EXエピソード 時の大神と鏡の大魔
鑑定の女神アシェラは夢を見ている。
古い丘の上にある小さな家と父母の記憶。幼い彼女は三つ下の弟と一緒にいつも丘の下の大草原を駆け回っていた。
これは大切な記憶で、復讐の源衝動。あの幸せな日々を奪った者どもを許せない。この想いこそがアシェラの戦う理由。
古い憎しみが虚数領域のマイナス炎のように冷たく燃え盛る。すべてが憎いとは言わない。だが父レザードを裏切りあの丘を焼いた者どもが今ものうのうと生きている事実だけは容認できない。
父の残した必殺の魔術だけを携えて少女は誓った。
「ティト神も! イザールも! アルテナもロキもダーナも許さない! あれらを焼き尽くして死灰をシャピロの丘に撒く! その日までけして立ち止まりはしない!」
夢の中で叫んだ慟哭がアシェラを目覚めさせた。
広くて冷たいだけの次元城の寝台で目覚めたアシェラがむくりと起きて、窓辺で読書する時の大神へと問いかける。
「もしかしてボクって今何か言ってしまったかい?」
「いいや、よく眠っていただけだ」
「そうかい」
乙女の寝室に勝手に入り込んでいる不作法に関しては何も言うまい。
時の大神にはこういう不作法なところがある。抱くのでもなく、興味を向けるでもなく、今のようにただ不思議な黒い瞳でアシェラを見ている。
これに対するアシェラの反応はただただ勘に障るといったところだ。
「なにか用でも? おしゃべりに付き合えというのならツマミを用意するけど?」
「……その愚かな復讐の夢にいつまで浸っているつもりだ?」
「なんだい、やっぱり声に出ていたんじゃないか」
ぼやきながら枕元の水差しを手にする。すると中身が真っ赤なワインに変わる。クロノスは嫌な男だがこういう気遣いだけは気に入っている。いまは水よりも酒が欲しかったところだ。
「復讐に何の意味がある。何も戻ってきはしない」
「超越者気どりのお前が言いそうなセリフだね。賠償って言葉は知ってる?」
「あの者どもの命と悲鳴が父母と釣り合うと?」
「釣り合うものか。だが足りなくても取り立てはする、それだけさ」
「取り立てのためにお前が犠牲になることはないであろ。重ねて問う、復讐に何の意味がある? 英知の女神の名を騙るなら賢い選択をしろ」
「虜囚の身であることは認めよう、でも生き方にまでクドクド言われたくはないね。ほら、囚人が生意気な口を利いているんだぞ? 尻でもひっぱたくか?」
「それこそ意味がないであろ」
クロノスはそれきり黙ってしまった。何とも可愛げのないやつだ。しゃべりたい事をだけしゃべってたら後は放置だ。アシェラは論破厨なので一方的に結論を出して黙り込むやつが好かない。つまりクロノスだ。
書物に視線を落として身動きもしないクロノスに寄っていく。背中に枝垂れかかっても反応はない。誘惑に乗る可愛げもない退屈な男だ。
窓の向こうの光景はまたちがう街だ。スポットライトが当たったかのように円形に広がるどこかの街並みとどこかの野原の風景。虚数領域ではこんなふうに光景が様々移り変わる。
ここはマテリアルプレーンで起きたエネルギー減少が形を持つ領域。実世界で燃える炎の影が逆さまに発する場所。まともな感性をしていれば一日と保たずに気が狂う場所に何年もこもりきっている男だ。そりゃあ偏屈にもなる。
「ここはどこだい?」
「さあな」
「森羅万象はこの手にあるんじゃなかったのかい?」
「まさか英知の女神ともあろうものがそんな妄言を信じたか。万能は退屈だ、驚きのない生は死のように穏やかで、もし森羅万象を掌中に収めた者がいたとすればそいつは己の死を願うだろうよ」
「厭世家だね」
「かもしれんな」
途切れ途切れに続けた会話の終わりを告げるようにクロノスが分厚い書物を閉じる。
寝所の入り口に一人の女神が跪いている。クロノスの手先のアリスリートだ。
「兄様、お尋ねしたき儀があり帰還いたしました」
「述べよ」
しかしアリスリートが迷いを見せる。
彼女の視線はアシェラへと向かい、その目は邪魔者を厭うものだ。
「その者を下げていただけませんの」
「よかろう。アシェラよ下がれ」
「ここはボクの部屋のはずなんだけどね。まぁいいや」
後ろ手をひらひら、退室するアシェラがアリスリートとすれ違う一瞬に光が走る。光は一条の槍であった。深紅の槍はアシェラの頭蓋骨を背後から叩き割るはずであった。
一瞬の後に青い血がぽたりとこぼれる。
文字通り光の速さでアシェラを庇ったクロノスの肩から鮮血がこぼれている。
「な…にが……何が起きたというの?」
これはアシェラの驚き。まさかアリスリートに殺される寸前だったとは。そういう驚きだ。
だが時の大神も驚きに両目を見張っている。ありえない事が起きたからだ。
あの一瞬にクロノスはアシェラを庇った。あれはたしかに一瞬だったがクロノスからすれば余裕をもって対処できるのんびりした時間の中の出来事であり、深紅の槍先からアシェラをかっさらって自身もまた完全に回避したはずであった。
だが結果は右肩を切り裂かれている。……つまりは条理外の権能が働いたがゆえにだ。
「アリスリート、何のマネだ?」
「くふっ…くふふふふ……時の大神クロノスにもわからないの?」
「とぼけた返答をするものだ」
アリスリートの様子がおかしい。変なちからを手に入れて勘違いをしでかしたか? おそらくはあの深紅の槍が原因だ。使用者の精神を汚染する類やもしれない。
どういうトリックかは知らないがクロノスを傷つけるだけの威力を持つ武器、となれば早めに奪っておくべきだ。
クロノスが時を止める。生物が生まれながらに持つ体内の時計を停止させる局所時間停止を仕掛けた……はずだった。だがクロノスから発せられるべき法術の輝きはなかった。
何者も倒せぬはずの最高神クロノスが戸惑いながら我が手を見つめる。自らのちからに裏切られるのは初めての経験だ。
「権能が使えないのでしょう?」
「忌々しいことにな」
クロノスの魔瞳がまたたき、事態を解析する。
虚数領域を支配するクロノスにとって事象の解析はキーワードさえ絞り込めるなら容易い事だ。権能封じ、必中、槍、この三つのワードからアカシックレコードが出した答えはアース神族の王オーディンの槍グングニル。
それもクロノスが所有する必中に特化したレプリカではない本物のグングニルだ。
だがありえない。その槍はダーナ神族の手に落ちたまま行方知れずのはずだ。
「アリスリート、ダーナの手先となったか……」
「その名前きらいなの」
神槍グングニルが光を放つ。世界を満たす太陽のごとき雷撃の輝きを宿したグングニルを受けるのは危険だ。だがグングニルの二つ目の権能は必中。敵の名を呼び、放てば必ず心臓を穿つ魔の槍だ。
「可愛いだけの頭のわるい女みたいだから大っきらい。神槍よ、時の大神クロノスの心臓を穿て!」
「逃げッ―――アシュリー姉さん!」
グングニルが飛翔する。その寸前にアシェラは突き飛ばされた。
黄金の光に包まれる次元城の光景が遠ざかっていく。時の停止した虚数領域の張力を破るだけの速さで加速していく。
遠ざかっていくクロノスの叫び声など聞こえるはずもない。
実世界への回帰は一瞬で終わった。次元城の光景など夢やまぼろしのように存在しないどこかの森の神殿の外に投げ出されたアシェラは、彼女の意識の内では手の届く距離にいたクロノスへと手を伸ばし、だが虚空を掴んだ。
すべては一瞬前の出来事。母である幸運の女神アシェラの名を騙る女は僅か一瞬で何もかも手の届かぬ場所へと放り出された。
「クロノ…ス……?」
雨が降っている。銀の矢みたいに降り注ぐ冷たい雨が降っている。
考えても考えても何度考えてもわからない。あの傲岸不遜な時の大神が自分を庇った理由がわからない。
そんな暇があれば反撃すればよかったじゃないか。お前ならあの一瞬があれば充分なはずじゃないか。
「あの一瞬を…グングニルが放たれる一瞬をどうしてボクなんかのために……?」
わからないはずがない。英知と鑑定を司る女神アシュリーにわからないことなどあるはずがない。
無数のパズルピースがつながって、ようやく出てきた答えは遥かなる過去に失ったはずの、もう姿かたちもおぼろげな三つ下の弟の姿だった。
鑑定の女神の慟哭が雨の森に轟いていった。