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ハンス

 彼は北の漁師村で生まれた。

 父は祖父の名を取りハンスと名付けた。

 祖父のような真面目で腕の良い漁師になるようにと願いを込めてそう呼ばれる彼には、五つ上の姉のような人がいた。


 お隣に住んでいるエリーゼだ。村一番の器量良しなエリーゼが歩けば村中の少年たちが気を引こうと口笛を吹き、馬鹿みたいとフラれている。


 年上の少年たちからノロマなんて馬鹿にされているハンスにとって、自分をいじめる連中を袖にするエリーゼがとても素晴らしい存在に見えていた。


 エリーゼはハンスにだけ優しかった。男と見做されていないだけかもしれないし、生まれた時から時々子守りをしてもらっていたせいかもしれない。……それでもよかった。


 この想いを伝える気はない。あの馬鹿な連中を同じ馬鹿として扱われる恐怖もあるし、何よりエリーゼは高嶺の花で、共にいれるだけで幸せだった。


 ある日エリーゼから秘密を打ち明けられた。


「あたし大きくなったら絶対に王都に行くの!」


 王都はとても素晴らしいところらしい。

 こんな村なんか比べ物にならないほど大勢の、目を回しちゃうくらいの人が住んでいるらしい。


 王都では貴族も平民も同じ地面を歩いて身分など気にせず自由に恋を語らうらしい。

 王都ではこんな辺境では見た事もないような綺麗な服を平民が普通に着ているらしい。

 王都で有名になれば貴族様のサロンに招かれることもあるらしい。


 毎晩のようにエリーゼが語り出す夢のような話に、いつしかハンスも心惹かれるようになっていた。今度は二人して夢みるように王都の話を始めた。


 空に浮かぶ豊かな町。そこではみんな辛い水汲みをしなくても水を幾らでも使えるし、魚油ではない臭くない明かりがずっと灯っているらしい。王都では誰もが夢のような世界で幸せに暮らしているらしい。


 時折やってくる行商人が話してくれる王都の話に、夢と妄想を混ぜ込みながら練り上げた理想の町への渇望は、日増しに大きく募るばかりだった。


「内緒だからね?」


 エリーゼは村を出ていくと言った。馴染みの行商人に話はつけてある、朝一番に出発する。両親にも内緒の、二人だけの秘密の話。


「あたしデザイナーになるの。貴族様しか着れないようなシルクやガレアを使ったドレスをあたしが作るの。ラダンが弟子を探してるデザイナーの先生を見つけてくれたの、その人は王宮にも自由に入れるすごい人なんだって!」

「姉さんはすごいなあ」


 やはりエリーゼはすごい。自分は毎日グズだノロマだって年上の少年たちに小突かれているだけなのに、エリーゼは夢を現実にするために色々やってたんだ。エリーゼはこんな田舎にいるような人じゃないんだ。……僕もつれていってなんて言えるはずもなかった。


 翌朝、夜明け前に旅立つエリーゼを赤い街道まで見送ったハンスは少しだけ泣いた。

 エリーゼの成功を願いながら、もう会えない事が悲しかった。


 二年が経ち、十三歳になったハンスの下に転機が訪れる。

 領内の貴族様のお屋敷でフットマンの見習いをしているハンスは、執事のルーモンさんから王都に留学するぼっちゃんに同行するように命じられる。最初に思ったのは疑問だ。


「僕なんかでよろしいのですか?」

「では誰が妥当だろうね。ずる賢く要領の良いだけの者か、それとも見習いに仕事を押し付けて影で女中を口説く者か、いやお前の誠実な仕事ぶりをきちんと見ていた私かな? 善良で誠実である事、それが坊ちゃまのお世話係に選んだ理由だが不服かね?」


 この時は心の底から嬉しかった。

 村ではノロマと馬鹿にされ、お屋敷でもグズだの物覚えが悪いと意味もなく蹴飛ばされてきた自分をきちんと見ていてくれた事。評価してくれた事。それだけが何よりも嬉しかったんだ。


「王都は何かと誘惑が多い。気をつけるんだよ」

「はいぃ……」

「泣く奴があるか」

「はいぃぃ……」


 旅立ちは春、野花が咲き誇る美しい季節の二週間の馬車旅が辛くなかったとは言わない。

 気難しそうな顔のまま書物を読み耽るアルヴィンぼっちゃんは僅かな物音で怒鳴りつけてくる。ハンスは息をとめるほどに大人しくしているしかなかった。何もしないことがこんなにも大変だなんてこの時まで思いもしなかった。


 やがて見えてきた王都ローゼンパームは夢に描いた光景よりもずっと素晴らしい物だった。


(エリーゼ姉さんはこんな素晴らしいところで……)


 下層街の外れにあるオルトス魔導学院の学生寮での暮らしが始まった。


 ハンスの仕事はぼっちゃまの学業の妨げにならないように授業中に寮室の清掃と洗濯、安息日はぼっちゃんに同行しての荷物持ち。ぼっちゃんが部屋にいる間は隣の使用人部屋で大人しくしている事。もう一人のお世話係エシューさんと二人でそんな日々を送っていた。


 季節が夏になる頃には学生寮での暮らしにも慣れてきて、少しだけできた時間で王都内の服飾店を見て回った。この中のどれかがエリーゼ姉さんの作った服かもしれないと思えば誇りさえ生まれた。


 その誇りが失われるのに長い時はかからなかった。


 とある春の日、親方の罵声を浴びて転がるように店の裏手から出てきた同い年くらいの少年と知己を得た。大丈夫かいって声をかけ、何でもねえよから始まった交友だ。


「エリーゼさんというデザイナーを知らない?」

「この世にエリーゼが何人いると思ってるんだよ。そこいら見ろよ、あの歩いてるのの内五人くらいはエリーゼだぜ」


 そんな憎まれ口から始まった会話はすぐにお互いの打ち明け話になった。

 ナシェンもハンスも共に辺境の出で、特別思い出す必要もなくすんなり出てくる苦労話が互いを引き付けたのかもしれない。


「二年前にねぇ、それじゃあまだ生地だって縫わせてもらえてねえよ。お前職人が独り立ちするのに幾らかかるか知ってんの? 才能ある奴で十年だぞ十年」

「そんなにかかるんだー……」

「気になるなら他の奴に聞いといてやるよ。親方の使いで他の店とか行くし、職人弟子にも知り合いはいる。その何とかって漁村のエリーゼさんだな」

「ルッタラ村だよ」

「ほのぼのした名前の村だな。何日かしたらまた来いよ」


 ニッカリ笑ったナシェンにお礼を言って、五日後にまたナシェンの下を訪れる。


 屋台で売っていた子供のお小遣いでも買えるような粗末なソーセージクレープを、こんな物食べるの久しぶりだってかぶりつくナシェンは最初は喜んでいたが、すぐに表情を曇らせた。


「まずかった?」

「そーゆーんじゃねえ。えっとな、おごってもらって悪いんだがエリーゼさん見つからなかった。下町の色んな店で聞き回ったけどよ、ルッタラのエリーゼなんて女はいねえって」

「そっか。やっぱりそう簡単に見つからないよね」


 ナシェンは迷っていた。言うべきか言わぬべきか、はっきりとさせるべきか曖昧な希望を抱いたままにさせるべきか。

 だから彼が告げたのはハンスへのささやかな友情からだろう。


「……弟子入りしたっていうデザイナーさ、フェリシモって言ったよな? 王宮にも出入りしているっつー」

「うん」

「親方にも聞いてみたんだがフェリシモなんてデザイナー聞いたこともねえらしい。いくら王都がでかいっつっても、きちんと店を構えている有名な奴の名前をうちの親方が知らないなんてありえねえんだ」

「…………それはどういう意味?」

「親方はさ、女衒に騙されたんだろうって言ってた。わかるか、女衒だ、女騙して別の町へ連れてって売り払う悪党だ」

「そんなはずはないよ。ラダンさんは良い人だし、うちの村と長い間商売してくれてたし」

「てた、だろ。エリーゼさん連れてった後にそいつまた来たか?」

「来てないけど、それは姉さんを連れだしたから来づらいんだろうって」


「……ま、そうだな。わりい、悪い方にばっかり考えちまってた」


「また顔出せよ、一昨日から生地扱わせてもらってるんだ。そのうちお前の服も作ってやるからよ」

「安くしてね」

「馬鹿野郎、腕の安売りはしねえぞ」


 ナシェンとはそのまま笑って別れた。でも内心は不安で堪らなかった。


 それからハンスは少しの時間を見つけては王都中の店を探し回った。たくさんのエリーゼという女性の中に姉さんの姿を見つけようと、必死になって探し回った。


 あり得ないと思いながらも歓楽街の娼館にも通っての捜索の日々。ハンスの僅かばかりの給金はすぐに底を尽き、ぼっちゃんの財布に手をつけてまで探したが見つからない。

 何の結果も出ないのに、日々軽くなっていく財布の異常にぼっちゃんが気づいた。


「おい、まさか中身をくすねちゃいないよな?」

「そのぅ……石鹸が切れた物で買い足しを……それと繕い用の糸も」


 その場は何とか誤魔化せた。でも心の中では何か得体の知れない不安が嵐のように渦巻いていた。


(もうここにはいられない)


 全能なる神々の神罰を恐れる罪人のように、いつか全てを知って怒り狂うぼっちゃんを恐れ、ハンスは学生寮を飛び出した。


 こじきみたいに街頭にうずくまり、夢にまで見た王都で空腹を抱えて暮らす日々。

 不意に脳裏を掠めるのはかつて姉さんと共に語らった夢の話。


 王都では貴族も平民も同じ地面を歩いて身分など気にせず自由に恋を語らう?


(そんなの嘘だ、同じ地面を歩いているのはぼっちゃんみたいな辺境の田舎貴族だけ。本物の貴族様はみんなあの空の上にいるんだ……)


 かつて夢にまで見た夢の都市は空に浮かぶ、小汚い平民の子供なんかじゃ入る事さえもできない。


(嘘だ、全部嘘だったんだ……)


 膝を抱えて泣きじゃくるハンスに、手を差し伸べる者がいた。

 陽気な微笑みを浮かべる夢のように美しいお姫様みたいな女性が、手を差し伸べながらこう言った。


「ねえ君、冒険者やってみない?」


 カトリーエイル・ルーデット、彼女はハンスにとっての光だった。

 その正体を知るまでは……


 彼女との生活は色んな意味で刺激的で、ある意味において幸福であり地獄であった。


「さあ素振りからやってみよう!」

「無理ですぅ~~~~~三千回は人間にはできません~~~~!」


「ハンス君突撃!」

「無理ですぅぅぅ!」


 恐ろしい魔物に追い回されたり腕が千切れるような罠にかかったりの日々は過酷で、このままでは死んでしまうと一度は逃げ出したものの、やっぱり戻ってきてしまった。


 彼女との生活は色んな意味で刺激的な大冒険で、地獄みたいに辛い時もあるけれど、それでも彼女の事を愛しているから戻ってきた。


 出戻りすると彼女にはイマ彼がいた。リリウス君という恐ろしい目つきの子供だ。年齢を聞くと二つ下らしいし、背丈もちっこいけど恐ろしい子だ。

 何しろハンスが寝ている時に枕元に立ってブルブル震えながらスプーンを掲げてくるし、殺すような目つきで睨んでくる。

 この目つきは生まれつきだと言っていたが絶対に嘘だ。生まれつきでそんな恐ろしい目つきをしている人間がいるわけがない。きっと性格が恐ろしくねじ曲がっているに違いない。


 そんなリリウス君はしばらくしたら出ていった。


「カトリたんの馬鹿!」


 泣きながら出ていった。


「家出……って言っていいのかな?」

「定義はどうでもいいけどなあ」

「追わないんですか?」

「リリウス君が本気で隠れたら誰も見つけられないもの。なにしろ凄腕のアサシンだからね……」


 帰ってこないならその方がいいと思った。でもすっかり落ち込んでしまった彼女を見ていられなかった。

 リリウス君は情緒不安定だし発言が過激だし夜な夜なスプーン出して枕元に立つけど、悪い奴じゃなかったんだ。


 そんなリリウス君や大勢の冒険者と一緒に地下迷宮を攻略した日からカトリーさんはますます元気がなくなった。声をかけても上の空で、いっつもため息ばかりついている。地獄みたいな訓練がないのは良い事だけど、元気がないのは見ていられなかった。


 それからたまにギルドに行ってリリウス君を探すようになった。説得して帰ってきてもらえばカトリーさんも元気になるはずだ。

 ギルドはとても嫌な場所だ。冒険者にとって僕は快い存在ではないらしい。


「いやいや羨ましいね、俺も一度でいいから姉御の世話になりてえぜ!」

「やめとけやめとけ、告げ口でもされたら怖えーぞ」

「カトリーさん助けてー! 僕あの怖いお兄さんにいじめられちゃったーってか? そんでどこをいじめられたのと来れば、ズボン下ろしてケツを出すんだ。カトリーさんここを舐めてーってか、ガハハ!」


 ガタッ!


 十数人の冒険者が一斉に椅子から転げ落ちた。


「なんだその反応」

「ケツの話はやめろ」

「冗談でも言っていいものと悪いものがあるがケツだけは最低だ」

「ケツだけはやめろ、アレ本気で苦しいんだぞ」

「……ビビリすぎだろ」

「うるせえてめえには経験ねえからわからねえんだ! あの子供のアサシンは本気で抗う術がねえんだぞ!?」

「動きとか残像見えちまうくらい早い奴からどうやって逃げろと!?」

「見えねえだけでも厄介なのに!」

「戦え、逃げるな」

「……戦ったら負けた後が怖すぎんだろ。怪我が切れ痔で済まなくなる」


 彼は相当恐れられているらしい。


 やはり説得して帰ってきてもらうのはやめようかと決めた時、颯爽たる剣士が入ってきた。どことなくカトリーエイルと似たオーラを放つ、男のハンスから見ても格好いい青年だ。


「何の騒ぎだ?」

「子供のアサシンの話だがもうやめとこうぜ。思い出すだけでケツから血が出てきた」

「トイレに行列できてるのはそのせいか。あいつ姉御と破局したってのは本当か?」

「興味あるんですか?」


 特に意味もなく口を挟むと、うさんくさいものでも見るような目つきをされてしまった。


「あるよ。俺も昔は姉御のお世話になったからな」

「未練タラタラでしょっちゅう復縁迫ってるくせに余裕ぶるなよ」

「っち、うるせーよ。パンピーいじって遊んでるお前らよかマシだろ」


 黙ってお酒を飲み始めた剣士はレグルスというらしい。

 手招きで向かいの席に座るように命じられ、座ってもしばらく黙ったままだった。自分の中の納得できないわだかまりと葛藤しているふうにも見えた。


「俺と姉御は古い付き合いでな、お互い駆け出しの頃からタッグでやってきた。あの頃はルーデット卿にルキア、たまにシシリーとも組んでクエストに出ていたっけな」

「どのくらい前のお話なんですか?」

「さてな、十年か九年か……ま、そこはどっちでもいいだろうよ。あの頃俺は田舎から出てきたばかりの喧嘩自慢の馬鹿なガキで、姉御の優しさにすっかり舞い上がっていた」


 アルバムを眺めるように語る言葉は懐かしさともう二度と戻れない過去への憧憬を含んでいる。 


「たまによ、レイシスって言い間違えられてたんだ。それが誰かっつーと姉御の弟で、俺はその代わりだったわけだ。馬鹿な俺は怒ったよ、俺は俺だ、レイシスじゃないってな。そんで姉御を泣かせちまって、よくルキアの兄貴からうまくやれよって小突かれてた」

「カトリーさんは弟さんのことをまだ?」

「姉御は弱い人なんだ、無くしちまったもんをいつまで引きずって後ろばっか向いて似た物見つけて喜んでる。子供なのさ」

「それは弱さでしょうか……」

「当たり前だろうが。生きりゃ色んなもん落としちまうもんだ、それでも前を向いて歩いていくのが人生って奴だろうが。ま、ともかく俺はそれが我慢ならなかった。何度でも言い続けた、俺を見ろ、俺だけを見ろ、レイシスなんていねえ奴の事なんか忘れて俺の物になってくれってな。姉御に必要なのは弟のニセモノなんかじゃねえ、姉御の弱さを守ってやれる男だ」


「いつかあんたを倒して俺を認めさせてやる、なんて威勢のいい啖呵を切って喧嘩別れをしたはいいが、未だに姉御に勝ててねえのは問題だがな。俺もAランの中じゃ強い方だとは思うんだが……そろそろ本題に入るか」


 自覚はある。

 散々ノロマだグズだと馬鹿にされてきたけど自覚はある。これから何を言われるかも、わかっているつもりだ。


「姉御の傍にいていいのは姉御の目を覚ましてやれる強い男だけだ。それはお前でもリリウスとかいうガキでもねえ、俺だけだ」


 ハンスは折に触れてはレグルスとの会話を思い出してきた。

 大勢の騎士と竜騎兵に囲まれたカトリーエイルが連れ去られた今この時もだ。


 何度も立ち上がろうと思った。何度も声をあげようとした。でも震える足は動かず、声も出せず、必死になって寝たふりを続けている……


 ちからが無いからだ。


 リリウスなら声をあげたはずだ。レグルスなら剣を抜いて立ち向かったはずだ。あの二人でも騎士団に敵うはずはないけど、立ち向かう事さえもできない自分より何倍もマシだ……


(僕だって冒険者なのに……!)


 一瞬の騒ぎが治まった陽光公園。立ち上がったハンスは遠い空に浮かぶ竜騎兵の背中を見つめながら、拳を握りしめていた。


 この状況をどうにかできそうな人物に一人だけ心当たりがある。

 アルトリウス・ルーデット卿。大勢の冒険者たちを束ねる三大クランの一角にしてカトリーエイルの父だと一度だけ聞いたことがある。


 足はまだ震えているけど伝えねばならない。

 リリウスにもレグルスにも劣っているのは認めるけど、好きだって気持ちだけは負けてないって思うからだ。


「カトリーさん!」


 騒ぎ疲れて眠る街を必死に駆け抜ける。


 恐怖と不安ばかりが心に浮かぶけど必死に抑えて足を動かす。本当はもっと早くこうするべきだったのかもしれない。強くなければ隣にいられないのなら、もっと早く強くなるために何かしなければいけなかったんだ。


 騎士団に捕まればどうなるだろうか。

 不安が胸を締め付けるたびに彼女の笑顔を思い出した。

 疲れて走るのが辛くなっても足を動かし続けた。


 やがて下層街の南側にたどり着いた。

 巨大な空中都市を大地に繋ぎとめる四本の鎖の一つ、その麓に。


 大地から空中へと延びる石材の橋、その先には見上げ続けてとうとう足を踏み入れる事さえなかった空中都市がある。


 だがその道のりのなんと遠いことだろう。すでに十二キロかそこらは走ってきた。全力疾走で疲れ果てたところに標高三百メーターの天橋は絶望的なまでに遠い。


(疲れたなんて馬鹿言えるものか。カトリーさんを助けられるのはレグルスでもリリウスでもない、僕だけなんだ! 僕がやらなきゃいけないんだ!)


 長い、長い天橋をのぼっていく。


 あまりにも長い橋をのぼり詰める。少しの安心から膝が揺れ、でも座ることなど許しもせず空中都市に入ろうとしたその時、足が動かなくなった。

 手も、足も、体の自由が何者かに奪われたように動かない。


 やがて暗闇の向こうから騎士の分隊が現れた。彼らはハンスを取り囲みはしたが、警戒するような相手ではないと判断しているふうだ。


「はは、許可証のない者が入るとそうなってしまうんだ。一つお勉強になったね」

「下層街の子ならそれくらい誰でも知ってるはずだろ。余所から来たんだろ」

「空中都市なんか見たら入りたくなる気持ちはわかるぜ」

「ほら、麻痺を解いてやるよ。無断侵入は罪になるが今回は見逃してやるよ、ほら帰りな」


 ようやくのぼってきた天橋へと追い出されてしまった。


 騎士団は訝しがった。一度は背中を押して追い返したハンスが振り返り、立ち止まったままこちらを睨んでいるからだ。


「逮捕しないだけでも感謝してほしいくらいなんだぞ。どうしても入りたいなら許可を取ってからにしてくれ」

「その許可というのはどうすれば……?」

「民政局に正式な届け出を出したローゼンパーム都民が年間五十ユーベルの税を三年間納め、移住の届け出を出すと許可証が発行されるね」

「その……今だけ少しだけ入ることもできませんか? あの、伝言を預かっただけなんです」

「どこの誰に何を伝えるんだい?」

「どこに住んでいるかまでは……そのぅ、アルトリウス・ルーデットという人なんですが」


 あんなに優しげだった騎士たちの目つきが一斉に鋭く変化する。

 油断していた。だから気を引き締めた。そんな様子で鞘から剣を抜き始めた……


「卿の下に最近出入りしているガキの冒険者がいたな?」

「まさかこいつではないだろ」

「油断するな、凄腕のアサシンだと聞くぞ」

「少しその辺りのお話を聞かせてもらおうか。なぁに、正直に話せば殺しはしないから……」


 騎士の腕がハンスの腕を掴む。

 ハンスは願った。ちからが欲しいと願った。

 だが何もかもが遅すぎた。すでに崩壊の足音は彼のすぐ足元まで忍び寄っていた。

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