「そうだとしたら、嬉しい限りだ。そうだ、私がこの島と学校の命名者だということは知ってるかい?」
そこからの話は、堤防で四季に聞いた話とほとんど同じだった。
「星見の島という名がひらめいたときは身体に衝撃が走ったよ」
島を買った後に、夜の島を散歩していると頭にお告げのように降ってきたのだ。星を見るときのように、上を向いていれば輝かしいことが人生にはきっとある。
「その後、星雲高校というのはすぐに思いついたんだよ」
すでに知っていた話ではあったが、実際に命名者本人から聞くとそれが本気なのだと感じられた。本気でこの人は、その名に思いを込めているのだとよくわかる。
(やっぱりこの学校に来て正解だったんだろう)
せっかく学校に行くのであれば、本当に生徒のことを考えてくれる大人のいる学校に行きたいというものだ。
グラウンドからさらに歓声が聞こえた。アナウンスは最後の種目、千二百メートルリレーの開催を告げていた。
「さ、私たちも戻ろう。最後の種目を見ておこう」
秀次は理事長に促され、グラウンドへ走った。
グラウンドの二年三組が使っていた観客席に戻ると、何やら慌ただしい様子だった。状況の把握ができない秀次に、四季が説明した。
「リレーに出る御影君がいないのよ。もうすぐ始まっちゃうのに。シュウは見てない?」
「見てないよ」
棒引き以降、結局一度も見ていない。
「そういえば会長も神出鬼没だって言っていたもんな」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ。ああもう、どこにいるの」
二年三組総出で御影の捜索が始まったのだが、グラウンドのどこを探しても見つからなかった。グラウンド以外の、例えば校舎まで探しに行くとなると、時間が足りそうになかった。
『千二百メートルリレーに参加の生徒は至急入場ゲートに集まってください』
放送部のアナウンスがさらに慌てさせる。
秀次には一つ、心当たりの場所があった。屋上だ。
校舎西棟の屋上は解放されており、御影はよくそこで昼寝をすると先日聞いたばかりだ。が、やはりあそこまで探しに行っていては間に合わない。
(もしこのまま来なかったら、誰が出るんだ?)
秀次の内部に不穏な考えが煙のように充填された。それは、選ばれるのではないかというシナリオを隠す煙だ。体育祭では、所属する部活に関係した競技には参加できないことになっている。フットサルにはサッカー部は出場できないし、リレーには陸上部は参加できない。
秀次の悪い予感は的中し、体育委員がゼッケンを秀次に持ってきた。
「はい、清峰君、お願い」
「本気か? 御影に比べたら……」
アナウンスが三度流れ、いよいよタイムリミットが迫ったときだった。秀次の肩に、ポンっと掌が乗せられた。
「ごめん。間に合う?」
「ああ! 御影君!」
心の底から安堵した。そこまで速いわけでもないのに、全校生徒の前で走ってチームに迷惑をかけるところだった。
「屋上にいたのか?」
「ああ、危なかったよ」
「こっちのセリフだ」
御影はゼッケンを装着し、クラスから押し出されるようにゲートに移動した。御影の到着後すぐに選手が入場し、一年生の女子からスタートした。
観覧席からリレーを応援していた秀次に、四季がからかうように言った。
「冷や汗出てたよ?」
「それは出るよ。こっちはまったく走る気持ちなんて作ってなかったんだから」
リレーの選手たちに送られる声援は、赤のハチマキを付けた二年の男子、つまり御影のときにその日最大になった。直前まで三組中三位だったにもかかわらず、御影にバトンが渡った途端に逆転してしまったのだ。
赤団はリードを守り、無事に先頭でゴールテープを切った。
(やっぱり、走らなくてよかった)
その後、リレーは始まるときとは違いスムーズに選手が退場した。これにて、体育祭の一通りの種目は終了したのだが、星雲高校にはもう一つ、忘れてはならない種目がある。
『間もなく、星見の島一周駅伝の選手が帰ってきます!』
星見の島一周駅伝のフィニッシュは、スタート時と同じくチーム三人そろってのゴールとなる。第一走者と第二走者は走り終わった後、正門で第三走者を待っているのだ。もちろん、グラウンドからは見えない位置で待っている。
アナウンスから少しして、駅伝のチームが見えたとき、ハチマキの色は赤だった。
駅伝選手は温かい歓声に包まれながらゴールすると、各々のクラスメイトの元へと戻った。二年三組も、懸命に走った生駒健吾を迎え入れた。
「やるじゃん生駒君! これで赤団が優勝だ!」
まだ結果はわからないが、おそらく優勝しているというのは誰でもわかった。
「どうだ秀次! 俺もなかなかすごいだろう!」
「お前がすごいのは知ってるよ」
そう言うと健吾は照れてしまったのか、逃げる様に秀次から離れた。そして、月見に向かって。
「会長、なんとか一位とれたよ!」
「ええ、さすがです。見ていましたよ」
その後の閉会式にて、赤団の優勝が正式なものとなった。ほとんどの生徒が、デザート無料券のことを頭に浮かべたのだろうが、高校生ともなるとそのことではしゃいで進行を妨げることはなかった。
閉会式では林道理事長が感極まったのか、開会式に比べて話が数段長かった。仕方のないお爺さんだと思い、誰も私語を挟まずじっと聞いていた。
団ごとの記念撮影をした後に解散となり、各々のクラスへと戻った。
短い帰りのホームルームで、デザートの無料券を担任から配られたとき、四季はその日で一番の笑顔を見せた。
「随分と嬉しそうだね」
「それはもちろん! いつもは我慢してるんだもん。食べまくるよ」
デザート券程度で喜べるなんて、なんて感性の優れた子なのでしょう。
担任の先生がしっかりと体を休めるようにとお決まりの言葉を並べて、暑さと青春が混じった体育祭は終了した。
体育祭終了後
秀次は四季に連れられて西棟の一階を歩いていた。太陽もかなり傾いてきた頃、部屋に戻ってシャワーを浴びようと思っていた秀次だったが、四季に捕まって帰れずにいた。
「四季さ、そのサプリもらうのどうしても今日じゃないとダメなの?」
二人は保健室に向かっていた。四季が以前漆原からもらった貧血に効くサプリを切らしたので再び貰いに行くのだ。
薬と違って必ず飲まなければならないものではないのに、四季は今日貰うことに拘った。
「俺は体育祭で疲れたよ」
「私だって疲れてるわよ。あんたは後半、何も出場していなかったから大丈夫でしょう?」
「そんな勝手な」
言われてみて気づいた。秀次は確かに後半の種目に参加していない。借り物競争以降は漆原、それから理事長と話をしただけだ。
(まぁ、そのおかげでなかなか中身のある一日になったのだけど)
憧れの漆原と一対一で話すことができて、理事長からは体育祭やこの学校への思いを聞くことができた。
秀次にとってはそれだけで一日を終えるのに十分すぎる内容だった。
が、この先の保健室で起こる出来事。それは、秀次にとって満足感を吹き飛ばす程、衝撃的なことだった。それまでの出来事を上書きしてしまう事件が待ち受けていた。
「失礼します」
四季はノックもなしに保健室を開けた。いつもであれば当番の保険医が出迎えてくれるのだが、そのときは違った。当番の保険医どころか、そのときは三人の保険医がそろっていたにも関わらず、四季と秀次を迎える声はなかった。
三人は輪を作って、一点を見つめていた。
その理由は、すぐにわかった。
「先生?」
四季が言うと、ようやく三人が秀次たちに気づいた。
「岸本さん、清峰君も……どうしたの?」
「この間のサプリをもらいに来たんですけど、それよりも……」
三人の保険医が囲んでいたのはガラクタだった。壊れた機械だ。ただ、壊れてバラバラになっていても元が何であったのか、その推測はできた。
星雲高校にいる人間であれば誰でも推測できる。
「それは、自立警備ロボット。ですよね?」
星雲高校を、否、島を守る強力な兵隊。自立警備ロボットが、どうして壊されている。
(バラバラだ……トラックすら持ち上げるロボットなのに)
秀次と四季が自立警備ロボットだった物を見ていると、漆原がそれに布をかけた。
「二人とも、これは見なかったことにできる?」
四季がゆっくりと聞いた。
「えっと、それはどういう」
どういうことですか? 隠さなければいけないの?
「ロボットが壊された理由も、どうやって壊したのかもわからないけど……」
それらに加えてわざわざ保健室で破壊した理由もわからない。
「このロボットが破壊されるというのは、この島にとってとても危ないこと……重大なことなの。そのことはわかるね?」
四季はこくりと頷いた。四季も、混乱しているのかもしれないが、このロボットが壊されることの危険性、意味することをなんとなくわかっている。
この島に、敵意を持った存在が近づいている。いや、もういるのかもしれない……。
「お願いね。今はいたずらに話を広げないこと。いいね」
黙りこくった四季に代わって秀次が返事をした。「わかりました」と。
「理事長には私から話します。先生方お二人も、それでいいですね?」
保険医の二人が頷くと漆原も頷きを返した。大人同士の何かのコミュニケーションを取ったようだった。
漆原がパチンと手を叩いた。
「さて、せっかくの体育祭だったのにごめんね。貧血のサプリだよね? すぐ用意するからね」
秀次と四季はサプリが用意されるまでの間、自立警備ロボットの残骸が片付けられていくのを、じっと眺めていた。
島唯一の悪に対する軍事力が、ごみ袋に回収されていくのを眺めていた。