夜明けまで
跳ねる水音は清らかで、谷底の泉は底が見えるほどに澄み渡っている。
沐浴をする乙女達は闘争の熱のこもった肉体を冷やすように手足を伸ばし、この穏やかな時間を堪能している。
ロアプタラの戦いは終わった。レリアーズの墜落こそ見届けられず、多くの機械巨人を残したままだが母艦を失った遠征軍など飢えたこじきも同然。フェスタ軍は遠からず撤退するだろう。それが新たな母艦を引き連れて再来するまでの時間稼ぎに終わるのか、諦めてくれるのかはまだわからないが一先ず脅威は去ったと見てよい。
ラストの気の抜けようはそうした安堵によるものだ。冷水の気持ちよさに目を閉じて、水面をたゆたい気ままにしている。
「わたくしね、本音を言えばもうダメだと思っておりましたの」
傍らをのんびりたゆたうカトリーエイルに本音を告げると意外そうな顔をされた。どうやら絶対にあきらめない不屈の女と思われていたらしい。
「意外でして?」
「正直に言えばかなり意外でしたねー」
「もうっ、カトリ様ってば意地悪ね。わたくしこれでか弱い乙女でしてよ?」
カトリーエイルがそれはどうかなーって目をしている。ラストに三つの言葉を付けていいなら強靭・無敵・最強だ。一部の人は狂人だと思っているかもしれない。
そしてラストもまたカトリにそういう単語を当てはめている。
「わたくし本当に感謝しているの。カトリ様はわたくしの王子様ね」
「そこはリリウス君を持ち上げると喜びますよ!」
「彼は弟って感じね」
「あ、それわかる。頼りになるのかならないのかハッキリしない感じが弟っぽい」
「ええ、そんな感じね。うちにもそういう弟がおりますの。とても才能に恵まれているのにいいわけばっかりして何もやらないいいわけ大王が一人ね」
「大丈夫です姉様!」
二人の会話を近くで聞いてたココアが何か言い出したぞ?
「あのいいわけ大王にはきちんと仕事を与えてきました。今頃兵站部の書類に埋もれてひーひー言ってるのであります」
「ココアちゃんは逆に何にもできないのよねー」
「ひどいのであります!」
笑いが起きて雰囲気はよし。そんな隙を突いてカトリが気になってた事を尋ねてみる。というのもルナココアの異常な追跡能力だ。これの答えが意外なほど簡単だった。
「ココアちゃんって鼻がいいから」
「犬みたいですね」
「犬じゃーないのであります」
「うふふ、ココアちゃんは可愛いわんちゃんよ」
否定すると同時に姉が言葉の刃で刺しにきた。実際兄弟からは馬鹿犬と呼ばれている。父王グラーエイスに言わせれば後ほんの僅かな思慮さえあれば立派な騎士になれるらしい。
「お勉強ばっかりしてて頭でっかちなアドロン兄様も困った方だけれど、ココアちゃんはもう少しお勉強しないとね」
「……それはもう諦めていただけると」
「だーめ。帰ったらきちんと療養、それと先生から算術でも習いなさい。計算もできないと上級騎士になれませんよ」
「はぁーい」
「いつもお返事だけなんだからっ」
頭を撫でてもらって姉妹はとっても仲良しだ。
以前逆らった時は……
『ココアちゃんってばどうしてわかってくれないのかしら……!』
『わたくしの教育が間違っていたの? もう取り返しがつかないの? お馬鹿さんは死ななきゃ治らないの?』
『そう、そうなのね……死ねば治るのね?』
って自問自答で勝手な結論を出したラスト姉様の裏拳一発で頭蓋を砕かれて半年くらい入院した事もあったけど仲良しだ。……仲良し?
姉妹の心温まる交流を羨ましそうに眺めているカトリーエイルが本題を思い出した。彼女らはここへ嘆願書を貰いに来たのだ。
事情を説明するとラスト様がお怒りになられた。
「……そう、エルナンド叔父様も困った方ね。最近わたくしも都を空けている事が多かったから増長しちゃったのかしら? 次やったら去勢するって言っておいたのだけど」
「どうにかしてもらえます?」
「他ならぬカトリ様のお頼みですもの、どうにかして差し上げたいのですが法解釈がどうなるか……」
ラストが言っているのは教会内の秩序つまりは暗黙の了解と法律の間の重なり合った部分が問題であり、ここを突かれると上手く言い抜けられてしまう事だ。
司法を司るベイグラントの女神が司法を無視するわけにはいかない。責任ある立場の者こそ法に対しては厳格であるべきだ。
「ベイグラントでは覗きは犯罪じゃないんですか?」
「やだわカトリ様そんな些細な罪はイチイチ明文化しておりませんわ」
自分にだけ超甘いラスト様なのだった。
そしてご自身にだけ甘々な王女様が結論を出す。
「わたくしも一度王都に戻らねばなりません。可能な限りの尽力を約束いたしますわ」
(ま、これで一応ここにきた目的は達成かな)
心強い一言を貰ったのでお仕事は終了。あとは三人でのんびり水浴びした。
◇◇◇◇◇◇
戦争後、本陣に帰還した俺らは赤薔薇騎士団から歓呼で迎えられ、巣を破壊された蜂どもが逆襲に来ない程度のささやかな宴を開いてもらった。
カトリが腕相撲大会で無双したりリリウス君を捕まえたら昇進ゲッツという謎の宴会もついさっき終わりました。全裸で颯爽と登壇して一気飲みをしたリリウス君の勇姿を見届けましたか?
で、その後俺はメルキオールさんのテントに招かれて飲み直してる。彼お酒はあんまり強くないみたいだね。顔真っ赤にしてフラフラしてる。
「君はどう見た?」
「でかかったですね!」
しばしの沈黙と戸惑いの空気である。ややあってメルキオールさんが察した。
「私は小さいほうが好みだ」
「なるほど、ラストではなくココアがいいと」
「ココアはいやだ」
小粋な男子トークを挟んで本題に入る。
「で、どうってのは何がどう?」
「フェスタ艦の話だ。私にはあれが人が乗って生活していた空間には感じられなかった」
「同意です。そうなると話がややこしくなりそうですが」
「そうだな、我らが何者と戦っているのかが不明になる。だがこの異常な発想が私一人のものじゃなくて嬉しいよ。自分の正気を疑いかけていたところだ」
メルキオールがなみなみ注がれた酒杯をひと息で空ける。俺がお酌してやる。美女のお酌じゃなくてすんませんねぇ。
「剣聖マルディーク……いや剣聖と思しき人物か。彼は君をしてこう言っていたな、当代の救世主と。魔を討ち神を殺し世界を人の手に取り戻す善なる者どもの守護者。これはどういう意味だ?」
「損な役回りって奴ですよ」
「損なのか?」
「ええ、何の得もないのに悪しき神々と戦い人界を救うとかいうしみったれた役職です」
「そうか? 聞いている限りは栄誉な仕事に思えるのだがな」
「田舎の小役人だってもう少し旨味がありますよ。栄誉では腹は膨れませんからね」
メルキオールさんはクラウを思い出すような堅物そうな青年だけどジョークはわかるようだ。鼻を鳴らして笑ってくれたね。
「そうか、だが私は名誉ある仕事をしたかったな」
「国防を担う立派な地位にあられる方のセリフとは思えませんね」
「どう…だろうな。我らがこうして命懸けで侵略者を食い止めているというのに王都ではくだらぬ騒動があったそうじゃないか」
これはエルナンド神官長にキンタマケールぶっぱした騒動を言っている。
「ココアからその話を聞いた時に私が何を思ったかわかるかい?」
「……いえ」
「こんな国さっさと潰れてしまえだ」
「だいぶ呑まれているらしい。聞かなかったことにします」
「……すまん、そうしてくれ」
アルコールはもうまずいな。酒杯の中身を水に切り替えてテントの外に出る。ささやかな宴は未だ多少のなごりを残す形で続いていて、赤薔薇の乙女たちが楽しそうに酒杯を酌み交わしている。
ほんの数時間前に到着した時は敗戦ムードだったのにこれだ。戦争に参加するのはいやだったけど良い事はしたんだろうぜ。
「すまない」
「今度は何がです?」
「我が国を救ってくれた御仁の前で口にするべき言葉ではなかった。だがあれは私の偽らざる本心だ。……我が国はもう限界なんだ」
メルキオールの話は酔っぱらいの物としては理路整然としていて、時折主語が抜け落ちてはいたが極めて理性的だった。
話ってのはベイグラントの腐敗についてだ。アルチザン家がベイグラントを統一して182年あまりの歴史が紡がれた。彼曰く過ちの歴史だったそうだ。
王権を守るために地方豪族からちからを削ぎ落してきた。中央集権化をやろうとして数々の失敗を為してきた。内なる敵を恐れるがあまり結果的に国力を削いでしまった。
国家要職をアルチザン王家で固めてきた弊害として人材は常に不足気味。機能不全を起こす経済は凝り固まった血管のように流れが悪い。地方貴族と王家の断絶は深く、もはや手を取り合う未来など誰にも想像できない有り様。
ベイグラントは西方五大国ではあるが、実質八番か九番手まで落ちる程度の国力しかないらしい。様々な権威で箔付けしたところで現実は厳しい。この国に未来はない。そう考えているようだ。
「働き者ばかりが使い潰されて無能が人生を謳歌する。そんな国に未来などあるものか」
「ラストのことですか?」
それともご自身の?とは言えまい。さすがにそこまで斬り込む勇気は出ない。ただ寂しげな彼の姿は、かつて遠いイルスローゼを夢見た俺の姿に似ているような気がした。
「メルキオール殿下はどこかへ飛び去りたいのですね」
「軽蔑するか?」
「いえ、俺も故郷を捨てた身です」
「聞きたいな。その話、聞かせてくれ」
俺は故郷の話をした。今は遠いマクローエンのお話だ。貨幣経済の概念さえ怪しい田舎町。自由競争など夢想の領域、領主家が経済を管理して意識的に回すことでようやく成り立つ子供のバザーを大きくしたような土地で生きてきた。
住人は手を取り合って生きていかねばならないが異分子には冷酷だった。俺に優しい人々もいたさ、でも誰もが見えぬ領主家の影に怯えていたように思える。
あの土地で住人は領主家の家畜にすぎず、住人もまた薄々察しながらそれでよしとして生きていた。そういう不健全な土地で非常識に囲まれて生きてきた。いつかこの地を捨てる夢ばかり見て……
「誰も彼もが悩んでいるのだな」
「人生とはままならぬものだ。これレウ=セルトゥーラ王の人生哲学らしいですよ」
「私ばかりが投げ出したいのではないとわかってよかった。先の世迷言は忘れてくれ」
メルキオールとの二次会を終えて俺らへと宛がわれたテントに戻るとラノア師がいた。居ましたよね。すっかり忘れてました!
「ラスト様とのお話は済みましたか?」
「そっちはカトリに任せてあるので大丈夫だと思いますよ。あれで二千人の冒険者を雇用する巨大クランのボスなので交渉事ならばっちりです」
ラストはカトリを姉みたいに慕ってるから人選もばっちりなのである。
ラノア師が真剣なお顔をなされている。これは大事な話があるな。
「リリウスさん、あなたを凄腕の冒険者と見込んで仕事をお願いしたい」
「やはり何か裏がありましたか」
「気づかれていたのであれば話が早い」
真剣な眼差しのラノア師が懐に手を入れて何かを取り出した。キャロットオーダーのブローチだったぜ。ちょっとだけ警戒したリリウス君の気合いを返して。
「我々聖アルテナ教会は権威を求めています。というのも我々の歴史は浅く、神殿には敵わぬのです」
「???」
マジで何の話じゃろうか?
「布教がうまくゆかないのです……」
「宣教師のお話ですか?」
世の中には宣教師というお仕事がある。フランシスコ・ザビエルに代表されるこれはスパイだったり奴隷商だったりと負のイメージが憑き物だね。もしかして愚痴ですのん? さっきメルキオールから散々聞かされたばかりなのに?
「外国人のリリウスさんならすでにお気づきでしょう。聖アルテナ教会はベイグラントでこそ国教と持て囃されておりますが余所の国では知名度はないに等しいのです」
そういや聞いたことがない。俺もベイグラントの事を調べなかったら聖アルテナ教会なんて一生知らなかったってくらい聞かない。
「我々はずっと昔から布教をして参りました。ですが教えを広めようにも神殿と同一視されるなど遅々と進まぬ有り様で……。土地の領主家に許しをいただき教会を建てたはいいが神殿神殿と呼ばれることも多く」
マジの愚痴ですやん。
「我らもその理由を理解しているつもりです。我ら教会派には権威が無い」
「はぁ……」
ラノアさん個人的にはいい人だと思ってるけどフェイくらい話が長いからね。聞き流しモードに入ろう……と思ったら睨まれたぜ。
「聞いていますか?」
「はいっす。つまり俺にイルスローゼで布教してこいってお話ですかね?」
「まさか。権威なき教会の名を広めたとて人の心に響きません。我らがいかにアルテナ神の御心に寄り添い、正しい教えをこの身に刻んで生きたとしても誰の心も動かせぬのです」
教会の教えが異端なんですけどねえ。アルテナ様ご本人がおっしゃってるから間違いねえ。
「我らは権威を欲しているのです。誰の目にもハッキリそう見える形の、我らこそがアルテナ神の御心を受け継ぐ者であるとわかる品物が欲しい」
「はぁ……」
「時にリリウスさんはフィギング・アルテナ・シティという町をご存知でしょうか?」
「祈りの都ならここに来る前にいましたよ」
「それは素晴らしい。アルテナ神の敬虔な信徒である貴方には愚問でしたね。ではもちろん知っているでしょう、あの都には神殿の本殿があることを」
「ええ、行きましたし」
って答えるとラノア師が泣き始めた。滂沱と涙を流しながら俺の手を握り始めちゃったぜ。
「祈りの巡礼路に!? 素晴らしい! あぁ素晴らしいッ、冒険者の身でありながら限られた信徒にのみ許される拝謁を許可されるとは何と羨ましい!」
「ラノアさんめっちゃミーハーっすね」
「信徒ならば誰もが夢見る事です。私も人生を終えるまでには一度なりと巡礼路を往き……いえ不可能でしょうね」
「不可能なんすか?」
「ええ、祈りの巡礼路を往ける者はアルテナ神殿に許可された信徒のみなのです。リリウスさん、であれば貴方も墓所に参ったのですね?」
墓所ね? そういやイリス神も墓所って言ってたな。墓所ってのは墓場だ。いったい何の死体が埋まっているやら……
あれほどアルテナ神を過保護しているイリス神が墓所を空けられぬと言って旅への同行しなかった理由もその辺りか?
アルテナ神を狙う者がいるのではなく墓所を狙う輩がいるって事か?
少しばかり考え込んでいたらラノア師が心配そうに覗き込んできた。同性にそれやると勘違いされますよ?
「リリウスさん?」
「いえ、何でもないです。その墓所というのは?」
ラノア師の態度に幾分かの警戒が宿る。俺が濁したのがバレたようだ。
「……エゼキエル師の回想録によれば巡礼路を越えた先にあるその場所は墓所と呼ばれているそうです。墓所、何とも不穏な単語ですね?」
「死体が埋まっているような気はしますね」
「我らはそれをこう読みました。巡礼路の先にはアルテナ神の霊廟があるのだと」
「それはまた随分あさっての……」
エゼキエルさんが何者なのか知らんが随分飛躍したもんだ。でも真実を知らないとそういう読み方が正しいよね。
ラノア師のお話の最終到達地点がそろそろ読めてきたな。
「俺に何を取ってこいと?」
「アルテナ神の宝杖エクスグレイス。リザレクションを呼び起こす奇跡の杖です」
「えっっ!?」
ファンタジー世界では一般常識レベルでよく登場する魔法杖……みなさまご存知ですよね?
この魔法杖と呼ばれる物は大まかに分類して二種類ある。
一つ目は魔法力の増幅器官としての杖だ。普段は体内を循環させてる魔法力を杖に通すとあら不思議、特定の属性の魔法力に変換されて体内に戻ってくるんだ。こいつをさらに体内で増幅させて杖から放つのが魔導師が杖を持つ理由だ。べんりーアイテムなんだ。この素材は世界樹が大人気。ミスリルとかだと魔法力を増幅するどころか弾いて減衰しちゃうからね。
二つ目は魔法術式を刻んだマジックアイテムとしての杖だ。これは杖と言っても様々な形をしている。鎧だったり剣だったりそれはもう杖ではないだろって感じだが分類的には杖だ。こいつの良いところは予め刻み込まれた補助術式を用いて簡易的な魔法を放てる利便性だ。騎士や戦士のような即応力の求められる職種が愛用しているよね。
リザレクションのような超高等魔法を封じた杖? ありえないとは言わないが常識的に考えればありえない。マジックアイテムで再現できるのは精々第五位階までの魔法のはずだ。それ以上の魔法術式を刻むのは無理だ。そんなことができるならアルテナ神官も魔導師もこの世から淘汰されてしまう。
以前ルルが何かの例えでつかったフェルヌークの合成人間問題にぶち当たる。欠損した腕を生やすよりもクローン人間作る方が簡単だという問題だ。怪我や病気は人其々だ。なのに誰でも蘇らせることのできる蘇生魔法なんてありえるのか?
答えはありえない。万能薬くらいありえない。万病の霊薬がじつは癌を治せない事くらい魔導師なら誰でも知っている。
「実在するんですか?」
「すると見ています。リリウスさん、よい答えをお待ちしていますよ」
ラノア師が去っていった。
呆然とする俺は今までテントの端っこで生のニンジン齧ってるアルテナ様と目を合わせて……
俺氏アルテナ様の近くに普通に置いてある光輝く豪華絢爛な宝杖を指差す。
「アルテナ様その杖は……?」
「エクスグレイスですわ」
存在しちゃった! びっくりだな!
ラノアさん、あんたの探し物あんたの背中にあったぜ。ついで言うとアルテナ様はまだご存命ですぜ……
◇◇◇◇◇◇
一方その頃、機械巨人に追い回されてロアプタラの森の奥地へとダッシュしていたシェーファだが……
道に迷っていた。
機械巨人はとっくに撒いた。逃げ足には自信がある。実力のない頃はよく逃げていたが千里眼の使い手は逃げるのが大の得意だ。なにしろこっちだけ相手の場所が見えている。
がむしゃらに逃げたせいで道に迷ったがまぁ数時間もすれば合流できるだろう。
(……金貨二百枚につられてとんだ苦労を背負い込んでしまった。だが久しぶりの現金収入だ。よかったよかった)
要らない恨みを買った気がするがリリウスなら酒でもおごれば機嫌を直すだろう。メシを付けてもいい。銀貨一枚分くらいで済むはずだ。
と考えているシェーファが彼の恨みが思った以上に根深い物だという事実を知らない。人間関係というものが破綻する理由は大概金が絡んでいる。
千里眼を飛ばしながら夜の森を彷徨う。ベイグラント軍本陣の位置もおおよそは掴んでいる。問題は自分がどこにいるのかわからない点だがしばらく歩けば掴めるはずだ。
千里眼スキルホルダーは総じて方向感覚に優れている。己の能力の規範となるものが方位だと本能的に察しているためだろう。
夜の森を歩いていると……
「やあ」
マルディークが現れた。以前は察知できたが警戒されたのか千里眼をすり抜けるという驚異的な方法でだ。
シェーファは剣を抜いて応戦の構え。一対一では敵わない。そうと知りながらも敗走を選ばないのは彼からは逃げられないせいだ。逃げるよりも戦って勝利する方が生存の目がある。マルディークはかなり損耗しているふうに見える。
「そう警戒することはない。僕のほうから仕掛けるつもりはないよ」
「それが油断を誘う言葉でないといいのだがな」
シェーファは分かり合えないと会話を切り捨てる。だがマルディークはさらに重ねる言葉があるらしい。
「君の剣には怒りがある。復讐かい?」
「知ったふうな口を利くな」
「知りもするさ。僕だって剣を手にした理由は復讐だ。身の奥底から湧きあがってくる怒りに心は焼かれ、知らぬ者にさえ破壊衝動をぶつけたくなる。いくら憂さ晴らしをしようとも一度眠りにつけば悪夢に苛まれて噴火するほどの怒りに襲われる。そういう覚えはないかい?」
「…………」
「あるって反応だね。僕は倭国の山間に生を受けた。木曽路にひっそりと立つ寒村で、暮らしは貧しかったな。父母はいなかったよ。代わりに姉さんが一人いた。年頃の女の子なのにオシャレの一つもできずに手はいつもあかぎれだらけで、口癖は大きくなったら出世して楽をさせてくれって言ってたな」
「身の上話をしたいだけならカカシとやれ。私は行くぞ」
「……つれないな」
「元より敵同士だろうが」
「そういうのをつれないというんだ。復讐はさ、遂げねば治まらないよ?」
シェーファの足が止まる。
すれちがったばかりのマルディークが親しげに肩を抱きにきたので腕の一振りで振り払う。
「毎夜悪夢で思い出す激情を止める手立ては復讐を遂げる他にない」
「何が言いたい?」
「君は僕に似ている。使う剣も心もそっくりだ。まぁ見るに見かねてって奴だよ」
「親切面をするものだ。まさかアルテナ神を売れば復讐の手伝いをするとでものたまう気か?」
「そんなつもりはない。アルテナの首は大手柄だ。君だとてアルテナの首が復讐の手伝いと同価値とは考えてもいないだろ? あれはこの世において唯一、真に善なる者だ。あれを獲れば世界から善性が失われる」
「……何の話をしている」
「ガレリアに来なよ。イザールの軍門に降り、彼の助成を受けて復讐を遂げなよ」
「くだらんな」
「君は彼の能力を知らないからそんな事が言えるんだ。君は何を失った? 毎夜どんな夢に苦しんでいる? ティトもアルテナも人の願いは叶えてくれないよ。だが森羅万象を統べる彼なら君の願いを叶えられる。例えば骨の一欠片でもあれば愛しい女を蘇らせてくれるなんてね」
「…………」
シェーファが再び歩き出す。足早に、一刻も早く立ち去りたいとでも言うふうに。
彼の背後で悪魔が笑っている。悪魔の囁きから逃げようとする矮小な人を弄ぶかのように。
「復讐を遂げ、失った者を取り戻し、幸せになる権利は誰にでもある。それを与えてくれるのはイザールだけだ。君の真の願いが復讐じゃないはずだ。僕と君は似ている。君だって本当はただ幸せな日々を取り戻したいだけなんだ!」
シェーファは逃げた。ただ走って逃げることしかできなかった。