幻術師と悪魔
森人どもは夢幻の都に囚われた。まぼろしを破壊するために破壊行動をしているが効果は出ていない。アスラリエル・サファが一週間の時をかけて丹念に構築した術理空間だ。ここから逃げ出すのはいかにハイエルフといえど、難しいはずだ。
夢幻の都を彷徨う森人どもを見下ろすメガネの幻術師は、その傍らで腹を抱えて笑っている魔導官を冷たい視線をやった。
人を嵌めて喜ぶ。人を貶めて笑う。すべては人の機能なれど、邪悪な面であるのもたしか。
その意味において魔導官ルーザーはまったくの邪悪だ。シンバルを鳴らすだけの機能しか持たない愚かなサルのオモチャみたいに笑ってる。
「クラウ、君も罠の使い方はうまいほうだが罠とは逃げ道にこそ仕掛けるべきなのだ。避難させたはずの女子供を罠の真っただ中に送ってしまったと気づいた時のあの者どもの顔を見ただろう? 最高だな!」
悪質な男だ。と批判する資格は己にはあるまい。
だが彼と同じ存在であるとは認めたくなかった。
「クラウとは誰のことです?」
「あぁそういう意固地なスタンスか。失敬、だが若いな、名を気にするのは子供の証だ」
「その発言は偽名に頓着しない者のものですね。ルーザーとはやはり偽名なのですか?」
「千の貌のアバーラインほどではないがそれなりに多くの名を持っているよ」
「アバーライン?」
知らない名詞を聞き返すと心底意外そうな顔をされた。
「おや知らないのかい? あれは名作だよ、リメイクとリマスタリングを繰り返して原型もなくなったがゆえに千の顔を持つ英雄さ」
(小説か何かの話ですか。読めない男だ、同じ言葉を用いているはずなのに神の言葉のように理解できない)
ルーザーとは偽名かと尋ねてものらりくらりとかわされる。敗者なんて名乗りをする男だ、名前になんて何の意味も見出していないのだろう。
アスラリエル・サファは別人になりたかった。ガラテアの息子のルードヴィッヒ・グローゼアルでも、大罪教徒第三位のアスラリエルでもない、ただのクラウになりたかった。
だが運命の流転は正道への立ち返りを強いて、彼は未だ運命の虜だ。
ルーザーの悪意の眼差しがこちらを見つめている。ただ見つめられているだけで呼吸が止まり、心が摩耗するような視線だ。
「神ほどのちからと頭脳を持ちながら人並みの悩みを抱え込むか。君はもう少し素直に生きたほうがいい。意に沿わぬ日々など退屈かつ無駄だぞ」
「ご説法ありがたく。で、捕らえた彼らの使い道はなんです? 互いに殺し合いでもさせますか?」
「君の策は軽いな。残酷さも効率の良さもある、でも軽い、それでは強いちからに押し負けるだけだ。先の繁殖の神殿での敗北のようにね」
サファの脳裏によみがえるのは手痛い敗北の記憶。
堅牢な神の城を築いて敵を待ち構えていたら、いきなり敵の極大戦力がセーフゾーンに乗り込んできたという最低の敗戦だ。
『邪魔だ、どけ』
蚊でも打ち払うかのような銀狼の前肢の一発を食らった瞬間に思い知ったのは歴然たるちからの差。何をどう足掻いても勝利し得ない強者と弱者のちからの差であり、サファは弱者の側だと思い知らされた。
もしあれが殺すつもりの一撃だったならサファはとうに冥府の人となっていたはずだ。
幸運に恵まれて生き延びた。ルーザーの手を借りねば立ち上がることもできずに帰国の途についていたはずだ。再び巡ってきた特務遂行の好機は、活かさねばならない。
「ルーザー、貴方なら策はどう打ちます?」
「私の策は凡庸だよ。君のようにソリッドな策は打てないし、ルーデットのごとく煌く流星のごとき策も打てない。ただ凡庸に手を打ち、出し抜かれたなら素直に賞賛するだけだ」
サファにはこの男が読めない。
この男は何も語らない。意味ありげに示し、導くように惑わせるだけだ。だが凡庸な手という部分に関しては謙遜だろう。王都内の酒場に構築されていたハイエルフの術式を読み解き、幾重にも嚙まされたダミーの中から予備の転移先を割り出した頭脳は天才的という言葉でも足りない。
あらゆる技術が最高水準なら、凡庸な手とやらも順当に凶悪なはずだ。
「問い方を間違えました。どのような結果になる手を打つのですか?」
「みんなが幸せになれる手だよ。私は目的を達し、君は殺すべき相手を殺せる。最高のステージを用意しよう。君は力量差を埋めるだけの枷を嵌められた銀狼と魔王を殺すだけでいい」
「そして貴方は高みの見物と?」
「いいや戦うさ。闘争こそが我が喜びなれば…ね」
殺人ナイフを掲げて薄笑みを浮かべるルーザーの姿は神のごとき怪物ではない。
一介の戦士、一人の人間としての業に溺れるものであった。