マクローエンの絆③
夢だ、夢を見ている……
夢の中でその人はいつも笑顔だった……
小さな僕が森の中にある傘みたいに深い盛り草の下で泣いている時も……
「やれやれ、こんなところにいたのか」
仰ぎ見たその人はやっぱり笑っていた。
小さな僕はその人の笑顔を見ると泣き出してしまった。
「リリ兄ぃ~~ぃ」
「隠れ鬼で本当に行方不明になるやつがいるか。おーい、ルド、バト! アルドが見つかったぞ!」
その人は僕がどこに隠れても必ず見つけてくれた。
家への帰り方がわからなくなって、どうしたらいいのか分からなくなった時はいつだって来てくれた。疲れたろって言っておんぶして家まで連れ帰ってくれた。
その人は僕にとって……
「ねえリリ兄、リリ兄はどうして僕の場所がわかるの?」
「兄ちゃんだからだよ」
「兄ちゃんだとわかるの? ナンデ?」
「兄ちゃんはお前よりもずっとたくさんの物が見えるからだ。足跡とかお前が踏んで曲がった小枝とかにおいとか、色んなもので探せるからだ」
「兄ちゃんはすごいなあ」
「おう、兄ちゃんはすげえだろ。尊敬しろよ! ……だから兄ちゃんに石投げるなよ」
「うん、わかった!」
「ぜってえわかってねえ……」
なんてブツクサ言う時もあの人は笑顔だ。困った時には困ったみたいに笑い、複雑な気持ちの時は苦笑を浮かべ、楽しい時は大口を開いてガハハって笑う人だった。
なんで忘れていたんだろう……?
憎しみだけじゃなかったのに、なんで……
◇◇◇◇◇◇
本をめくる音で目を覚ます。
カンテラの明かりが闇に浮かぶ書庫で、その人が読書に励んでいる。あまり本を読むのは得意じゃないのか顰めっ面を浮かべている。
起き上がるちからもない。ぼおっとしたまま彼の横顔を見つめていると目が合う。
不敵に微笑むあの人の笑顔は夢の中と何も変わっていない。強く逞しく、いつも見上げてばかりいた兄ちゃんの顔だ。
「起きたか。一応簡単なチェックはしたが異常はないか、あったら兄ちゃんに言えよ」
「お前は……げほっげほっ」
起き上がろうとして咳き込む。吐き捨てた血反吐には歯が二本含まれていた。
「いいから寝てろって。これ舐めとけ、痛み止めだ」
投げ寄こされた小壺には粘性の何かが詰まっている。だいぶ使ってきたのか手のひら大の小壺の中身はもう半分もない。
蜂蜜よりも重いジェルを指ですくい嗅いでみる。深い森のにおいがする。雨の日の森の香りだ。
「これは何だよ」
「痛み止めっつったろ。ウルド様お手製の古き森人の妙薬だ。壊れた歯が治るほどじゃないが打撃ダメージくらいならすぐに治る」
「ふぅん」
一口だけ舐めてみる。蜂蜜の甘さの後に複雑な苦みに襲われた。後味が悪いってのはあの人もよくご存じらしい。ライチ水を水筒を放ってきた。
「薬が効いてくるまで寝とけ」
そう言って読書に戻っていった。
何かを言わなければいけない気がした。でも何を言えばいいのか思いつかず、開いた口は意味のないことを言った。
「ここは何だ?」
「マクローエン家の隠し書庫。マクローエン家の当主になる者だけが立ち入りを許される、継承されるべき知識の宝庫だ」
「お前はこんなところで何をしている?」
「調べもの」
「お前は何を知りたい。マクローエンの秘密を探って何をするつもりだ?」
「やれやれ、そうつっけんどんにされると心が痛むぜ。もうリリ兄って呼んでくれねえのか?」
この人は何も変わっていない。別れも告げずに僕の前からいなくなった日から何も?
そんなはずはない。それだけの時が流れた。
自分が変わったようにこの人もだいぶ変わっている。ただ僕らが大人になっていっただけだ。
「僕を捨てて出ていった奴が今更何を言うか」
「ガキっぽいこだわり程度で安心したよ」
「ガキだと?」
「ガキじゃねえか。男兄弟なんてそのうち実家を出ていくもんだ。いつまでも仲良しこよしでやってけるってのは子供の見る夢でしかないさ」
そうだ、こういう人だった。
誰より厳しく、誰よりも優しいのに、その目は常に遠くを見ている人だった。この人はいつも外の世界を見ていた。
『夢があるんだ』
『この雪原の向こうに広がる景色はどんなだろうなって、俺は寝ても覚めてもまだ見ぬ景色を夢見ているんだ』
『世界はこんなに広いのに、こんな田舎にこもってるのはモッタイナイだろ?』
『夢だ、お前にはねえのか?』
『なあアルド、俺達はこんな田舎に縛り付けられるために生まれたわけじゃねえだろ』
『男なら好き勝手生きた挙句に野垂れ死にしよう。それくらいの方がきっと楽しいぜ』
『なあアルド、お前だって好き勝手やっていいんだぞ』
だから彼にはわかるまい。
彼が帰ってくる日を待っていた僕の気持ちなど……
「好き勝手に言ってくれますね。……でもあなたらしいや」
僕はただ願っていただけだ。
この人を理想の中に押し込めた。この人が嵌めた型の中で大人しくしているはずがないってわかっていたはずなのに……
いつまでもあなたを見上げていたかった。そんな想いをガキだなって言い捨てるあたりが本当にらしい。
「今、何してるんですか?」
「だから調べもの」
「そうではない。ちがいます、仕事とか色々…そんなのは?」
「あぁそっちか。冒険者やってんだ。けっこう出世したんだぜ、今やリリウス・マクローエンは世界でも26人しかいないSランク冒険者だ。ダチと商売もやってんだ、これがけっこう儲かってんだぜ」
彼が語る物語はいつだったか彼が語り聞かせてくれたものに似ている。
あぁこの人は夢を現実にしてしまったんだと思うと涙が出てくる。……納得もした。
この人に置いていかれた子供の気持ちなんてわかるわけがなかった。この人は夢に向けて突き進める男だ。何度つまずいても傷を負っても夢の方へと歩いていく人だ。
彼はこんなに近くにいるのに、その背中はもう見えないくらい遠いんだってようやく納得できた。
最後にあの人が笑顔をくしゃりと歪めて……
「ごめんなアルド、こんなんなるって考えてもいなかった。お前を置いてくべきじゃなかった。兄ちゃんなのに守ってやれなくてごめんなぁ」
「……いえ」
この寂しさは封じよう。
僅かならぬ恨みも、憎しみも、連れて行ってくれなかったことへと感じた裏切られた想いも今は封じよう。
謝ってくれたのに怒り続けるなんて本当にガキみたいだから……