第一章・星見の島の星雲高校
プロローグ
いつだって、肝心なところで間違えるんです。僕はそういう人間です。
自分でも、わかっています。
肝心なところで僕は必ず運命の女神に見放される。彼女はいつ見ても微笑んでいるというのに、いざ必要なときに必ずそっぽを向いている。神様というのは、そういうものだ。
すべてが終わった後、何食わぬ顔で心に寄り添おうとしてくる。
(違う。それは、僕が責任を負いたくないから。罪はないと、言い訳をしたいから。すべて僕が、意気地なしだっただけ)
力のない、いい子だっただけ。ただ、それだけ。
不幸な事、目を背けたいことに直面したときにのみ神様に頼る。神様というのはそういうものだ。
第一章・星見の島の星雲高校
いつまでも主張の激しい夕陽が、海と空の境界を染め上げている。若々しい緑の葉が、この時間になると燃えるように猛々しい。
ここ、星雲高校の保健室にも、夕陽は窓ガラスを突き抜けて届いていた。
「目眩は低血圧による一過性のものだね。それほど気にしなくていいと思うよ、今日のところは安静にね」
黒くて艶のある髪が、顔の輪郭に沿って流れている。きりっとした目元と、それでも優しく柔軟な性格をしており、男女ともに人気のある保険医、漆原玲が言った。
漆原の前に、患者の座る小さな回転イスがある。現在、診察を受けている患者は岸本四季。二年三組の女子だ。彼女の右後ろで先生の話を四季以上に真剣に聞いている同じクラスの男子、清峰秀次の正面を向くように回転すると、わざわざ足を組み、雄弁に内心を語る瞳で見上げた。
「ほらね、どうってことないじゃない。目眩なんてよくあることよ」
「よくあることで気を失っていたらたまらないって。先生、ここ最近は特に頻発しているように思います。何か、考えられる原因はありませんか」
漆原はさながら病院の医師のように(実際役割としてはそのとおりなのだが)患者のカルテを見ながら、ボールペンで自身の頭をコンコンと叩いている。「そうだねぇ」と、便利な言葉で間を置き、カルテから四季に目線を戻した。
「ここの施設は本島の病院にも引けを取らないレベルのものがそろっているけど、それで調べても、特に問題はないんだよね。強いて言うと、少し貧血気味かな。それも成長期の影響だと思うし」
星雲高校の保健室は漆原の言うように保健室というよりも病院に近い部屋となっている。保険医も漆原を含めて医師免許を持った三名が在中しており、患者用のベッドもいくつもある。保険医の休憩スペースも合わせると保健室には全部で五つもの部屋がある。
地元でお世話になっていたクリニックが二つ分だと、秀次は保健室に来る度に思う。
確認だがここは保健室だ。ただし、一般的な学校にある一時治療エリアとは格が違う。本格的な医療を提供する場所だ。何故、格上げする必要があったのか。それには単純な理由がある。聞けば誰しも納得する。
星雲高校の存在する場所が、絶海の孤島だからだ。ここが、星見の島と名付けられた島だからだ。星雲高校だけがある、星雲高校のための島だ。病院なんてものはない。保健室で、すべて済ませなければいけない。
そんな孤島に用意された、医療の前線と遜色ない設備で調べても、四季の身体は健康なのだという。
「貧血ですか。四季は心当たりある?」
「わかんないよ。どの程度で貧血と判断されるのかも知らないし」
四季は放課後の部活動、バスケットボールの練習中に倒れ、保健室に運ばれてきた。ボールが頭に当たったとか、そういう外的な原因で倒れたのではない。
倒れた後、チームメイトが三人がかりで迅速に保健室に運んだそうだ。今、その生徒たちが保健室にいないのは、酷い慌てようでうるさかったため、漆原が追い出したからだ。
と、追い出して間もなくして、四季は何事もなかったかのように、平然と目覚めた。保健室のベッドは、寮と違ってフカフカでした、なんて言い出しそうなケロッとした表情だったという。
その後、四季のチームメイトから連絡を受けた清峰秀次が駆け付けたときには既に、四季は回転イスに座り、診察を受けていた。
「わからないことないだろう。立ちくらみがするとか言ってたじゃないか。この間だって」
「わかったわかった。私は貧血ですから」
二人は高校からの付き合いではあっても、その様子はまるで幼馴染だ。岸本四季が保健室に来るときは大抵、清峰秀次も同伴するため、漆原もこの光景に慣れていた。そして、清峰秀次がいるときと、いないときとの四季の態度の差が面白くもあった。
「貧血は誰にだって起きる可能性のあることだよ。特に女の子に多いかも。ちゃんと食べてちゃんと寝ていれば大丈夫。栄養バランスは意識すること。少し待ってて」
漆原はボールペンを置いて奥の席へと向かった。お医者様という病院で最上位の監視がなくなった途端、四季はイスで回って遊び始めた。
「みんながすぐに対応してくれて良かったよ。どう倒れたんだ?」
右足で床を蹴って回転の力を加え、しばらく惰性で回転すると、器用にも秀次の目の前で止まった。
「急に視界から色がなくなって、自分が倒れていくのはわかったのだけど、そこからここに来るまでの記憶はないのよね」
部活の、五分休憩の終わりだった。練習を再開しようとして立ち上がった際に倒れたそうだ。倒れたのが体育館という平面地帯で良かった。家の浴室や玄関で倒れたときに頭をぶつけて、大怪我をしたという話は珍しくない。
漆原は宣告どおりすぐに戻って来た。右手に、薬局や病院で見かける処方袋を持っていた。
「貧血対策のサプリね。でもなるべく、これに頼ることなく、食事から栄養を取るようにね。食堂の定食メニューはどれもいい栄養バランスをしているから。残さず食べればほんと、よっぽど大丈夫だから」
四季は袋の中の錠剤を確認した後にバスケットパンツのポケットにしまった。
「それじゃあ、お大事に」
「はい。ありがとうございました」
保健室から出ると、看守から解放されたと言わんばかりに背伸びをした。二人が廊下に出るのを待っていたかのように、終業のチャイムが学校に鳴り響いた。
部活動の終わりを告げるチャイムだ。星雲高校では基本的に午後六時以降の部活動は禁止されている。大会や発表が近く、どうしても練習を続けたい場合は事前の届け出が必要だ。
このルールはつまり、今日はもうバスケットボールの練習はできないことを意味している。
「もうこんな時間だったんだ」
「漆原先生も今日は安静にしているように言っていたし、ちょうどいいよ」
二人の位置からだと、太陽の姿はすっかり見えなくなっていた。茜色の世界から、夜に移り変わる薄い紺色の空になっている。これは、逢魔が時、だったか。
「まぁそうよね。そうだ、シュウはまだ夜ご飯食べてないよね。すぐ着替えてくるから、待っててくれる?」
秀次のことをシュウと呼ぶのは四季だけだ。シュウは真剣に頼みごとをすれば断らないと四季は知っている。だから目を見て頼めばいい。
「いいよ。べつに急がなくてもいいから、着替えておいで」
「はーい」
大きく手を振って、早歩きで部室へと向かった。四季の背中を見送り、夕食まで暇になった秀次は、まさしく暇人がしているように、中庭のベンチで時間を潰すことにした。その場所で空を見上げると、校舎によって六角形に切り取られた歪な空を見ることができる。
星雲高校の校舎は三つの建物からなる。それぞれ、北棟、西棟、東棟と簡単に呼ばれている。北棟と西棟は四階建て、東棟だけは五階建てになっている。保健室は西棟の一階にあるため、中庭までは近かった。
それぞれの建物は等間隔の距離を置いて三角形の頂点の位置にあるので、中庭から空を見ると六角形の空が出来あがるのだ。
校舎の内部は主に北と西の二階から四階に各学年が並んでいる。西に一から三組。北に四から六組という具合だ。東には部活動の部屋や食堂、音楽室など、特殊な部屋がある。
また、大きいのは校舎だけではない。星雲高校の敷地面積は何といっても広大だ。島の半分が高校の所有する土地になっている。
先ほど四季が着替えてくると言って向かった体育会系部活動の部室というのは、校舎から西に位置している。三百メートル四方の第一グラウンドと、二階建ての体育館の間を抜け、さらに弓道場と武術道場の先にそれはある。
実際に秀次が巻き尺やメーターで計測したことがあるわけではないが、少なくとも往復で六百メートルの距離があるのだ。一キロの六割と考えると長く感じる。そのため、ただ着替えに行くと言っても、それなりに時間がかかる。
(たしか、マンションとかのパンフレットでは八十メートルが徒歩一分の計算だったはず)
実際にそのように歩いてみると、思いの外に早歩きになったりする。
先代の生徒会の働きのおかげで、校内を自転車で移動できるようになっても、やはり移動に時間が取られるのは仕方がない。
そして、生徒にとっても教師陣にとっても、もしかしたら校舎よりも重要な建物である寮は校舎やグラウンドの北側に位置している。十階建ての寮が男女それぞれ二棟ある。私立学校なだけあり、一人ひとりに部屋が用意されている。
清峰秀次が星雲高校で生活を送ること一年が経過し、現在は二年目の五月だ。星雲高校は前評判とパンフレットでにらんだとおり、秀次にとって良い高校だった。授業のレベルは高く、確実に勉学のレベルを上げてくれることに加え、スポーツにも抜かりない。文武両道を貫く高校だ。もっとも、秀次は部活動に入ってはいないのだが。
入試に面接が必須であることもあり、人柄の悪い生徒が少なく、交友関係で困ることもない。食堂や購買も完備されていて何一つ不自由はない。ネット通販も届く。
飛行機ではるばる、小笠原諸島と沖ノ鳥島の間にある星見の島に来て良かった。一生に一度の高校生活を、これほど特殊な高校で送る。贅沢なことだ。
(中には、ホームシックになる生徒もいるのだけれど)
秀次が一人、心ここにあらずという具合の間の抜けた顔で空を見上げていると、その視界に突然四季の顔が現れた。驚いて勢い良く起き上がる秀次の頭を、四季はギリギリで回避した。
「何見てたの?」
四季はすっかり私服に着替えていた。星雲高校には制服がない。島にいる時点でこの学校の生徒だとすぐにわかるので、制服なんて必要ない。
「ただ休んでいただけだよ。早かったね」
「だって、お腹減っていたから。今日は何にしようかな」
「定食にしなよ」
彼女は保健室で一寝入りしたこともあってか、元気があり余っているようだった。食堂が混み始める前がいいと言って、まるで子供のするように控えめのスキップなんかして食堂へと向かった。
「病み上がりは走るなって」
「これはスキップなのです」
秀次もまた彼女の後を小走りで追いかけた。
食堂
星雲高校の食堂は校舎東棟の二階と三階に繋がっている。食堂内にある螺旋階段で簡単に移動できる。今回、秀次と四季は二階の席を選んだ。
この時間、食堂は一日で最も大きな賑わいを見せる。部活が終わりお腹を空かせた生徒、図書室や教室で自習していた生徒が一堂に集まる時間なのだ。秀次は基本この時間を避けるようにしていた。今回も、四季に誘われていなければ一度寮の自室に戻ってから、ガラガラの時間に来ていたことだろう。
四季がサバ定食の食券を購入したので、秀次も同じものを選んだ。
「ところでさ、誰がシュウに連絡したの?」
私が倒れたことを、誰が秀次にわざわざ連絡したの?
「平野さんだよ」
同じクラスであり、バスケ部の平野美穂だ。
順番が来たのでトレーを取り、スライドで移動させる台の上に置いた。食券を係の人に渡し、定食が完成するのを待つ。
「また美穂か、あいつは心配性で困るのよね」
「心配してくれるなんて、いい友達じゃん」
「され過ぎるのも考えものでしょう? シュウも気をつけてね」
「え?」
目にもとまらぬ手際の食堂の係の人が二人分のサバ定食をあっという間に完成させてくれた。受け取って、二人掛けのテーブルを探したのだが珍しいことに六人掛けのテーブルしか空いていなかった。もったいない使い方をするなと思いながらも、六人掛けのテーブル席の端で向かい合って座った。
食堂のサバは親切なことに骨がない。そのままご飯に乗せて口に運んだ。
「最近のバスケ部は気合入ってるよね」
混んでいるときの食堂はショッピングモールのフードコートに負けない喧騒がある。かき消されないように、届かせるためにそれなりに大きな声で話した。
「もうすぐ三年の先輩たちの最後の大会だからね」
東京都大会がもう間もなく開催されるのだ。この大会で高順位に入ることができれば、高校バスケの最も大きな大会の一つ、インターハイに出場する権利を獲得できる。気合は充分、先輩たちと少しでも長く部活をするために試合に勝つと意気込んでもいる。しかし、大会の話をすると四季は毎回のように星雲高校が東京の枠に入れられることに文句を言っていた。
「地理的に、どうしたら星雲高校が東京枠なのよ」
東京は高校の数も生徒も多い激戦区だ。そんな中に、全校生徒五百人弱しかいない星雲高校が混じるのは納得がいかない。
四季がそう文句を言う度に秀次は決まった言葉で返していた。
「しかたないよ。ここは東京都星見の村なんだから」
「都と村が共存って変なの」
四季はそんなことを言ってはいるが、バスケ部の成績は東京の上位層とも十分に戦えるものだった。バスケ部に限らず、星雲高校の多くの部活が様々な大会で上位入賞をしている。
部活動の情報は秀次のような部活に参加していない生徒でもよく知っている。多くの生徒が部活の話を食堂でしているので自然と耳に入ってしまう。さらに、ネタ切れ必至の新聞部が、各部活動の情報を垂れ流しにしているものだから、情報の入手は簡単だ。
「私は試合に出たり出なかったりだけど、もし出たときに先輩たちに迷惑かけたくないからね」
秀次は四季の暇つぶしやバスケの練習に付き合わされたことがある。一度ならず、既に何度か。その度に思うのは、四季はとても楽しそうにバスケをするということだ。
どれだけ楽しかろうと、倒れてもらうのは問題だ。
「なら、もう倒れないようにしないとね」
「それは、本当にそうね」
二人は一緒に小さく笑った。そのとき、秀次の隣の席に定食のトレーが置かれた。とんかつの大盛り定食だ。
「おつかれ、二人とも」
「おつかれさん、健吾」
秀次の隣にやってきたのは生駒健吾という男子生徒だった。秀次にとって星雲高校で初めてできた友人であり四季とも仲がいい。
誰とでもフランクに話せる明るい性格で、サッカーのし過ぎで色落ちしたと語る茶色味のあるツンツン頭が特徴的な健康的男子。成績は百歩譲って中の下。
「ラッキーだったよ。六人席を取っておいてくれて。どうせ誰も来ないだろう?」
食堂の席はさらに埋まっていた。
「秀次がこの時間に飯なんて珍しいじゃないか。人込みは嫌いだろ?」
「まぁたまにはね。ちょうど……」
秀次が四季に目配せすると彼女は小さく首を横に揺らしていた。
「ちょうど色々と用事があってさ」
「ふーん。そうか」
秀次と健吾が仲良くなれたのは、運が良かったとしか言いようがなかった。一年生のころ、授業終わりの放課後、部活の時間のことだ。第二グラウンドでサッカーの練習をしていた健吾が、何かの間違いでボールをグラウンド外に蹴ってしまったのだ。それも、フリーキックの練習だったらしく、そのボールにはしっかりと威力があった。
ボールが飛来した先に秀次がいたのだ。秀次の後頭部にフリーキックシュートが当たり、そのハプニングが原因で話すようになった。というシナリオであれば良かったのだが、この話にはもう一つハプニングが追加される。
後ろに目があるかの反応で、秀次はボールを避けたのだ。その一瞬は秀次もニヤリと笑って自分の感覚を褒めた。が、その自慢する表情はすぐに消えることになった。
秀次で止まるはずだったボールは飛行を続け、秀次の先を歩いていた当時学級委員の苗代月見という女子学生の後頭部に当たってしまったのだ。その衝撃で苗代は倒れた。
「あ!」
二人して同じ反応をして駆け寄ると、かなり当たり所が悪かったらしく彼女はすっかり気絶してしまっていた。その後、二人は慌てて保健室に苗代月見を運ぶことになった。
ピンチを同じく体験したことからか、このことで秀次と健吾は仲良くなることができた。そしてさらにもう一人……。
「岸本さん、すみません。お隣、よろしいですか?」
「あ! 月見ちゃん! もちろんいいよ!」
食堂で、新たに声をかけてきたのは現生徒会長の苗代月見だった。後頭部にボールを当てて以降、二人して苗代に何度も謝っている内に親しくなっていた。
「他に席も空いておらず、お邪魔させていただきます」
「邪魔なんかじゃないよ。いつでも来てよ」
友達であろうと決して敬語を崩さない。度を越えて真面目な子だ。尊重されるべき真面目という性格は学校という環境では堅物として認知されることが多い。それ故に、入学当初は秀次たち以外に気軽に話せる友達がいなかった。それでも、彼女の凛としたたたずまいや明晰な頭脳。さらに、実は話しやすい子という面が知れ渡っていくにつれて、自然と好意を寄せられるようになり、遂に生徒会長を務めるに至った。
「会長、この時間に会うのって珍しいよね」
秀次が月見に聞くと、ちょうど彼女は両手で丁寧に定食の味噌汁を持ち上げて、つっと口にしたところだった。食事の所作一つとっても、育ちの違いを思い知らされる。
「そうですね。体育祭の準備で体育委員と諸々の打合せをしていたところ、お腹が空いてしまいまして……しかし、それを言うのなら清峰さんこそ、珍しいですね」
秀次と月見はお互いをよく食堂で見かけていた。つまり、月見も混雑を避けた遅い時間に夕食を取ることが多いのだ。
「今日は色々とあったからね」
「そうですか。てっきり岸本さんの付き添いをしていたからだと思いました」
付き添いという言葉を、騒がしい食堂でも健吾は敏感に聞き取ってしまっていた。
「え? 岸本さんの付き添いって?」
結局、秀次が隠そうとしたのもむなしく、なぜかその情報を持っていた月見が話してしまった。
「へぇ、それは大変だったね」
「まぁね。それより、どうして月見ちゃんは知ってるの?」
「平野さんから聞きました」
平野美穂は秀次に連絡した後に、月見にも携帯でメッセージを送ったそうだ。平野は毎度、何かハプニングがあると必ず関係のないことでも月見に報告しているとのこと。
「まったくあの子は、私に言えば何でも解決するわけじゃないのに……しかし、貧血は辛いですよね。私も頭がクラクラとすることが時々あります。食生活には気をつけませんとね」
月見はさらに付け加えた。
「ここの保健室の設備は素晴らしいものですが、それ以上に、正しい生活リズムと食事は最高の薬ですよ……本で読みました」
「ほんと、感心しちゃうよね、会長には」
月見は謙遜で、偶然手に入れた知識ですと言った。しかし、お世辞抜きで彼女の知識は素晴らしいものだ。読書が好きで、ジャンルに囚われずに多くの本に手を出しているからと本人は語るが、それにしても読んだ情報をしっかり自分のものにできていることがすごい。
(それに、成績も学年一位だ。幅広く、それでいて深い)
そのうちテスト前に勉強を教えてもらいたいと思っていた。秀次の成績は中盤から少し上といったところ。健吾には負けず、四季とは同程度。何はともあれ、圧倒的に頭がいいのは苗代月見だ。
「そういえば、清峰さんは今も部活には入られていないのですか」
月見は秀次の痛いところを突いた。というより、月見は秀次と話すとき頻繁にこの話題を出す。全校生徒の九割が何かしらの部活に所属している星雲高校で、部活に頑なに入ろうとせず、だからと言って勉強をそこまで頑張ろうとしない秀次を不思議に思っているのだ。
「清峰さんは運動能力も高いですよね」
絶海の孤島では部活ぐらいしかやることがないのだ。都と村はやはり違う。歩けばすぐに娯楽施設があるわけではない。だからこそ、みんな部活に熱中できる。では、部活に入らずに特に勉強をしているわけでもない秀次は放課後に、いったい何をしているのだろう。
「たしかにシュウはてっきり、サッカー部に入るのかと思ってたよ。健吾と仲いいもん」
「俺も誘ったことはあるよ」
三人に問い詰められた秀次は残り少なくなってきた定食で時間を稼ぎ、いつも月見に返す内容と同じことを言った。
「色々と、理由はあるけど。まあ、なんとなくってだけだよ」
星雲高校は部活動を推奨しているが強制ではない。たまに勘違いしている生徒はいるが、生徒会長の月見は間違いなく知っている。
「そうですか。体育でサッカーやバスケをしているときの清峰さんはとても楽しそうですので」
そう言う月見は弓道部に所属している。髪を後ろで結び、黒く透き通った目で弓を構える姿が美しく、学校内に一部ファンがいるという噂すらある。そんなくだらない話とは対照的に、月見の弓道に対する姿勢は真剣そのもの。
「試しに清峰さんも体験してみますか? 心頭滅却。雑念の排除に弓道は適しています」
月見の所属する部活動に勧誘されるとは思っておらず、当時の秀次は驚きに打たれた。それも真剣な眼差しで言うものだから、月見の善意を傷つけない断り方を模索するのに苦労したのを、秀次は今でも思い出す。
各々の食事を終えると、話題は自然と体育祭のことになった。各学年六クラスを三つに分けて色分けをし、各団で各種競技の得点を競い合う毎年のイベントだ。
星雲高校は設立五年のものすごく歴史の浅い私立高校ではあるが、理事長の方針で学校のイベントにはとても力を入れており、毎年の体育祭や文化祭はとても盛り上がる。島全体を使う競技もあり、特に運動系部活動の男子は大はしゃぎだ。
「そろそろクラスごとに出場する競技の振り分けがあると思いますよ」
「そっか、選択競技があるんだったね。健吾は出たい種目ある?」
健吾はその種目を頭の中に明確に思い浮かべてから言った、きっと種目名だけでなく、実際に自分が出場している姿までも想像してしまっている、そんな顔をしていた。
「俺は星見の島一周駅伝だな」
競技名のとおり、星見の島の外周を一周するレースだ。各団の各学年に一人が選ばれ、三人一組のチームで島を一周する。おそらく、いや間違いなく体育祭で最も疲れる種目だ。
「お前、よくあんな疲れるものに出ようなんて思うね」
「でもあの競技が一番得点できるんだ」つまるところ目立つから。「陸上部は出られないし、俺にだってチャンスはある!」
「たしかに。生駒さんは持久走も陸上部に負けない成績でしたね」
健吾は正面に座る月見に向かって、少し前のめりになった。
「お! 会長も知ってるんだ! そうなんだよね、走るのは得意なんだよ」
健吾はもはや走ることが確定しているかのように話す。どんな子供でも、特に男の子は自分の活躍している姿が好きだ。そんな妄想を月見は一蹴してしまった。
「ですが、他の方も立候補されるかもしれませんよ? 例えば、御影さんとか」
御影弓弦。秀次たちと同じクラスの男子生徒であり、秀次と同じく全校生徒の一割に分類される部活未所属の生徒だ。
「あいつ、普段運動していないだろうにどうしてあんなにスタミナあるんだろうな」
先週のことだ。年に一度行われる体力テスト。その成績は御影が学年一位だった。持久走も短距離も陸上部より速く、よく部活に勧誘されている。
「もちろん彼が立候補するとは決まっていません。あまり目立つ種目に出ようとする人には見えないので、生駒さんが参加できる可能性は充分あります」
仮に御影が立候補したとすれば、生駒は走れない。そんな言い方に感じたのか、妄想を砕かれた健吾は腕を組んでどうにか自分が選手に選ばれる方法はないかと考え始めたようだった。
「それでは私はそろそろ寮に戻ろうと思います。皆さんはどうされますか?」
健吾は月見と一緒に戻ると言った。四季は校舎でやることがあると言うので、まだ帰らないとのこと。
「シュウも少し付き合ってね」
「今から? 何するの?」
もうすっかり日の落ちた夜だ。夜中に遊べるような場所はこの島にはない。
「いいから、すぐに終わるからさ」
四人は混雑する食堂をするりと抜けた。下駄箱で「また明日」と言って手を振り二人を見送ると、四季も靴を手に取った。
「外に行くの?」
「そうだよ。ちょっと散歩。前はよくやったじゃん」
それでもこんな遅くに散歩した記憶はない、と止める間もなく四季は外に出てしまった。
……
玄関から南に進み、正門から校外に出た。
五月の星見の島の夜は、夏の到来を感じるぬるい風が吹いていた。この島は、夜になると光が極端に少なくなる。星や月の見えない日は従順に夜に飲み込まれる。
この日は快晴。星も月もよく見えるきれいな夜だった。
「夜の散歩は久しぶりだよね。寒いとやっぱり外に出たくないもの」
冬だと空気が澄むので、星がきれいに見えたりするものだ。と言うものの星見の島では季節や気温は一切関係ない。満天の星空に包まれたければいつでも星見の島に来るといい。雲さえなければいつだって天体観測を楽しめる。
二人は学校の南側、島の堤防の上を歩くことにした。永遠に思えるほど広がる黒い鏡の海と、星雲高校の建物を交互に見ることができる道だ。
「そういえばさ」
四季がふと思い出して言った。
「この島の名前って、誰がつけたか知ってる?」
星見の島という、観光地でもないのにロマンチックで捻りのない名前を付けた人は誰なのか。
「いいや、知らない」
「理事長先生なんだってさ。意外だよね」
星雲高校を設立した理事長が、この島を買い取るときにその名前を付けたのだという。この島を何度も視察しているうちに、空を覆う星に心を奪われ、命名したとのこと。
「当然、星雲高校なんて名前も理事長がつけたのよ」
星の雲をよく見ると、それは大きな一つの輝きではなく小さな粒が一つひとつ輝いていることがわかる。この学校では生徒一人ひとりが輝いてほしい。一生懸命に輝いてほしい。そんな願いを込めたのだ。
「先輩が言ってたの」
「あの理事長先生が、随分とロマンチックなことを言うね」
理事長の名前は林道純彦。もうすっかり黒髪が白髪に生え変わり、顔のしわも深く刻まれた六十代の男性。北棟の一階にある理事長室で、置物のように座っていることもあれば、気ままに校内を歩いていることもある。部活の見学も楽しみの一つとなっている。
「面白い人よね。こんな島を買い取って、それで高校を建てちゃうなんてさ」
「そうだけど、でも、そんな学校に来る俺たちもきっと、変わり者なんだと思うよ」
「ああ、シュウは今この学校の生徒全員を敵に回したよ」
生徒だけではない。教師陣もだ。変わり者と呼ばれて嫌な顔をしない人全員だ。
四季はスキップして夜の空気を楽しみながら秀次の先に出た。大きな月をバックにし、ピョンピョンと歩いたり回ったりする彼女はウサギの精霊が宿ったようにきれいだった。
「……家族とはどう? 上手くいってる?」
四季は舞いながら応えた。時々堤防の縁まで行くものだから、秀次はその度に腕を伸ばして反応してしまう。
「うーん。喧嘩はしていないけど。連絡も取っていないから、何とも言えない」
秀次の質問は、四季がこの学校に来ることになった理由とつながっている。設立五年の歴史が浅くとてつもなく田舎の学校に来る理由。星雲高校に通っているのなら必ずと言っていいほど、一度は話題になることだ。
この話題は誰にでも使える万能なものなので、初対面の相手や友達になりたての頃に消化されることがほとんどだが、こと二人に限ってはそうでもなかった。簡単に話してしまえるような理由で星雲高校を選んだ生徒ばかりではないのだ。話すことをためらってしまう事情を抱えた生徒も少なからずいる。
四季が秀次に星雲高校を選んだ理由を話したとき彼女はまずこう言った。
「みんなと同じく、海に囲まれた高校で送る三年間を想像しただけでワクワクしたから。だけど、実際は家族と離れたかったというのが本音」
四季にはとても優秀な弟がいる。ただ優秀なだけなら何事もなかったのだろうが、弟は父親の違う弟だったのだ。
四季の母は四季が五歳の頃に離婚をしていた。親権は母に渡され四季は母と共に二人でしばらく生活した。しかし、母の次の相手は思いの外早く見つかった。
そのときのことを、四季は「そんな予感がしていた」と言っている。
夕食を四季一人で取ることが多くなっていたからだ。作り置きをしておいてくれたから、なにも文句はなかった。しかし、お化粧をして出ていく母がかつての父と会うのではないということはよくわかった。女の勘だ。これは七歳児ながらに備えた女の勘だ。
結局、四季が七歳の頃に母は再婚。苗字が岸本になった。このとき、四季は実父と連絡を取っていた。親権は母でも四季のことは気になっていたのだ。連絡を取り合う中で、かつて四季と母を捨てたその男は離婚後二ヶ月で再婚していたことを知った。子供の目から覗いたときの見え方ではあったが、円満な離婚だっただけに何も掘り返そうとは思わなかった。
「お母さん。お父さんはやっぱり浮気だったんだよ」とは絶対に言わなかった。
その後、引越し、市役所、職場や学校の手続きをして忙しく生活しているといつの間に母のお腹が大きくなっていた。
「あなたの弟よ」もう男女がわかる段階なのか。「雄吾。岸本雄吾よ」
その雄吾君は幼稚園の頃には既に頭角を現していた。知能テストで好成績を叩き出したらしい。父と母は大喜び。すぐさま私立の幼稚園に編入させた。呆れるほどお高い私立の幼稚園に。
親は弟に大きな期待を寄せていた。四季にはそれほど、まして父からすれば義理の関係。結婚する時に大事にするとは言っても、果たしてどうだろうか。むしろ冷たく接することさえあったのだと言う。
「まぁ、さすがにあからさまに不遇扱いはされなかったし、表面上は同じように接してくれていたと思う。でも、やっぱり感じちゃうのよね」
私よりも、弟に時間を使いたいと思っている。と。
四季の両親が実際にどう思っているのかはわからない。だが、実際にどうなのかということよりも、そういう発想を抱いてしまった時点で、四季にとって家は過ごしにくい場所になってしまった。
「みんな一度はホームシックになるって言うけど、今のところ私はならないなぁ。夏休みも年末年始も帰る予定はないし。さっきも言ったけど、あまり連絡取ってないし」
秀次と四季は堤防の縁に座って膝から先を島から放り出していた。鼻腔を満たす潮の香が肺に移り、全身に渡ると身体が内側から洗われている気分になる。さざ波は優しい音で、耳を癒してくれる。海面に映り、揺れる月がきれいだ。
「今回は帰ってみたら? 意外と楽しいかもよ」
「ふふふ、考えておくね」
しかしほとんど答えは決まっていた。帰ったところでどんな顔で迎えてくれるのか、なんとなく想像できたから。それに、四季はこの島で越す年末年始を悪くないと思っているのだ。
その時はこの島のたった一人の住人。貸し切り状態だ。いや、一人くらいはいたかな。
「さすがにこの島に一人というのは怖いでしょう」
「ううん、意外と楽しいよ。今度やってみたら?」
「機会があればね」
四季が危なっかしく立ち上がり、再び歩き始めたので秀次もそれに続く。
四季がこの島で一人でも怖くないと言ったのは、ちゃんと根拠がある。それは単純に、この島が安全だからだ。
五年前に星雲高校が設立されたころは様々な批判や不安の声が飛び交っていた。生徒だけで島に住むのは危険だ。台風なども多いじゃないか。警察もいない島で、もし犯罪が起きたらどうするのだ。
特に面白かった意見はこうだ。海外のテログループが星雲高校に目をつけて、子供たちを拉致したらどうするのだ。世の中、こういうネガティブでどうにか批判しようとする想像力のある人がいる。ちなみに秀次の母はこういった想像力に容易く影響される部類の人間だった。
そんな批判を砕いたのが、島と学校を守る自立警備ロボットだ。さきほど二人が校門を抜けるときも、自立警備ロボットの横を通ってきた。
ロボットは二足歩行で、灰色のマネキンのような容姿をしている。
二十四時間稼働し、トラックなんかも片手で持ち上げてしまうような強力なロボットだ。緊急時のために内部にいくつかの武器を隠している。もっとも、その武器が使われたことは高校設立以降、一度もない。
そんな未確認生物風味な彼らのおかげで、星雲高校の生徒は安心して暮らすことができている。
「俺の親は安全をとにかく気にしていてさ。あのロボットたちを説明したら納得してくれたよ」
いやいやお母さん。そこは、もしロボットたちが暴走したらどうするのかと問うべきだ。私は星雲高校に行きたいので何も言いませんけど。
ロボットは暴走こそしないが、夜に見ると不気味な物体であり、慣れていても驚いてしまう。が、その不気味さもまた星見の島を犯罪から守るのに一役買っているのかもしれない。
散歩を続けていると、四季が何かを指さした。
「あ、花だ」
コンクリートの堤防と島の内側の土との境目に一輪の花があった。紫と黄色の独特な花弁を持つ花だ。
「この花、なんて名前なんだろうね」
「さぁね、四季も知らないんだ」
星見の島の外で見たことがない花で、ネットで調べても出てこない。それでも目立つ花なので、星雲高校の大半の生徒が、「不思議な花」という仮名で呼んでいる。
「今度園芸部に聞いてみたら?」
「あ、なるほどね。シュウってたまに機転が利くわよね。まぁ園芸部に友達いないけど。シュウが聞いておいてよ」
「俺もいないよ」
肌寒くなってきたので、二人は一時間程度の散歩で切り上げることにした。真っ暗な島で明かりのついた学校はとても目立つ。賑やかで明るい要塞だ。
足元に気をつけながら、二人は星雲高校へと帰った。
秀次と四季は寮の前まで一緒に歩き、西の男子エリアと東の女子エリアにそれぞれ別れた。
「それじゃあシュウ、おやすみ」
「おやすみ。また明日」
時刻は夜の九時少し前。大半の生徒が寮に戻ってきていて、各自の部屋で入浴を済ませたり、まだ体力の余っている生徒はラウンジに集まっていたりする時間だ。
秀次は一直線に部屋に戻り、早く寝てしまうことにした。四季が倒れた騒動のおかげもあり、普段より体が疲れていると感じていたのだ。
部屋に帰る途中で生駒健吾と遭遇し、どこに行っていたのかと尋ねられ、堤防を歩いてきただけだと答えた。すると彼は勝手につまらなさそうにして部屋に戻った。
秀次も部屋に入ろうとしたときだった。ひんやりとした痛みが走り、ドアノブにかけた指先が僅かに切れていることに気づいた。
(いつの間に……堤防で切ったのかな)
微かなケガだ。明日には治っているかもしれない。その程度のケガだ。しかし、指先の血を見たときに、ついこの間絆創膏を使い切ってしまったことを思い出した。というよりも絆創膏という文字を含んだ泡が割れて「絆創膏」が脳内に姿を現した。
秀次はしばらくドアを開けようとしたり閉めようとしたりして悩んだ挙句に、来た道を引き返して再び校舎に向かった。
(面倒くさいけど、そのうち必要になるだろうから、今日買ってしまおう)
騒がしいラウンジを抜け、早歩きで寮から出ると校舎へと走った。誰ともすれ違わず、静けさだけがある空間で、秀次の足音だけが聞こえた。
目的地は食堂横にある売店なので、東棟の玄関から校舎に入った。玄関横に眼光光らせる自立警備ロボットに一瞬睨まれたが、星雲高校の生徒だと認識するとすぐに視線をずらしてくれた。
(こんなに暗くてもちゃんと見えてるんだ)
さすが、島を守る警備部隊。
校内はまだ所々に明かりがあって歩きやすかった。北棟と西棟はこの時間になるとすっかり真っ暗なのだが、東棟には遅くまで開いている食堂と図書室があるおかげで、夜九時を過ぎてもまだ明るいのだ。
(たしか、図書室も食堂も九時半までだったかな)
二階に上がり、売店の前に着いた秀次だったが、その場で立ち尽くしてしまった。売店は食堂よりも先に閉店してしまっていたのだ。
「ああ、しまった。誰かに聞けばよかった。九時過ぎに学校に来ることなんてめったにないもんな」
七時から二十一時と書かれた貼り紙が秀次に「どんまい」と言っていた。
ため息をつき、なんの収穫もなしに帰ろうとした秀次を呼び止める声があった。
「清峰さん、こんな時間に珍しいですね。売店に何か探し物でも?」
秀次に話しかけたのは生徒会副会長の男子生徒、半崎卓也だった。生徒会長の苗代月見と同じく、ほとんどの会話を敬語で済ませる生徒だ。背は秀次と同じ程度の百七十と少し、瘦せ型で芸能人のように形の良い目をしており、異性からの人気も高い。一時期、月見と半崎が付き合っているという噂があったのだが、それは二人がちゃんと否定している。
「売店は九時までですよ」
「そうみたいだね。半崎さんはこんな時間までどうしたの?」
「生徒会の仕事をしていました。各部活からの要望をまとめて、理事長に提出する資料を作っていました」
「それは、ご苦労様」
「いやいや、これが仕事です。ただ、野球部とサッカー部は毎回要望が多くて大変です……そうだ、ちょうど清峰さんに聞いておきたいことがあったんです」
半崎はそう言うと、ガラガラで清掃係が仕事を始めている食堂の隅の席に秀次を座らせた。ウォーターサーバーからコップに水を注いで秀次に渡した。
「まぁ、清峰さんにというよりも、二年三組の方にというのが正しいのですが、こんな時間に会った縁だと思って、お願いします」
二年三組のこと、最近だと体育祭の応援団が決まったことぐらいしかクラスのイベントはなかったはず。それに、二年三組でいいのなら生徒会室で一緒のはずの月見も二年三組だ。
「会長に関すること?」
「あ、わかります? はい、苗代会長のことです。最近、クラスで何か変わったことありませんでしたか?」
半崎はこのような質問をする理由も秀次に話した。半崎曰く、月見はいつも気を張っていて休まる時間があるのか不安とのこと。先日はなんと生徒会室でうたた寝をしていたのだ。
「僕が生徒会室に行かなかったら、きっと朝まで寝ていましたよ」
「あの会長が生徒会室でうたた寝なんて……でも、クラスでは何も変わったことはないよ。授業もいつも通り真剣に受けているし」
秀次は一年の頃から月見と同じクラスだが、月見が居眠りをしている姿など一度も見たことがない。欠伸すらない。見たくもない健吾の欠伸なら何百回と見ているが、相変わらず苗代月見は全校生徒が見習うべき模範生として美しく席に座っていらっしゃる。
「むしろ生徒会室で寝てしまうのはリラックスしている証拠で、良いことだと思うけど」
「そう考えることもできなくはないのですが、これまで苗代会長が寝るなんてことはなかったので、少し不安になってしまいまして……わかりました、ありがとうございました」
副会長たる者、たいして収穫がなくてもお礼を忘れることはない。何一つ礼を言われるようなことをしていないが、秀次は「いえいえ」と返していた。
二人が話している間に九時半まで残り五分となっていた。食堂にいる生徒は秀次たちと数名しかいない。食堂の係の人は本格的に後片付けを始めている。
「そうだ。清峰さんは体育祭の種目、何に出場するか決めていますか?」
半崎は時間を気にしていないのか、次の話題に移った。
「いや、まだ決めてないよ」
正直、何があるのかの把握すらしていないのだ。体育祭の準備に尽力している生徒会メンバーにそれを言うと気を損ねそうなので、言うわけにはいかないが。
「理事長が体育祭はぜひ盛り上げる様にとうるさくて。同じ団ではありませんが、種目が被りましたら、お互い頑張りましょうね」
半崎はその言葉を最後にして席を立った。時間など気にしていない素振りだったにも関わらずやはり管理はちゃんとしている。さすが、苗代会長の右腕、副会長の半崎だと秀次は内心思った。
生徒会室に忘れ物があるらしく、半崎とは食堂で別れた。
(さてと、結局のところ俺も収穫はないけど、帰るか)
秀次は食堂内にある階段を下りて玄関へと向かった。しかし、このときどうしても、玄関に到着しても、やはり指先のケガが気になってしまった。心なしか寮で気づいたときより、傷が大きくなっている気もした。
秀次は一つ、この気になりすぎる傷を解決する方法を思いついた。保健室だ。保健室ならば絆創膏などどれだけでもあるだろうし、急患も考えて夜も開いていると聞いたことがあった。
(よし、行こう)
秀次は早速行動に移り、暗闇の連絡通路を渡り、保健室のある西棟に移動した。通路の窓ガラスに映った自分の顔に一度驚きはしたが、それ以外のハプニングはなく、保健室に無事到着した。
保健室の明かりはついていなかった。が、この日、これはこの後の清峰秀次の学校生活に大きな影響を与えることになったのだが、このときの秀次の注意力は良くも悪くも冴えていた。
(開いてる? 隙間あるよな)
そっとケガをしていない手で扉を動かす。扉は抵抗なく動いた。
扉をそっと開けて、忍び込むように保健室に入った。罪になるようなことをしているわけではないが、明かりがついていないので罪でなくても悪いことなのではないのかと、若干の迷いがあったわけだ。
(誰もいないよな……こういうものか?)
保健室は従来施錠しないものなのか。そんな疑問を抱きながらも、秀次は四季のおかげで何度か保健室に足を運んでいたので絆創膏をすぐに見つけることができた。保険医が普段座っているデスクの、右上にある小さな引き出しの中。
するりと一つ取り出し、するりと引き出しを戻す。そうして退散しようとしたとき、秀次の目が小さな光を捉えた。瞬時に脚が止まった。
(あの部屋って……なんだっけ)
部屋から光が漏れていた。保健室には全部で五つの部屋がある。現在、秀次が潜んでいる診察室と、保険医のための休憩室。そしてベッドが並ぶ病室が二つと検査室。その位置を秀次は記憶している。
(あそこに、部屋なんてあったかな……まぁいいや。倉庫かなんかでしょ)
秀次はそっと保健室の扉を閉めると、急ぎ足で寮へと戻った。
…………
……
――清峰秀次が去ってから五分後――
保健室に人影があった。暗闇で顔を隠し、デスクの前でじっと立ち、整理されたデスクを眺めている。
「……誰かいたな」
人影は携帯電話を取り出すと、連絡先欄から通話をかけた。