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転章 夜の残滓

 焚きしめた護摩の香りは香辛料のように刺激的だ。


 静謐さが暗い闇となって光を閉ざした神の座へと上がれる者は唯一人だが、彼は例外的に許され、何者も入室のできない神の間の下座で膝を着いている。

 大罪教徒アスラリエル・サファは謹厳な面持ちで神の御言葉を待つ。

 黄金の眼が見上げるロキ神は愉快そうだ。上機嫌ではない。獲物をなぶる嗜虐心の愉悦だ。


「失敗の報は許されないと分かっていて戻ってきたからには言い訳があるんだろうね。いいよ、言って御覧よ」

「夜の魔王の呪具保有者リリウス・マクローエンは魔王に魂を食われ、復活した魔王は大魔ディアンマを滅ぼしたのです」


 ロキ神の表情が凍りつく。

 驚いた? 否、予想が当たったといった表情だ。


「やはりあの波動はレザードの物か。何かの間違いだったらよかったのに、運命はやはり僕に優しくない……」


 先ほどとは打って変わって焦燥感に満ちた表情のロキ神が問う。


「夜の魔王をどう見た?」

「人に対し強烈な敵対心を持っているふうに見えました」

「だろうな。あれは守り抜いた人々に裏切られた男だ」


 気になるワードだったがサファには神に問う資格はない。ロキ神の狭量さは信徒の口答えを許したりはしない。ましてや好奇心からの質問などもっての他だ。


「他には? そうだな、何か口にしていたか?」

「ティト神やアルテナ神を殺すと」


「……僕を有象無象に換算したか。まぁいい、好都合だ。他には?」

「復活した夜の魔王ですが……」


 報告は慎重を極め、理解の及ばぬ出来事をなるべく正確に並べ立てる。

 話をまとめようにもあの出来事は本当に理解ができなかった。まさか呪具そのものが造物主に反抗して倒してしまうなど、サファの優れた洞察力をもってしても何が何やらだ。


「……よくわからないな」

「復活の場にいた私も本当に何をどう説明すればいいのかわからないほどの出来事だったのです」


「そうか、そうだな、だが夜の魔王が倒されたというのは朗報だ。呪具の所有者のその後は?」

「殺害の予定でしたがとある男からの助言があり、一旦様子見に切り替えました。その者の言い分によれば呪具所有者を殺せば強大なゴーストに変貌すると」


 サファが結論を出すふうに告げる。


「事は夜の魔王に関わるゆえ、主ロキの御判断をと」

「お前の賢明さに寿ごう。よく調べもせずにアキレスの腱を断つものではないと古くから言うように、余計な手出しをしてレザードの再来を招く必要はない」

「では此度の遠征は終了と」

「口惜しいかい?」

「手柄を挙げる機を逃したとあらば。ですが次の機会を待ちましょう」


「最後までやりたいとごねない辺りも好ましいな。アスラリエル、キミは本当によく育って戻ってきてくれた。その知略存分に振るってほしい」

「御心のままに。存分に申しつけください」


 その言いざまが気にいったのかロキ神が相好を崩す。

 他の教徒が見れば別の神かと疑うほど砕けた表情でサファの肩に触れる。慰労の御手ではない。ちからを分け与えたのだ。


 肩に触れられた瞬間にロキ神から伝うちからがサファの存在力を大きく引き上げ、サファの神格は神王級まで到達する。

 このようなマネを人にすれば魂が崩壊するが、神聖存在の末席にあるサファにとってはグロウアップポーションと何ら変わらぬ効果を持つ。


 主が仰せになる。


「我が子よ、お前には苦労の多き時代になりそうだ」

(それはどちらの意味だ……!)


 サファは己の出生に疑義を持っている。

 我が子よと呼ぶ主の御心は知らず。我が子よと呼ぶ父の御心もまた知れず。だが生まれ抱いたちからは確かに神のちから。

 古き森と古き都に覆いかぶさるまぼろしの霧のように真実は不明で、苦しみもがいて出国しても運命はこの地にあった。


 ロキ神の微笑みはたしかに優しいものであったけど、サファにはどうしても己を弄ぶ怪物の笑みにしか見えなかった。

 


◇◇◇◇◇◇



 夜と呼ぶには深く、朝もまだ遠い時刻。

 フェスタ帝国帝都アシュタルトの王宮で、馴染みの侍女とくっちゃべっているカトリーエイルが枕をパンパン叩きながら笑っている。恋バナだ。


「でさ、親父とラスト様ってくっつくと思う!?」

「どうだろなー、アルの心情を思えば厳しいんじゃない?」

「心情?」

「だって私と寝んごろになった時も自己嫌悪してたし。やっぱ娘とおない年の女に手を出すのは心理的な壁があるんだよ」

「あははは……まぁ親父ならそーゆーの気にしそうだよね」

「娘の方はどれだけ年下でも気にしないのにね」

「わかってないなぁシシリーはぁ~~」


 したり顔で指を振るカトリさんがえらそうだ。


「初心な少年を少しずつ夢中にさせる過程が楽しいんじゃん」

「ひどい女だー」

「シシリーにだけは言われたくないでーす!」


 ギルドの小悪魔ちゃんで知られるシシリーには数々の冒険者を手玉に取ってきた実績がある。いけそうだと思わせてから弄ぶ手管にかけては凄まじいものがあり、ストーカー化した男も十人や二十人ではきかない。カトリも何度か後始末をしたからわかるがシシリーが一番ひどい。


 ベッドに上で胡坐を掻いて、ワイン入りのコップを片手にする恋バナはいつの間にやらルーデット卿とシシリーの馴れ初めに。

 当時のシシリーは冒険者としてルーデット家とパーティを組み、他にもアーガイル・バスティやレグルス・クルム・イェーガーがいた。ギルドの位階こそ低かったものの竜も倒せば迷宮も攻略した最高のパーティーだった。


「でね、アルがこう言ったの。何か欲しいものがあるなら言いなさいって。そんでわたしはアルに女にしてほしいってねだったわけよ」

「Dランク昇格のお祝いでそう来るのはシシリーだけだよねぇ」

「焦りもあったのかな? どうしてもルーデット家との絆が欲しかったの」


 頭脳も戦闘能力も最高の指揮官アルトリウス・ルーデットがいて。

 狂戦士のごときルキアーノがいて。彼と双璧を為すレグルスもいた。若いながらに極大魔法を行使するアーガイルもいた。投擲具の扱いにかけては天下一品のカトリもいた。


 シシリーは頭が良くて魔法の腕もそれなりだったけど、あのパーティーの中ではそれなり以下の存在で、彼らについていけなくなるのを、リタイアを告げられるのを恐れていた。

 その理由はカトリと一緒に居たいからで、でも彼女は同性で、悩んだ結果が父親に迫るという無茶なものだ。


「一回だけ抱いてもらった後は不自然に距離を取ろうとされたの。でね、わたしこう迫ったの。アルじゃなきゃ嫌。捨てたら他の男に抱かれるって。絶対に後悔させてみせる」

「悪い女だ」

「カトリには言われたくないなあ」

「あたしは脅迫なんてしないもーん」

「よく言うよ、洗脳に近い手管で少年を転がしてるくせに」

「そんなひどいマネしてないもん」

「じゃあエロのちからだ。大人げない技でいたいけなリリウス君を夢中にさせた悪い技だね」

「ひどいなあ、恋愛は自由競争原理だよ?」


 カトリがくししと笑う。わるい笑みだ。


「ファラちゃんとあたしの間で揺れまくる姿が可愛いの♪」

「それ完全に魔女のセリフ」

「そう、あたしは恋の魔法使い」

「……ジョークのつもりなんだろうけど実際に使えそうで笑えないわねぇ」


 話が戻る。

 やがてシシリーは本当について来れなくなってギルドの受付嬢になり、その頃からカトリもルーデット家の方針に疑問を抱いて距離を取り始めた。カトリに惚れていたレグルスもパーティーを抜けて、アーガイルもいつの間にか抜けていた。


 最高だと思っていた一党はそんな感じで空中分解してしまった。


「いま思えばみんなシシリーの存在に助けられていたんだよ。シシリーがいなくなったら親父や兄貴が自制しなくなって暴走してたもん」

「足枷扱いはひどくない?」

「いやいや褒めてるんだって。シシリーはさ、あたしらにとって守らなきゃいけない女の子だったから」

「えへへへ、調子に乗っていい?」

「調子のんな」


 シシリーの鼻先をツンと押してやる。

 冗談めかしてベッドに倒れ込んだシシリーにくすぐり攻撃を仕掛けていると……


 黒い風が吹いた。バルコニーから吹き込んだ黒い風は冷水のように冷たく、二人はふざける手もそのままに動きを止める。


「なに…今の……?」


 シシリーの呟きにも答えずカトリーエイルは夜の空を振り仰いだ。北方の夜は暗く何も見えないが……

 妙な胸騒ぎがする。豊かな乳房に手を置いて鎮めようとしても止まらない。


「リリウス君……?」


 なぜか思い出したその名前と顔には意味があるはずだ。ルーデットの本能がもたらす正答は、時として時間や空間を超越して身に迫る危機を教えてくれる。


 一見人当たりの良さそうな人物に出会った事がある。こいつは危険だと思っていたら数年後にストレリアの手先となった。

 本能が殺せと叫ぶままに何の罪もない男を殺した事もある。そいつはスキルを研究するアルステルムの鑑定師で、血統スキルホルダーを収集して己のちからに変える邪法の使い手だった。


 カフェで偶然出会った少年をイイネと思って冒険者に誘った。

 彼は瞬く間に成長を遂げてついにはカトリーエイルを超えるほどの戦士となり、今も英雄の道を突き進んでいる。


 ルーデットのちからとはこのようなものだ。あらゆるプロセスをすっ飛ばして正しい答えだけを唐突に提示する。

 だから大抵のルーデットはこのちからに戸惑う。数年後数十年後の正解を突然提示されても理解できずに混乱する。心を病む者もいる。


 父は本能に抗い、理性と思考力で圧し潰す自制の道を選んだ。

 兄は諦めて本能の化身となった。


 カトリーエイルはどちらも選ばなかった。そのどちらも正しい方法ではないと本能的に理解していたからだ。ルキアには「俺と同じじゃないか」と言われたが本能の奴隷に成り下がるつもりはなく、人として当然の道を選んだつもりだ。


 怪物になることを拒んだ父。怪物になった兄。二人から見ればカトリーエイルの生き方は中途半端に映るのかもしれない。

 でもカトリーエイルは人であることもルーデットであることも諦めなかった。


「これは祝福? 世界が大魔の誕生を喜んでいるの? ううん違う、これは今じゃない。あの黒い風は兆し。ならどこで誰が……?」


 バルコニーで耳を澄ませる。ルーデットの強化知覚は通常ではありえないほど広範囲の音を拾う。

 例えそれが幾つのもの隔壁の向こうにある皇帝の寝室であっても……


「シシリー、あたし出てくる!」

「え、わたしは置いてけぼり?」

「来ちゃえよ。ライア兄様のとこ行くよ」


 シシリーが驚きのあまり大口を開く。


「……そういうマニアックなプレイはちょっと遠慮したいかなあ」

「ほんとに置いてくからね!」


 シシリーの冗談なのはわかっていて、どうせすぐに訂正するのだから先にシシリーの腰を抱いてバルコニーから飛び降りる。


 皇帝の寝室は王宮の半地下にある。聖銀製の螺旋階段を一直線に落ちていく。ライアードの寝室から明かりと声が漏れている。

 魔王のヴァルキリー達の慌てた声が聴こえる。


 カトリーエイルとシシリーが近づくと部屋からヴァルキリー・ラクスヘルトが出てきた。二人の姿を視認し、煩わしげに潜めた眉は今お前達の相手をしている暇はないと言いたげだ。


「何が起きたの?」

「教えて何がどうなるというのです。……邪魔はなさいませんよう」


 室内に戻るラクスヘルトの後ろについて部屋の中へ。

 ベッドの上でライアードが苦しそうに胸を押さえている。巻き毛の金髪がチャームポイントのチャラい皇帝には平素の余裕がない。


 彼の周囲では魔王のヴァルキリーが祈祷術を吟じている。通常言語ではない。神代の言葉でもない。術行使のために開発された高速詠唱用の圧縮言語を用いた長い祈祷文言なのに、彼女らの口から詠唱が途切れることはない。


 いや、実際には何度も詠唱からの発動を行っている。

 ヴァルキリー達の詠唱する祝詞を、彼女らの長姉ヴァルキリー・グウェインが束ねて術を行使しているのだ。賦活のちからを宿した黄金の光の帯が室内に吹き荒れる。位階は神話級などではない。神々の術法だ。


「ライアード様、ライアード・バーネット様、御心を強く持ち自我を高めるのです」


 しかしライアードの苦しみは静まらない。

 何が起きているのか、この場に着いたばかりの二人にはさっぱりわからない。だからラクスヘルトに尋ねてみる。


「ねえ、ライア兄様に何が起きたの?」

「夜の魔王様の浸食が突然励起状態まで進んだのです……」


 ライアード・バーネットはリリウスと同じ夜の魔王の呪具使いだ。彼の履いた夜の具足はすでに下半身までの浸食を終え、さらなる領土拡大を目指し、だがヴァルキリー達のちからに阻まれている。


 拮抗している。幸か不幸か、まだ抗えている。

 自我を食わずにいるのは幸かもしれない。苦しみが長く続くのは不幸かもしれない。その先に希望があるかどうかで決まる曖昧な答えの話だ。


「止められる?」

「止めてみせます。充分に備えてきました、私どもはまだ主様を失いたくない」

「お願い。フェスタはまだ兄様を失うわけにはいかないの」

「言われるまでもない……!」


 治療が続く。彼の苦しみも続く。時間だけが延々と過ぎていく。


 汚泥のように耳にこびりつく苦悶が重なる部屋で、シシリーがぽつりと言う。


「いったいどうしてこんな事に? ある日突然起きるものなの?」

「……」


 ラクスヘルトは答えない。代わりにカトリーエイルが答える。


「夜の魔王が復活したんだよ。たぶんリリウス君が喰われた」

「カトリはそれでいいの?」

「いいわけないじゃん……」


 カトリーエイルは皮膚を破るほどのちからで拳を握りしめた。

 彼女の足は僅か一分で数十キロの距離を踏破するが、ウェルゲート海を越えられるはずもなければ、時を遡ることもできない。


 覇王の娘などと呼ばれても彼女は所詮人で、神ではない。


 だから過ちを犯して後悔して嘆き悲しむ。今のようにだ。

 だから拳を握りしめて彼の身を案じることしかできない。どれだけ悔しくてもだ。


「いいわけがないじゃん……」


 切なげな声を残して俯くことしかできない。


 ライアードを襲った呪具の浸食は夜明けと共に鎮静化を兆しを見せた。だが彼の意識が戻ることはなかった。

 フェスタ皇帝ライアードは目覚めぬ眠りについた。

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