番外編 追放者たちの凱歌17
世界樹ラナーの枝からの眺望と千里を見通す竜の眼。大地に点在する人の町は小さく、貧しく、あまりにもみすぼらしい。
でも彼女の目には、そこに生きる人々はとても楽しそうに見えている。
彼女の隣に立つ、漆黒の戦装束を着た兄もまたおなじふうに人の町を凝視している。彼女はあの町へと遊びに行ってみたかった。
「ねえバルバネス、わたしのあの町へ」
「虫けらどもがまたあんなところに集落を……」
興味があるかと思ったが兄はやはり兄だった。兄はトールマン種を認めていない。地上のいかなる生物もの生存権利を認めない。
竜族と他の生物の因縁は根深く、個人ではなく種族全体の意識の問題になっている。
大量の虫を見れば気持ち悪いと思う。虫を踏み潰すのに理由は要らない。彼らにとってはそれだけのことだ。
「なあレスカ、俺達であの巣を踏み潰しにいかないか?」
「父様の許可も得ずに?」
「そう固いことを言うな。害虫の巣を駆除するだけだ、とと様も褒めてくださる」
「……わたしはやだよ」
「そうか? では俺だけで楽しんでくるさ」
真の姿へと変じた真竜バルバネスが世界樹から羽ばたき、百里も離れた人の町の真上からブレスを吹き散らかしている。
武装した兵隊も町民も等しく氷の中に閉じ込められていく。
真竜レスカは滅びゆく町を見つめながら苦しげに嘆息をつく。
「願い……わたしのたった一つの願い……」
彼女の願いは叶わない。
彼女はただ聖地を出ていきたいだけだったのに……
◇◇◇◇◇◇
気づけば水面を漂っていた。
辺りは暗く、井戸の底のようだと思った。
記憶がどうにも定かではない。少年少女の姿をした竜としゃべっていてそれで……
ダメだ。どうしても思い出せない。
長い夢を見ていた気がする。とても長く、悲しい夢を……
記憶の回帰は諦めて現状把握に努める。井戸の底のような分厚い氷に囲まれた場所だ。ここに沈められた私が無意識で凍らせたと判断できる不自然な光景だ。
浮遊魔法を行使して四方を囲む氷壁から脱出する。
氷壁から脱出して初めてわかったのは中々馬鹿馬鹿しい大きさの湖が凍りついていた事実。街中でやったら捕まる規模だ。
サーペントと呼ばれる亜竜どもが中で凍りつく湖を脱出して適当に歩き出す。何も思い出せないが歩いている内に思い出せるはずだ。
「ここは竜の谷でサリフが……いやいやサリフは置いてきたな。蒸留酒一瓶丸々呑ませてきたんだった」
適当に歩いていると細い商店街に入った。人が四人並んで歩けば一杯という狭い通路と左右に並ぶ不思議な商店。辺りは真っ暗で人通りもないのに商店からは煌々と明かりが漏れている。
まるでゴーストタウンだ。直訳そのまんまの意味で。
「誰かと一緒に入った覚えはあるんだが誰だったか? ラス…ラス…とりあえず変な女だったな。あのねっとりとした視線には寒気がした。あれはクラリス様とおなじ捕食者の目だぞ……」
商店街を抜けると上がり階段。欄干に手を滑らせながら階段をあがる。
数分でのぼり詰めた小高い丘の上は公園のようだ。だが私の目は都市の景観に奪われた。
竜の牙よりも巨大な尖塔が立ち並ぶ異常な光景だ。ローゼンパームよりも遥かに洗練された都市風景と、遥か奥で燃え盛る暗黒の太陽……
夢のような光景だ。こんなものが現実であるはずがない。夢ならばいずれ覚めるだろう。
この悪夢のような光景に背を向けて歩き出す。
「クラリス様ならあの町が何かわかるんだろうか……? いや夢だ、夢に答えなどあるものか……」
公園の歩道一つとっても現実の物とは言い難い。まるで一枚の金属板を敷いたかのような、つなぎ目のない歩道がどこまでも続いている。
丘上の緑地公園の歩道や街灯、ベンチの一つ一つを見るだけでこれが高度文明の産物だとわかる。こんな素晴らしいものがこの世にあるはずがない。だから夢だと結論づけてしまう。
「異世界だ。ここはまるで異世界のようだ……」
この町には誰もいない。静かで空虚でまるで霊廟だ。
寒気がする。いやな予感がここからもう出られないのでは?と叫んでいる。……こんな事を考えてしまうのはクラリス様がいないせいだ。あの幽霊女どこをほっつき歩いている?
いつものくだらない会話もいまなら大歓迎なのにいないとは使えない女だ。
歩道から外れた芝生の中にレンガ作りの小さな建物があった。この悪夢のような夢の中で初めてまともな建物に出会った喜びで駆けていく。
滑らかな一枚扉にドアノブはない。触れるとポンと軽やかな音が鳴って扉がスライドして消えた。……どう見てもスライドした扉が収まるスペースがないのだが。
建物の中は下り階段。夢なら早くさめてくれと願いながらこいつを延々と下りていく。
階段の終わりは城のような通路だ。無機質な金属の通路を歩いていく。空気は凍りついたように冷たく、それがひどく懐かしかった。
通路の果てる先は大伽藍。山一つがすっぽりと収まる大きさの大空洞に、巨躯の竜が寝そべっている。
見事な王竜だ。明らかに帝都守護竜レスカを越えている。尻尾までの差し渡しを計れたゆうに400mはあるのではないだろうか。
青銀の鱗に覆われた氷竜が立ち上がる。四足を起こして首を伸ばしただけなのに、山を見上げている気分になる。
氷竜が叫ぶ。
「ゴォガガガガァァアアァアアァアアアア――――!」
「来るか――――いや、私から挑んでみせる!」
目の前に雄々しき竜がいる。ならば挑むのが男児の本懐であるべきだ。
打算も目的もどうでもいい。ただ目の前の闘争こそが私の凍りついた心を熱く滾らせる。
氷竜の咆哮に負けじと気合いを叫び、氷竜が放った氷柱の散弾ブレスを掻い潜り―――聖銀のディフィンダーソードを振り抜いて打ちかかる。
ガギィン!
鱗へと叩きつけた剣戟の衝撃で手がしびれる。
欠けた刃の破片が飛び散るさまを見つめながら無理の二文字を悟る。聖銀武器ではダメージを通せない。それどころか私の腕力がいま少し強かったなら剣はへし折れていたはずだ。
打撃に切り替える。竜の腹部に潜り込み、竜皮に包まれた腹に、握り固めた拳を打ち込む。渾身の一撃だったが腹の肉を僅かに押し込んだ手応えだけだ。……氷竜が笑った?
氷竜が前脚を振り上げる。武術の武の字も知らない見え見えも大振りだ。かわせる―――
僅かばかりの希望はあった。この巨体だ。鈍牛のごとく遅いにちがいない。だが前脚による爪撃は閃光の速さで叩きつけられた。これを間一髪でかわしたところに尻尾による打撃が飛んできた。
塔のように太い尻尾が床をこすりながらやってくれば回避は不可能。跳躍は可能だ。だが飛び上がるのは最悪だ。逃げ場のない空中に上がれば食われる。
甘んじて尻尾の一撃を受けた瞬間に意識が破裂した。
…………
……
気づけば私の肉体は壁に背を打ち、分厚い氷の中に閉ざされていた。……一個だけ希望を見つけた。氷竜とは相性がいい。
魔法力のほとんどが冷気系統である私には攻撃手段が無いに等しいという最低の事実付きの希望だ。最低だ。せめて火竜ならよかったのに。
氷竜から放たれる冷気が波動となって大伽藍を凍りつかせていく。私を封印する氷もますます厚みを増していくが……
戦闘の高揚感からか胸が張り裂けんばかりに高鳴っている。心の内に住まう竜が叫ぶようにちからが溢れていく。
日頃感じている窮屈さは消え去り、無限の空を得たような全能感に満たされる。
弱く脆い肉体が別の物へと置き換わる。強く強靭な竜人のちからが顕現する。
腕の一振りで氷球結界を破壊する。初めて氷竜を驚かせることができた。
氷竜の巨大な思念が私の頭の中で弾ける。津波のように巨大な思念だ。気を張らねば意識をもっていかれそうだ。
『トールマン種にしてはやるな。小僧ッ、名乗れ!』
「神竜レスカが子孫クリストファー!」
名乗りを気合いに変えて竜と対峙する。すでに保身はない。激高する竜を前に退路はなく、あるのは打倒し英雄へと成る道のみ。
吠えるならば猛々しく。立ち向かうならば必ず勝利を掴み取る。たかが竜一頭に遅れをとる体たらくでどうして帝国を滅ぼせる!
『…………』
「さぞかし高名な竜と見受けた! 名乗れッ!」
『銀氷のバルバネス!』
「よき名だ、必ず屈服させ従わせてやるぞ!」
威勢よく吠えたはいいが攻撃手段は乏しい。聖銀の剣はどこかに行き、得意の魔法系統は同じく冷気。
互いの攻撃手段はこの強靭な竜の肉体のみ。……だからか笑ってしまった。
男が死力を尽くして戦う時は肉弾戦であるべきだ。この身にこもった苛立つのすべてを拳へ込めて、敵へと叩きつける快感に勝るものはない。
なぜだろうなバルバネス。お前の優雅な巨躯を目の当たりにした瞬間から私の心には怒りがあったぞ!
◇◇◇◇◇◇
真っ暗な谷底を二人の男女が歩いている。ムハンマドとラストだ。
いつもチャラいムハンマドといつも身嗜みばったりなラストがひどい有様でげんなり歩いてる。どうやら相当ひどい目に遭ったようだ。
「どこまで行けども闇の中。太陽が恋しいなあ」
「うふふふ、それサフィーノ様への告白だったり?」
「……ラストには恐れ入るよ。こんな時まで恋バナかい?」
「だって気が滅入りそうだもん」
往けども往けども暗い闇の底。唯一の救いは遥かうん千メートル頭上の天蓋から零れてくる月明かりだけだ。それもたまにあるだけで、あっても一滴分の明かりでしかない。
現実を直視すると気分が下がるから恋バナ。そういうところはラストらしいなと鼻で笑うムハンマドが壁に目を留める。
壁だ。金属の壁だ。他は分厚い岩壁に覆われているのにそこだけ金属の壁になっている。壁には何か文字のようなものが……
「どうしましたの?」
「これを見てご覧よ。どうやらボクら以上の勇者の足跡って奴らしいぜ」
『世界一の冒険家ライアード・バーネット参上 ウェンドール792年2/8』
でっかでかと書かれている。
出口がわからなくなって竜の谷を迷っている二人にとっては清涼剤のような効果があるラクガキだ。
「バーネットの方が竜の谷に? 聞いたことのない方ねえ」
「ジベールじゃ有名人さ。必勝のライアード。たまにしか出てこないが出てきた戦は必ず勝利するっていうトンデモない男だ」
レディーを退屈させまいとする貴公子の本能が軽口を軽やかに動かし、だが心中では謎と対面している。
(ライアード、彼がどうして竜の谷へ来る……?)
国家に秘匿されるべき血統スキルホルダーでありながら帆船一つであちこち飛び回っている超一流の冒険家とは表の顔。ジベールの調査によればライアード・バーネットは古代遺跡にどっぷりの研究者だ。
冒険家なら竜の谷への憧れもあるだろう。だが研究者ならば危険なだけの魔境に来るか?
加えてこの金属の壁だ。これは明らかに人工物だ。となれば事実は一つだが……
(人化した竜の一族。竜の谷の正体。これが示すのは一つだがどうしてガレリアを名乗った? 本物とニセモノに何のちがいがある? わからないな。イルドシャーンなら何かわかるのだろうか……?)
ラストが心配そうに見上げてくる。ムハンマドは謎の究明をやめて今は彼女を守らねばならないと心を固める。
「いや、兄はどこにいるだろうと思ってね」
ムハンマドの手に魔法照明が灯る。ラストが止める暇もなかった。
この輝きを振り回すとすぐに重たい足音が聴こえてきた。
都合がいいことに三頭の赤竜だ。全高は5m前後。生まれてまだ20年と経たない若い竜というのも都合がいい。
ラストがムハンマドを庇うように前に立つ。二振りの魔剣ローズブラッドは豊国の至宝。竜の鱗でさえ切り裂く武器だが……
「迂闊。無茶をやる時は説明してほしいわ」
「だが当たりを引いた。ここはボクに任せてくれ」
ムハンマドが分厚い魔導書を開く。これも王家の至宝と呼ばれる武器だ。銘を召喚師の書という。
魔導書から帯のような魔法鎖が伸びていく。魔法鎖は三頭の若い赤竜をがんじがらめに捕らえていく。ムハンマドが保有する強大な魔法力に抗うのは竜であっても相当に難しく、打ち破るには彼とラスト二人分の増幅がされた干渉結界を相克せねばならない。
「いい子だ、大人しくテイムされてくれよ」
赤竜の内二頭は洗脳の波動から逃れて魔法鎖を引きちぎって去っていった。残った一頭には洗脳が完璧に入り、虚ろな眼でムハンマドの手を舐めている。
ムハンマドは赤竜にひらりと跨り、ラストへと手を差し出す。
「出口ならこいつが知っている。ラスト、乗ってくれ!」
「……イルドシャーン様のほうが」
「今そういう話はいいから!」
赤竜に騎乗して出口を目指す。今はただ生き延びることが先決で、転移で別の場所に飛ばされてしまった二人との合流は二の次だ。
ムハンマドにとって守らねばならない女性は一人しかいない。……脈がなさそうなところが一段と心にクル。
◇◇◇◇◇◇
真っ赤に染まった海面から砂の王子が顔を出す。
荒々しい動きで海中を蹴って水面に立ち、血脂に汚れたアロンダイクのカトラスを振るった。
彼の周りにはたくさんのサーペントの死体が浮かんでいる。十や二十という数ではないが、イルドシャーンにとって水棲の亜竜など敵ではなかった。
辺りを見渡せば夜明け前。遠い水平線が黄金に輝いている。
彼の立つ場所は海中に立つ四本の世界樹の傍。頭上が騒がしい。世界樹の枝に巣を作るワイバーンどもが血の香りに騒ぎ始めている。
「翼竜の繁殖地に長居は無用か。悪いが置いていくぞムハンマド、自力で帰ってきてくれ」
言葉にしたのは弟への優しさのつもりだ。
とはいえイルドシャーンの英明な頭脳にはムハンマドが殊勝にもはぐれた兄を探して回る姿も、竜に食い殺される姿も見えなかった。
あれは優秀な弟だ。腹だしいほどに頭が回る超越者のくせに、わざわざ人の領域まで降りていこうとする砂の竜だ。……共に高みを目指そうと誘っても断る薄情な弟だ。
だがイルドシャーンもまた弟の心を知らない。
イルドシャーンが水面を蹴り陸地を目指す。攻略軍の洞窟拠点は彼の足なら五分とかからない。




