番外編 追放者たちの凱歌09
不思議なことにたくさんの物を失う日はいつだって雨だった。
ルーデット邸を出た後のことはよく覚えていない。煙るような温い雨の町を当てどなく歩いているだけだ。
ひどくぼんやりした、意識の曖昧な時間だ。
ホテル王として成功を収め、一日でそれを失った。ローゼンパームでの五ヵ月はまるで夢か何かだったのではないかと思うような……
「夢か、夢なら目覚めを待つだけでいいか」
タイラントハントとの抗争でせっかく仕立てた新品のスーツもボロボロだ。革靴なんてつま先が開いて歩く度にカパカパ鳴っていたから森に捨てた。
やがて日が暮れ始めた。その時私はどこにも行く場所がないのだと気づいた。……ホテル王とまで呼ばれた私が眠る場所さえ無いとはな、笑える。
「はねっかえりもほどほどにしておけ…か」
いつかの騎士の警告を思い出す。あれは正に警告だった。注意喚起かもしれない。
この町に敬意を持たぬ流れ者が好き勝手に暴れた挙句この町に敗れた。王都が私という無法者の存在を拒絶した。それだけのことだ。
これは私の人生において小さな敗北だ。ただ不思議なほどの虚無感を感じている。
積み上げてきたコインの塔を一瞬で崩された気分だ。……乾いた笑いが出てきた。
「ねえ、あなた大丈夫?」
声をかけてきたのは傘を差す女。随分と金のかかった女だ。
ベヒモスのなめし革のジャケット。エルダー・タラテクトのサンダル。仄かに青白く輝く聖銀のブラウス。いずれも一級品。値段にすれば金貨で800枚にも届くだろう。さらに対魔法処理も施されている。
重心がやや右に傾いている。ジャケットに小型の武装も仕込んであるな。おそらくは聖銀のロッドか。
巻き上げたブラウンの長い髪はよく手入れされ、異国の礼拝堂の香りがする。アンスラーの香水だろうか。
「もしかしてホテル王くん?」
「あなたとはどこかで……」
見覚えはある。ギルドの受付嬢だな。名前はたしか……
いやどうでもいいか。どうせ近日中に高跳びする身だ。
「すごい格好だけど怪我とかは大丈夫なの?」
「そちらは問題ない」
「問題ない格好には見えないんだけど……」
傷口を見せろと言われたがすでに復元している。女はシャツの合間に傷一つない事やどう見ても腕を切断されているスーツの袖に戸惑っている。
「もういいだろうか?」
「ああうん、もうおうちに帰るんだよね。ゆっくり静養して……もしかして帰る家がないの?」
穏便に別れようとしたが表情で察したか?
大した観察力だ。ポーカーフェイスは得意なつもりだったが。いやよほど衝撃が強かったのか。
「ねぐらならどこにでもあるさ」
「そんな感じじゃ安心できないわよ。どこに泊るつもり?」
「さてどこの廃屋にするか」
「そんな浮浪者みたいな。お金が無いわけじゃないわよね」
「元ホテル王がどの面さげて余所のホテルに泊まれる。廃屋のほうがずっと気が楽だ」
長くなりそうだ。女性をいつまでも雨中に立たせているわけにもいかないのでベーカリーの軒先に移動する。
雨の町をぼんやりと見つめながら途切れがちな会話を続ける。
「その、元ホテル王って何があったの?」
「裁判で負けた。所有する物件は全部取り上げられた」
「服もボロボロだね」
「どこぞの木っ端クランに襲われた」
「……もしかしてお姉さんに迷惑してる?」
「さてな、ただ無遠慮に踏み込まれるのを好む冒険者は少ないんじゃないか?」
「可愛くないなあ」
「生まれてこのかた可愛げなんてあったこともない」
「そぉ? 可愛い顔してるよ?」
「目が悪いんじゃないか」
会話が途切れる。さっさとどこかに行けと念じながら降雨の街並みを眺め続ける。傘と女と雨だけが降雨の光景に停止している。
「お姉さんち来る?」
「正気か?」
「だって放っておけないし」
酔狂な女だ。家に見知らぬ男をあげるなど正気の沙汰ではない。それが冒険者となれば襲われても仕方がないと万人から責められる行動だ。
「やめておけ、私も男だ、やることはやるぞ」
「そんなちっこいナリで言われてもなー」
頭をポンと撫でられた。舐めているのか……?
ならば学んでもらおう。安い同情がどんな結果を招くか、私という災厄をその身に受けてからよく理解してもらおう。
「オケだね。よぅしいこう!」
「引っ張るな、逃げはしない」
「ごぉー!」
連れ込まれたのは市井のアパルトマン。たしかに上流階級の住む場所ではない。商業区画の近くという、商人や家族が暮らすような立地に思える。
家に入ると……
「おかえりなさい。すごい雨だったねえ」
「おお、今日は早かったなあ」
何やら父母らしい人物がいた。私は三度首をひねる。この仕草がおかしかったらしい、女が含み笑いをしている。
「あれれぇ、もしかして二人きりになれるって期待してた?」
「そういうわけでは……」
そういうわけなので否定もしにくい。
この後すぐに浴室に連れて行かれる。……浴室だと?
「集合住宅に個別の浴室があるのか、驚きだな―――湯船を張っているのか!?」
カルチャーショックだ。ダブルでやられた!
浴室の使い方をあれこれ説明されたが私は驚きのあまりよく聞いていなかった。下層街で商売しているだけではわからない事も多いものだ。まさか中層街の設備がここまで進歩しているとは……
温かい湯船に浸かってのんびりする。じわじわと熱を取り戻していく手足の感覚が心地よい。……まずい、眠りかけていた。
浴室を出ると別の服が用意されていた。親父さんの服なのだろうがだいぶでかい。ダボダボだ。仕方ないのでベルトで調整する。
ダイニングに往くと夕餉が用意されていた。家族三人が談笑をしながら私を待っていた。……そろそろ名前を思い出さないとまずいな。
「……シシリー、風呂を先にいただいたぞ」
「気持ちよかった?」
「まぁまぁだな」
受付嬢のシシリーが私と入れ替わりに浴室に向かう。先に食べておけと言われた。
見知らぬ父母と夕餉を囲むことになる。父ブランは元冒険者。現在は引退をし、知人の商売を手伝っているようだ。若者にありがたい御高説を授けたくて仕方がないらしい。といえば穿った見方が過ぎるか。
口うるさそうだが悪い人物ではない。強く賢く口うるさい父という存在が持つイメージの見本のような男だ。……私のイメージの正確さに期待はするな。
「この町には色々と驚かされたが個人の持ち家に浴室があるのが一番驚いた。いつも湯船にお湯を張っているのか?」
「いやいや、週に一度の贅沢だよ。今日は大雨だし温まりたかっただけさ」
「どのくらいかかるものなんだ?」
「どうなんだい母さん?」
「薪一束じゃ足りないし、二回で三オーラムはするんじゃないかねえ」
あの狭い湯舟でランニングコストがそれだけするのか。やはり贅沢品だな。ホテルに取り入れてもいいかもしれないと……
悪癖だな。すでにホテル王ではないというのに思考が染まり切っている。
温かい家庭料理と少しのアルコールを胃袋に片づけた頃にシシリーが戻ってきた。外ではかっちりした服装をしていたが家着はゆったりしたものだ。
この夜私はリビングのソファを寝床に眠る。……少しだけ釈然としなかった。
だが不思議なほど温かい気持ちで眠れた。
◇◇◇◇◇◇
シシリーの実家で三日ほどの時を過ごした頃、親父さんが遠方への買い付けに行くと言い出した。彼の仕事は貴族向けの宝石商。それも空中都市に住むハイランク層相手の商売だ。
「ここだけの話だがダージェイル大陸の南で大きな鉱脈が発見されたようだ。いま私の友達が現地民と交渉しているところでね、後発の私の役割はこちらの技師を連れて行くことさ」
「よくある投資話に聴こえるが大丈夫なのか?」
「はっはっは! 大丈夫だ、私はこれで人を見る目だけはあるつもりさ」
見る目はハッキリ無いと断言できる。私を居候させているのがその証拠だ。何しろ裁判に負けて落ちぶれた元ホテル王だ。
詳しい話を聞けばお袋さんも連れて行くらしい。新婚気分でゆっくりと旅を楽しんでくるつもりのようだ。は?
「おい、私とシシリーを二人きりにするつもりか?」
「お前さんは悪い子じゃないから安心して任せられるよ」
「帰る頃にはひどいことになっているかもしれんぞ」
「その時は娘を守ってやってくれ。頼んだぞ」
任されてしまった。おかしな話になったものだ……
二人きりになった生活に以前との変化はない。
私は無気力な日々を送る。雨は一向にやむ気配がなく、日長一日窓の向こうの風景を見つめるだけだ。
シシリーはいつもと変わらない。朝出ていって夜に戻ってくる。
「パパとママがいない時くらい贅沢しちゃおっか?」
「外食の話か?」
「超高い外食の話ぃ」
夕飯は毎晩のようにレストランを渡り歩いた。本当に高級な店は二回だけ、あとは静かなピアノが流れるお気に入りの店に通った。
食事のあとは公共浴場にいく。人間の欲望は留まることを知らず、家に浴室があるにも関わらず湯舟が狭いからたまには足を伸ばして入りたいと彼女が言い出したのだ。恐ろしい……
とはいえ公共浴場はよいものだ。毎日のように通った。
ねぼすけな彼女には朝食を用意して食べるという考えはなかった。仕方ないので朝は私がキッチンに立ち、朝食を用意する。
「普通においしい……」
「常春の…いや習慣で食事はなるべく自分の手で作るようにしている」
「なんで?」
「毒は怖い」
「……うへえ、ご飯がまずくなりそうだから聞きたくないけど気になるなあ」
食材は朝市で新鮮な物を使うように心がけた。
新鮮なものを食べると活力を保てる。何よりうまい。良いことしかない。
こちらの市では見慣れない食材が多い。夏季という季節柄野菜も豊富だ。野菜を売りに来ている農家から正しい調理法を聞き出さなければ口に入れた瞬間悶絶するような物も多いが概ねイケた。……でかい果実を売っておいて中の種を割った部分しか食べられないというのは先に言えと思ったがな。
怠惰で無気力な日々だ。雨に責任を押しつけるように日長一日雨の風景を睨んでいる。そういう話をシシリーにしたら笑われた。
「こーゆーのって穏やかで優しい日々っていうのよ」
「そういう見方もあるか」
「あるある。シェーファ君はがんばりすぎたんだよ、たまには休まなきゃ」
時間の浪費は悪だと考えてきた。
だが何日も何日もこういう日々を重ねたある日、銭湯の軒先でシシリーが出てくるのを待つ時間を愛おしく感じていることに気づいた。
あの日から亡霊も出てこない。血の香りもしない。
この優しい時間を愛し始めている自分に気づいた。
とある日、今日は非番だと宣言したシシリーがこんなことを言い出した。
「そろそろ現実と向き合ってみない?」
「そうだな」
いつまでも休んでばかりはいられない。
私は私の世界に戻るため、東方移民街へと足を向けた。そのために必要な勇気はシシリーが分けてくれた。愛おしい彼女とつないだ手が、私に前に進む勇気を与えてくれた。
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