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神話『彷徨える光』

 時は万を数えるほどに遡り、場所はこことは異なる世界。春を知らぬ永遠の冬の森に彼女の祭壇があった。


 祭壇と呼ぶにはみずぼらしい平たい敷石の載せられた少女形の石人形。それが彼女だった。来歴もおおよそ平凡という他にない。殺生続きの人生に苦悩し斧を置いた老戦士がクズ石を削り出した小さな像だ。


 永遠の冬の森の傍には小さな農村があった。今では誰もその名を覚えていない村は冷気に強い作物を育て、森から採れる僅かな恵みだけを頼りに暮らしていた。平凡な村だった。平凡な暮らしだった。だが何より愛おしい日々だった。


 農民は森に入る前に彼女に祈りを捧げる。無事に森から帰って来られますようにと。

 おかしなものだ。彼女の名前も知らぬ人々が迷信深さと義務感から祈りを捧げ続けたのだ。もっとも当時の彼女に名前などあるはずもないが、祈りだけがくべられ続けた。


 森から無事に帰れますように。採集に赴いた恋人に怪我などありませんように。遠くの町に旅立つ友の無事をお願いする。


 祈りが百年二百年とくべられ続け、炉から零れ出るように光の玉が産まれた。光には自我がない。意思もない。ただ祭壇の周囲を飛び回り、疲れたら少女像の中に宿って眠りにつくだけだ。


 祭壇に祈りが積みあがる。森から戻ってきた若者達がいっぱいの採集かごから取り出したお供え物と共に感謝を発し、旅から戻ってきた行商人が次も無事に戻ってこれますようにと彫像を拭き清めてくれる。収穫祭の日には農作物が捧げられ、特に赤くて甘い野菜が好きだった。


 祭壇に祈りが積みあがる。光はその光景をずっと見ていた。

 農村の暮らしぶりは厳しいが笑顔があった。収穫を喜び、健康を喜び、死者の旅立ちに涙を流した。光は常に彼らと共に在った。次第に芽生えていく自我が彼らの営みを愛し始めていた。


 だが幸福の時は長くない。冬の訪れは永遠なれど、人々は永遠では決してなかった。


 やがて誰も越えられぬ寒波が農村を襲い、積みあがる積雪が外界と村を閉ざし、家々の行き来さえも閉ざした。農村は誰も知らぬ間にひっそりと息絶えていった。


 だが光は滅びを知らない。ただ誰も祭壇を訪れないことを不思議がっていた。毎日のように誰かがやってきていたのに、二日三日と空けば不思議にも思う。ましてや二ヵ月ともなれば……


 光は人の営みと共に在っても人ではない。滅びるという意味を理解していなかった。人が死ぬという現象を理解できず、最近見なくなったくらいにしか考えていなかったのだ。

 祈りを捧げに来る人々が来ず、光は初めて寂しいという感情を覚えた。


 祈りなき無理解の日々が続く。待てども待ち人は来たらず。時は遅々と進まずだが何年もの年月が退屈に過ぎていった。退屈な日々のいつかに村とは別の方向から見知らぬ男がやってきた。


 男は両手に少女を抱き抱えており、祭壇の前にひざまずき、まるで娘を捧げるように祈り始める。


「名も無き癒しの女神よ、父祖から伝え聞きし慈愛の女神よ。どうか我が娘を蘇らせたまえ……」


 光は答えなかった。応じるすべもないし言葉もわからない。何より死する者を蘇らせるちからなど無かった。


 だが不思議と言葉は要らないもので、男が何を願っているかはわかった。


 光はいつもそうしているように彫像に宿るように痩せた娘の肉体に乗り移る。石ころに乗り移るのと勝手は変わらない。本能ができると教えてくれる。


 人に乗り移るのは初めての試みで思わぬ結果をもたらした。知識だ。娘の脳細胞が蓄積した知識に触れ、光にも人が理解できるようになったのだ。


 腐りかけた死体を動くようにするには多少の時間もかかったが、モタモタと手間取りながらも肉体の修繕を行った。とはいえ娘の意識は戻らない。結果的に言えば失敗だったのだろう。


 名も無き光は娘の肉体を動かして男へと告げる。失敗した。あなたの娘は戻らない。


 だが男はすでに事切れていた。何かをやり遂げたような満足した顔のまま、体に張り付いた氷片に蝕まれて死んでいるのだ。


 光は死の意味を知らなかった。だが娘の肉体に宿ることで死を理解した。動かない事を死と呼ぶのでない。もう会えぬことを死と呼び悲しむのだと。……彼の死を悲しいことだと学んだ。きっと光の中には娘の抱いていた思慕の情までインストールされていたのだろう。


 光はこうして彼女となり、彼女はその足で農村へと向かった。

 誰も動く者のいない死者の村、一軒一軒を巡り続けて彼女は泣いた。死は悲しみだ。彼らにもう会えないのが悲しいことなのだ。天に向けて彼女は泣き続けた。


 ひと晩泣き腫らした彼女は旅立ちを決意した。ここにはもう誰もいないしお腹も空いた。肉体を得たことで生存本能に目覚めたのだ。


 祭壇にある古い依り代を懐に入れ、南へと歩き出した。


 旅路は長く、凍土の冷気は大人さえも凍らせるほどだったが彼女は死ななかった。肉体が空腹を訴えても凍傷の痒みを発しても彼女は不死の存在であるのだ。


 長い旅路であった。やがて凍土と草原の交わるところまでたどり着き、一人の青年と出会う。青年は町から町へとわたる旅商人であるらしい。一台の馬車と一頭の雄々しい愛馬を従えて雄大な草原を旅する彼は、彼女へと問いかける。


「このザナイールを歩きとは無茶をする。お嬢ちゃん、名前は?」

「名前? わたくしの名前……?」


 少女の肉体を得て知識を得た。なのに名前まで貰うのはちがうと思った。常識や理屈ではなく本能が別の名を名乗ることを拒否している。


 彼女は困り果て、旅商人も困り果てた。名前もない奴なんて珍しくもないが名前がないのは困る。旅商人はふと少女の膨らんだ胸に何か入っていることに気づいた。


「それは?」

「大事な物です。誰に作ってもらったのかもわからないのですが……」

「ふぅん」


 旅商人が石でできた不出来な彫像をひっくり返したりとジロジロ見ていて、文字を見つけた。


「アルテナ、我が最愛の娘…か。これはお嬢ちゃんのパパがくれたんだよ」

「パパ……わたくしにもそんな方がいたのでしょうか?」

「まさか木の股から産まれてきたわけじゃあるまい。お前さんは覚えてなくてもお前さんを最愛の娘と呼んでくれるお人がいたんだろうぜ。乗りなよ、近くの町まで乗っけてやるからさ」


 ボロい馬車のこれまたボロい荷台に座り込み、彼女は初めて誰かとおしゃべりをすることが楽しいことだと知った。


 名も無き光は名前を得、長い旅を始めた。

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