海神の凋落
十年前、ウェルゲート海南東のクレス島。
ウェルゲート海の覇権を争い、サン・イルスローゼと敵対するフェスタの無敵艦隊所属のオーグ級軍艦二隻がクレス島軍港に入港する。
うず高い壁のように海上に迫り出したサンゴ礁に周囲を囲まれたこの島は、古来海賊どもの間で迷宮島と呼ばれ、ウェルゲート海でも有数の悪の入江であった。
海賊相手に商売をする海賊と娼婦と陸を追われた魔女が、昼も夜もなく酒を酌み交わす海賊の楽園も今はむかしの話。
フェスタの海軍基地として接収されたクレス島は要塞化が為され、怪しげな魔女どもが張った霧の結界や迷いのつる草は焼き払われて、堅牢な石造りの防壁が屹立している。
かつて海賊どもが我が物顔で跋扈した幾多のログハウスは打ち壊され、打ち立てられた巨大城塞の威容は、中世と近代を分かつ文明の砦であるかのようだ。
巨大城塞の主は今年三十二歳という若き総艦長アルトリウス・ルーデット。皺ひとつない軍服に、聖銀の軍刀を佩いた一流の伊達男である。
たった今到着したばかりの軍艦から提出された書類に目を通す父を、総革張りの四人掛けソファに寝そべりながら見つめるのは十三歳になったばかりのカトリーエイルであった。
「ねえねえ親父?」
若き総艦長は不本意そうにため息をつく。
娘の言葉遣いが原因だ。
「……兵隊どもに安易に毒されるな。ダディと呼びなさい」
「金持ちの馬鹿娘かな?」
「君は一応金持ちのご令嬢なのだよ。ルーデット公爵家の娘なら相応しい言葉遣いを心がけなさい」
「サロンでならきちんとしてるじゃん」
確かにその通りだ。
娘は余人のいる場所ではきちんと公爵家ご令嬢の態度をする。要領がよく、頭の回転の速い子だ、だから古臭い慣習や礼儀作法を老害やら古いやらと見下してしまう。
わかるよ、理解はできる。私も昔はそうだった。
若き総艦長は内心での微笑ましさを隠しながら、威厳ある態度でこのように説く。
「言葉遣いは癖になりやすい。優雅足らんと思えば常に優雅に生きよという格言を教えたはずだね?」
「その口調優雅なつもりなの? ちょっと変態っぽいよ?」
「…………(絶句)」
子は大人に向けてナイフを投げ、それでいてなぜ傷つくのかと不思議がる生き物だ。
軽い気持ちで放った一言で父の心がどれだけ傷つくのか、考えもしない生き物だ。
以前「ちょっと臭くない?」と言われてから香水を欠かさぬようにしてきたが、逆に香水臭いと嫌厭されて一月ほど立ち直れなかった事がある。
「……ではどのような話し方をすればいいと思う?」
「ギャラハッドおじさまみたいのがいい」
総艦長の脳裏に蘇ったのはガハハガハハといつも笑っている、少し頭の足りない兄の馬鹿明るい笑顔だった。
悪く言えば脳筋、よく言えば豪快な人物である。
「お前はああいうのがいいのか?」
「月の娘より太陽の娘ってよく言うでしょ? 長くいるなら裏表のない人の方がいいと思うの」
(兄上のようにか……ふ~~~~む?)
総艦長の表情筋が悲鳴をあげる!
「でも無理はしなくていいと思うの! どーせ嫁ぐまでの付き合いだし、陰キャが無理して陽キャのマネするより全然マシだから!」
「カトリ」
「なぁに?」
「お父様はね、今とても傷ついているのだよ?」
総艦長は父としての威厳を自ら投げ捨てた。
娘を愛している。しかし娘から嫌われている。常にこの想いに悩み傷つき、嘘でもいいから「大好き!」と言ってほしい。そう願っての一言だ。
うるさがたに徹して娘からの愛情を求めないという方法が一番娘のためになるが、大概の男親は娘には好かれようとして逆にヘイトを稼いでいる。
「そりゃ~、からかったからね」
「…………(絶句)」
「カトリ、暇なのだね?」
「うん!」
「お父様で遊ぶのはやめなさい」
総艦長はそれきり黙り込んだ。
大量の書類に没頭し、読み終えたと思ったら二週目に突入した。
(怒ったのかな? 可愛いとこあんじゃん♪)
カトリーエイルとはこうした少女だ。
猫のように気まぐれで、愛する者こそを鋭い爪で引き裂き、もてあそぶ。その性根は猫科は猫科でも雌獅子の獰猛さに似ている。
カトリーエイルがニヤニヤしながら父の書類仕事を見守っていると、父が急に立ち上がってハンドベルを鳴らして部下を呼びつけた。
「入港した夜の亡霊号と明けの明星号の人員は離艦したか?」
「ハッ、艦内に待機させております」
「そのまま沈めろ」
騎士の表情が凍りつく。
「破壊活動を行う工作員だ。奴らを味方とは思うな、一息で殲滅しろ」
「僭越ながら、小官にご説明いただきたくあります」
凍りついた表情はすでに凛々しい騎士の物に戻り、ならば何の疑念があろう。
忠実なる騎士が主人の疑念を払うようにニヤリと笑ってみせる。
「掴んでおけば部下にも説明できるというものであります」
「これでしょ?」
間に割って入ったカトリーエイルが摘まんでいるのは一枚の書類。
乗員名簿だ。
「見事にバーネット公爵派の兵隊ばっか。こんなもん正直に書くなんて馬鹿なのかな?」
「ギャラハッド兄上のご配慮というやつだろう」
「おじさままで加担してるって? そりゃ奥さんとの板挟みだろうけど、ちょっとショック」
軽い口調ではあるがショックなのは本当なのだろう。
ブーたれるみたいに唇を尖らせる愛娘の態度に、捨猫みたいな物を感じる。
そこまで気に入っていたとはな、苦笑する総艦長が娘の肩を抱き寄せる。
こんな時くらいだ、男親が求められるのはこんな時くらいのもので、吾知らず不安を思う娘を勇気づけてやる機会を見逃してやるものか。
「そうではないよ。バーネット派で固めたのは我々への警鐘だ」
「回りくどいなぁ、おじさまの手とは思えないけど?」
「それこそ奥様の知恵を借りたのだろうね。馬鹿正直に手紙を出せば途中で握りつぶされるだけだからね。お二人は我々の味方だ、だから安心なさいカトリ」
「……うん」
時はあまり多くない。娘への気遣いに使える時間はここまでだ。
騎士に向き直った総艦長は正しくその役職に相応しい威厳で命令する。
「二隻を撃沈並びに敵艦員の殲滅を命じる。その際情報源となる高級士官数名の捕縛も可能なら行え!」
「実行後、総員に通達せよ! 事態を本国での政変と仮定。本国ではバーネット派が宮廷を抑えつけ、王者も同然に振る舞っているだろう。奴らの下で冷や飯食いをするか、私とともに新たな航路を往くか選択せよ!」
「ハッ!」
「時は多くない。クレス島はすでに艦隊包囲を受けているものとして行動するように」
命令は発した。
僅かな時を置いて城塞は巨大な爆発に振動し、やや間を置いて剣戟の音色が聴こえ、一瞬のざわめきのように止んだ。
すでに命令は発した。
意思を通した。
ならばもう戻れまい。
(すまぬ。エウリーデ、レイシス、私は……無力だ……)
総艦長は本国で囚われているであろう妻と子を想い、流血するほどに拳を握りしめた。
微風を受けて膨らんだ帆は推力を生み出した。
縦横帆船と呼ばれる帆形をした軍艦がクレス島を出港する。
次々と出港する。
遠洋に浮かぶちいさな島のどこにあれだけの船が隠れていたのか、と思われる数の無数の軍艦がちいさな島から吐き出されていく。
遥かな洋上にずらりと居並ぶ艦隊の一隻、旗艦アルカンシェルの物見はすぐにその光景を艦隊長ライアード・バーネットに報告した。
「クレス島を出港した船団はオーグ級を中心に十五・六隻ほどの船団を組み、六方向に分かれて逃走する模様!」
伝令の報告を受けたライアードは長い前髪をいじりながら「なるほど」と感嘆する。
柔らかな艦長席に優雅に腰かけたまま、脳裏に浮かべるのは、どんな海の男も憧れずにはいられない伊達男の艶姿だ。
藍染めのキルトスカーフを斜めにかけたあの男に、僅かな憧れもなかったとは言わない。
(流石だよアルトリウス、あなたはやはりこの程度で終わる男ではないんだね? それでこそ僕が認めた男なんだ)
旗艦アルカンシェル艦長ベルリッカ・レイモンドが海図を広げたテーブルを叩く。
「ルーデットは絶対に逃すな! 彼奴めが旗艦ベルクレスト号は何時の方角に向かっている!?」
「こちらへ真っすぐ! 僚艦も率いず単艦で突っ込んできます!」
「ばっ……ベルクレストは囮だ、ルーデットは他の五つの船団に潜んでいる! 全艦に通達、艦隊は逃走する敵船団五つを追尾撃破せよ! 絶対に逃すな!」
艦隊長ライアードは何の命令も下さない。
それもそのはず彼はお飾りの艦隊長だ。バーネット公爵ストレリアの甥というだけで艦隊長に任じられた、謂わば肩書きだけの若僧だ。艦隊を組む歴戦の艦長らからすればこんな若僧の命令など聞けるかという反骨もある。
だからライアードは命じない。命じた通りに動かぬなら、命じる必要なんてないじゃないかと嘲笑する。
彼よりも海を知る者など、このウェルゲート海にはあの伊達男しかいないのに……
立ち上がったライアードは鼻歌を口ずさみながら、ふらりと艦橋を出ていこうとする。
「艦隊長どこへ行かれる!」
「風を浴びに外へ。僕がここにいる必要はないだろう?」
「遊び気分の若僧がッ……!」
艦長ベルリッカの机を叩く音を背に、ライアードは退室。
ダンスのように軽やかな足取りで上機嫌な鼻歌を口ずさみながら艦内を歩く。
途中で出会った士官の形式だけの敬礼を受け取りもせず、ひらりひらりと軽やかに、海を渡る風のように。
上機嫌、彼は正しく上機嫌なのだろう。
馬鹿の相手をしなくていいから上機嫌、というのもあるだろう。
だが一番の理由は己こそが誰よりもあの伊達男を理解していたという事実のせいだ。
「馬鹿ばかり、本当に馬鹿ばかりだ」
甲板に出る。
「アルトリウス・ルーデットがベルクレストを捨てる? 囮だって? それは何の冗談なんだよ」
舳先へと向かう。
「船団を分割したのは攪乱もあるだろう。こちらの戦力を分散させるのも目的だろう」
女神を模した彫像から飛び出した船角に立つ。
「彼の部下は精鋭揃いさ、この作戦はクレス島で決着できなかった時点で彼の勝ちなんだ」
そして待つ。
「でも彼はくるよ。誰よりも優雅に、鮮やかに、お別れの挨拶をしにね? 凡夫には思いもつかないんだろうけどさ」
彼は待っているのだ。
まっすぐにアルカンシェルめがけてやってくる、戦艦ベルクレストに乗り込んでいるだろう伊達男を。
海上に浮かぶ黒い点はその距離を縮めるに従って、少しずつ船の形を取り戻していく。
船体も帆も何もかもが黒塗りがゆえに、ウェルゲート海の死神船と呼ばれるベルクレスト号は空っぽ。
忙しく指示を出す甲板長もいない。
綱を引く大勢の水夫もいない。
空っぽの死神船とすれ違う。
(あの凡夫は今頃『やはり囮だったか』なんて得意げにしているんだろうね)
くつくつと笑いが込み上げてくる。
やはりだ、やはりそうだったのだ、己こそがあの伊達男の最大の理解者であるのだと思えば、諧謔なる笑みも零れてくるものだ。
死神船には誰もいない。
誰の目にもそのように見える。
だがライアードの魔眼には、潜伏魔法を用いて舵を掴む伊達男の姿がハッキリと見えている。
その堂々たる舵取りはとてもではないが逃亡を選んだ男のものには見えない。
ライアードが普段のおちゃらけた様子もなく、敬礼をする。
アルトリウスも敬礼を返す。
言葉は要らない。己こそが彼の最大の理解者ならば、ここは何も言わずに航路の無事を祈るべきだと理解している。
言葉にすれば、それはあまりに粋じゃない。
二つの船がこすれるほども近い距離ですれちがい、離れていく。
「ルーデットだけは絶対に逃がすな!」
艦橋で凡夫が何やら騒いでいる。
誰を探しているというのか、目的の伊達男は今すれちがったばかりだというのに。
お別れはできた。ペナルティー覚悟で、叔母に頼み込んだだけの甲斐はあった。
「あぁでも……最後に少しくらい話をしてみたかったな」
切なげな笑みを残して、船は進む。
ウェンドール793年、四月二十七日。
選帝公ストレリア・バーネット率いる黒獅子騎士団がフェスタ王宮を制圧、皇帝ラジールを処刑する。
翌二十八日、イルトゥーク、ラザイラ、ベルフィオーレ、三名の選帝公がバーネット公爵の下に膝を折り、戴冠を承認。
これにより皇都エレンディラにて王宮奪還作戦を継続していた禁軍はその大義名分を失い、崩壊する。
敗走の途上にて禁軍大将クライスラー選帝公が病死。
彼の武人の死を契機にフェスタ国内での抵抗活動は事実上の鎮火。残党は国外へと亡命する。
同年七月十五日、皇帝ストレリア・バーネットの戴冠式が行われ、フェスタ帝国は第二帝政へと移行する。
新皇帝ストレリアは宮廷の権力構造を大きく弄り、密やかに振るわれる粛清の刃は翌年になっても止む事はなかった。
百隻を越える敵艦が水平線の彼方に消えていく。
舵を取る父の足元でぼんやりと海を見つめているカトリーエイルは、よいしょと掛け声を発して跳ね起きる。
おとなしくしている理由はもう無いからだ。
「どうするの?」
「さて…な」
「そっか……」
カトリーエイルは父の返事で察した。
本国に残してきた母と弟を救い出す気はない。
救出は自殺と変わらない。
クレス島から逃げた時点で、いや、それよりももっと前から二人は厳重に監禁されていたはずだ。
フェスタ本国に着く頃には今よりも遥かに厳重に監禁されているだろう。
あの二人は逃亡犯アルトリウス・ルーデットを釣る最高級の生餌となる。
そのくらいのことはわかってる。
あたしと兄貴がいる以上、親父が賭けに出るはずないってカトリーエイルは理解しているのだ。
理解はできても簡単に呑み込めるものではないから、もう一度そっかと呟いた。
「父上、サン・イルスローゼはいかがでしょうか?」
船内からパスタの大皿を二つ持ってきた兄のルキアーノが、カトリーエイルに差し出しながら言った。
アルトリウスは眉間に深い皺を刻みながら悩む。
フェスタとサン・イルスローゼ、両大国は古くからウェルゲート海の覇権を競って血みどろの戦いを重ねてきた。
海軍の重鎮ルーデット家の歴史は彼の超大国との戦争の歴史でもある。
だがこの海でフェスタのちからが及ばない国もまた彼の超大国しかないだろう……
「それは……」
「まっずーい!」
トマトケチャップたっぷりなアラビアータ風のパスタを口いっぱいに頬張るカトリーエイルがひどい顔となり、ルキアーノがダメかなって肩をすくめる。
「妙手だと思ったんだがね」
「パスタの話!」
「嘘だろう、コックのレシピ通りだぞ?」
「じゃあなんでチョコ入ってんの!?」
「コクが出るだろ?」
「もっとやばいの出てるわよ。ああああああああっ、なんでビスケット入れてるの!?」
「食感が単調だと飽きるだろ?」
「兄貴コック解任! あたしが作るから!」
「待て、それはまず…い。色々な意味でまずい!」
「どーゆー意味!?」
「二つの意味でまずい!」
ギャーギャーと言い合う子供らを見ていると何だか肩の力が抜けた気がする。
何もかも失った気分だったのに、まだ大切な物が二つも残っていたんだ。そうした気づきは大切だ。教訓として、何より生きる意味として。
(失ってからその大切さに気づかされるなんてマヌケはもう二度とごめんだ)
貴族として生きてきた。海の男として生きてきた。たくさんの責任を抱えて生きてきた。
抱え込んだ責任と義務に相応しい男であれと生きてきた。
それは堅苦しい生き方だった。
でも明日からは何も持たずに生きていく。
カトリとルキア、二人の子と手を繋いで生きていく。
二人には貴族としての在り方を教えてきた。
でも明日からは生きていく方法を教えねばならない。
それはとても大変なことだ。貴族としての礼儀作法なんかより遥かにたくさんのことを教えねばならない。
(さしあたっては料理の仕方からだな)
掴み合いのケンカを始めた二人を見つめるアルトリウスの口元に笑みが零れた。
洋上の死神船はその進路を太陽の国へと向けた。