七日目 人間が思うほど世界は絶対ではないのである。
「ねえ、平和さん」
「うんー?」
「今日で、世界は終わっちゃうね」
「そうだなー」
やる気の無い声が響く。いいのかな。今日で最後なのに、こんなんで。いやでも、私たちらしいっちゃらしいか。
「お腹空いたよ、平和さん」
「んー……そうだな、最後だし、なんか作るか?」
「そうしよう!」
とは言ったものの、結局食べれるものなんてカップ麺と缶詰とお菓子だけなので、しょうがなくカップ麺を作る事にした。溜めてあった水を用意して、部屋に大量にあった紙を使って火を点けて、お湯を沸かす。お湯が沸いたら、カップ麺に注いで三分待つ。できあがり!
日本人ならば誰でも知っていることだ。でも、恐ろしい事に、私たちはそれを忘れそうになっていた。カップ麺なんて、しばらくスナック菓子としてしか食べていなかったから。人間、必要の無い記憶は忘れていくから。私に必要な記憶は、平和さんの名前だけ。他は何に必要なのかイマイチ分からない。
「わー。あったかい」
「な。そっか、カップ麺ってのは、本来こうやって食べるものなんだよなー」
「おいしそうって思ったのなんて、いつぶりだろ?」
箸を持ち、いただきます、と言って食べ始める。口に運ぼうとしても、熱くてなかなか食べれない。ふーふーして、ようやく口に入れることができた。口内に広がる、人工的なしょうゆ味。
実感した。美味しいな。美味しい。明日からは、こんなに美味しいものを食べる事が出来なくなるんだ、な、んて、ね。
視界が滲んだように感じた。発砲スチロールで出来た容器が、歪む。茶色のスープと黄色い面が、霞む。そこから漂う湯気が、揺らぐ。
一際大きくゆらりと視界が揺れ、ふいに視界が鮮明になった。また歪み、そして鮮明になる。これを繰り返してくうちに、だんだん咽喉が痙攣しはじめた。ひくっ、ひっく、と嗚咽が出始める。
――――私、泣いてるんだ?
「……何、泣いてんだよ」
「わたし、も、わかんな、い……」
「何、今泣いてんだよ!」
「だって、だってぇ……」
平和さんは、苛立っているようだった。こんなにキレてる彼なんて、初めて見た。いっつも、どうでもよさげな表情しかしないのに。
――――ああ、そっか。彼も、私と一緒なんだ。
「平和さん、わたし、ね、」
「……ああ」
「死にたく、無いんだと思うの」
「……ああ」
彼は無感動に、箸を止めて言った。右膝を立てて、その膝に隠れるようにして頭を伏せ、悩んでいるように右腕で頭を抱えていた。
もしかしたら苦しんでるのかもしれないと思った。
もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。
何も変わらない。私も平和さんも、人間だ。死ぬのが怖いんだ。怖くて怖くて、死にそうなんだ。死にたくないんだ。いままで、知ったような顔して、平気そうな顔して。分かってなかったんだ。これからもずっと、この状況が続くように錯覚してたんだ。平和さんと一緒に、過ごすこの日常が、どこまでもいつまでも続いていくと、心の奥のどっかで信じていた。
嗚呼、馬鹿みたいだね。
「平和さん。私、今、生きてた」
「ああ」
「死んでない。今、美世っていう人間は、確かに生きてる。それでも、明日は確実に死んでる」
「……ああ」
「明日は、私生きて無いんだよ。怖い、死にたくないよぉ」
「……黙って、ろ。黙ってろよ、お前。んなの、前からっ……、分かってたことだろ」
「うん、うん、そうだよ……そう、なんだよね」
「お、まえ、ぜってー馬鹿、だ」
ほんとだ。ほんとだね。
私、馬鹿だね。馬鹿で愚かで、今まで私が毛嫌いしてきた他の人間と、何も変わらないね。そして多分、それは平和さんも当てはまるよね。
人間は総じて馬鹿なのだ。愚かなのだ。けれど、それは人間自身が決めることではない。一生懸命生きずに、高みの見物気取りで諦めている人間などに、人間の価値は決められない。私たちじゃ、人間を決めることはできない。
「平、和さん」
「……あんだよ」
「私、平和さんのこと、好きなのかもしれない」
「…………無駄だろ、そんなの。もう、全部全部無駄なんだ」
うん、そうだね、無駄だよ。意味なんて、もう無いね。
でもね、一つだけ意味を望むとしたらね、私は『好きだった』にしたくないな。だってまだ、過去形じゃないから。例え明日になったって、それだけは過去形じゃないから。ならないから。
一週間前から、私は貴方が好き。今も、昔も、そして明日も。存在しない明日の中でも、私は貴方が好き。きっと、好きでいるでしょう。
「美世」
「うん? 何、平和さん」
「きっと、今日から明日に行くことは出来ないだろうけど」
「うん」
「それでも明日、また会おう」
「そうだね。明日、また会おう」
きっと今日を越えられない。私たちは今日にとらわれ、死んでいく。明日なんてない、来ない。無駄だ。
このカップラーメンを食べきるのも、無駄だ。明日への栄養を蓄える意味なんて無い。それでも、私は箸をとる。
無駄だ。明日なんてこない。今日を越えられない。また、会う事なんて出来ないのだ。そんなの、全部全部無駄だ。
ねえ、それでも。
――――あした、またあいたいよ。