バルジの太陽②
シュテル・イルスローゼはバルジの監獄に囚われ、心ならずも平穏な日々を送る。
最初こそどうにかして外の協力者と連絡を取ろうと画策したり、脱獄を計画していたが、ある日突然何もかもがどうでもよくなった。
きっかけはささいな気づきだった。
共に囚われた妻と共に寝起きをし、ガラスの向こうに広がる湖と平野の光景を眺めながら穏やかに語らいをする。
妻はけして政治の話をしない。ニコニコと微笑みを浮かべ、楽しそうに別のおしゃべりをする。
牢獄というよりもリゾートのスウィートルームといった風情の大きな2DKで妻はバルコニーの花壇に咲くフェンネルの話をする。宮に置いてきたルヴィランは花をつけただろうかと話をする。
シュテルはその時になって初めて己の管理下にあるアムネジア宮にルヴィランの花壇がある事を知った。
24年連れ添った妻から出てくる自分の知らない思い出語り。
今では立派に成人している三男のエンリケが12歳までおねしょが治らなかったなんて知らなかった。
「初耳だぞ」
「うふふふ、父様には言わないでってあの子からお願いされていたの。でももう約束も時効ね」
「ひどい母親だ、約束に時効なんてあるのか?」
「ええ、あの子は出来損ないの馬鹿息子だなんて思われたくないだけだったもの。あの子は立派に育ちました。もう必要ありませんわね」
「ああ必要ない。エンリケは自慢の息子だ」
「それは本人に言って差し上げるのね。あの子も……他の子もあなたがナルシスばかり可愛がるから寂しがっていたのよ?」
「そんなつもりはないぞ。あいつは危なっかしいから目を離せなかっただけだ。我が子に序列などつけるものか」
「それも子供達に言ってあげるといいわ。きっと喜ぶから、ね?」
「貴様説教くさくなっとらんか。出会った頃は大人しい可愛い娘っこだった気がするがな」
「あら、母親は強く賢くなきゃいけないのよ」
「口うるさい母親は嫌われるぞ」
「お生憎様、あなたよりも好かれておりますの」
「中々胸に来る一言だなそいつは……」
妻が語るシュテルの知らない家族の物語。子供達はシュテルが思っていたよりもずっと優しく頼もしい存在で、複雑に思い悩みながら母と兄弟たちのドラマを紡いでいた。
「ふぅ~~~む。誰か別のやつの話が混じっとらんか?」
「だってあなたの前では王子の顔しか出せないもの。子供の顔、兄の顔、弟の顔、あの子達には色んな顔があるの。あなたの知ってるあの子達なんてたった一つの側面なのよ」
妻の語る家族の物語に夢中になり、ふと気づけば王家の責務なんてものはどうでもいい事に気づいた。
共に歩んできたはずなのに家庭を蔑ろにした結果の空白の24年の物語。聞き終えるだけで残りの人生が終わってしまいそうだ。ふと気づいた、騎士団長のような多忙な仕事をやっていく時間などないことに気づいたのだ。
監獄の日々は穏やかで、妻は自分が思っていたよりもずっといい女で……
(俺は俺が思っていたよりもロクデナシの夫だった。俺をずっと支えていてくれた妻の事も子の事も何も知らない馬鹿親父だった。……何が太陽の守護神だ)
バルコニーから望む湖と平野の光景が冬の味気無さから春の彩りへと移ろい往く。
春の訪れを感じる日、いつものように妻の入れてくれた紅茶を傾けながら……
「アルシェイスに降ろうと思う」
妻に初めての相談をする。
多忙をいいわけに家庭を顧みず、国家安寧を盾に妻子を黙殺してきた男が、初めて妻に意見を尋ねる。
「王位継承権を放棄し魂の誓約を誓いまで建てれば処刑とまではいかぬだろう。辺境の開拓地でも貰ってそこでお前達と暮らしていきたい。……俺のような不甲斐ない男にはもう付き合えぬというならハッキリそう言ってくれ」
「あなたは本当に何も知らないのね」
妻が首を振る。
当然か。当然だな。今更思い出したように都合のいい事を並べる夫に愛想が尽きたか、もっと以前からか。太陽の王家の看板を下ろした男に連れ添う意味などあるはずがない。
「出会った頃から変わらない格好良いままの旦那さん。ちょっと頑固で融通は利かないし人の話も聞かないけれど、そういうところが好きな女もいるのだとそろそろ気づいてほしいわね」
「エリクシア、俺を許してくれるのか」
「馬鹿ね、元々恨んだことなんてないわよ。あなたは忙しい旦那さんで、私は三歩下がって後ろをついてく賢い奥さん。よくある家庭の形じゃない。こんなので恨んでたら婚姻制度なんてとっくに廃れてるわ」
「は…ははは……貴様は本当に強いな」
「お強い騎士団長さまの奥さんですもの。わたしもあなたも懸命に生きて来たわ、これは敗北なんかじゃない、きちんと生きてきたわたしたちがようやく掴める幸せな引退生活よ」
「物は考えようってやつか」
「ええ、こういうのは言った者勝ちよ」
立ち上がった妻がキスしてくれた。
晴れやかな気持ちになったシュテルはそのまま背後へと振り返り、バルコニーの端っこで透明化している連中に声をかける。
「聞いたとおりだ。俺はアルシェイスに降る。せっかくここまで来てもらってわるいが手ぶらで帰ってくれ」
透明化が解ける。
景色の中にゆらりと現れた男女の中で、一際大きな妖気を放つ若い義賊が肩をすくめる。お熱いものを見せつけられてしまったぜって感じだ。
「おっさんが望むなら俺も無理に連れ出そうなんてしないさ。だが俺も子供の使いじゃないんでね、貸し一つってことにしといてやる」
「押し売りみたいなことを抜かすな」
「タダより高い物はないって、こっちでは言わないんだったな。まぁ今度会ったらメシでもおごってくれ」
「何を頼まれるかと思えばそんなことか。憎まれ口を叩かにゃ死ぬのか?」
「オチは大事さ。おっさんの豊かな人生ってやつを祈っておいてやるよ、奥さんと幸せにな」
「どうせメシをおごるまでは長生きしろよとか抜かすんだろ。だがここは素直に受けてやるよ」
オチを見破られた義賊が舌を出した。まぁ憎めない小僧だ。
視線を義賊の隣にいる銀髪の貴公子に移す。
「コンラッド、貴様も掲げる御旗がなくては何もできまい。こちらの不徳の致すところってやつだが―――賢く立ち回れよ、アルステルムまで潰れることはない」
「御覚悟が決まっているのなら何も言いませんし当家の先行きを心配されるいわれもない。太平楽を決め込むのはけっこうですが黄金の切り札が野放しである以上、王子殿下の降伏も認められるかどうか」
黄金の切り札と聞いてシュテルが思い浮かべたのは我が息子の顔形だ。
太陽でも三指に入る大魔導でありながら継承権は第七位。だがシュテルを除けば実質上の最上位である黒髪の麗人。
「ナルシスか」
「処刑も追放も彼の行動次第だと思いますよ。彼が膝を折らぬ限りは人質に留め置かれるかと」
「あれはまだ生きていると思うか?」
「殺したって死ぬような男ではありませんよ」
「だが太陽の男を殺す方法は現実にある。王家ならば知り得よう」
「それを加味しても、のセリフであったつもりですがね」
「貴様はナルシスをそれほどに信じているのだな」
「……」
認めたくないのかコンラッドは黙り込んだ。
あれの困った性根と気に食わない行動原理はともかく、コンラッドもまたナルシスを毛嫌いしながらも魅了されてきた一人だったのかもしれない。
ナルシス・イルスローゼは太陽の子息達が最も恐れ、だが愛し、見上げるべき至高の頂点であった。味方のはずのコンラッドまでそうなのだ。黄金の切り札ナルシスの失踪は彼を敵とするアルシェイスにとって大きな恐怖であるだろう。
そう自然に考えているコンラッドを知れば笑いが込み上げてくる。こいつはナルシスが謀殺されたなど欠片も考えていないのだ。
父として嬉しく、複雑な気分でもある。シュテルは敗北したがナルシスなら勝利し得る。そう思われては立つ瀬がないのだ。
「俺のことはもう放っておけ。こっちはこっちで上手くやる。お前らは自分の生き残りを考えろ」
だからシュテルはそう言いつけた。
それは敗残の身で精一杯飾った意地であった。




