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ペール市の最低最悪な一日(夕刻~深夜)

 すすり泣く声と沈んだ雰囲気。地下シェルターの扉を開け放ったルピンが最初に感じたのは葬式のような、何とも言いにくいあの空気だった。


 布をかけられた死体にすがりついて嗚咽している少女の背中に問いかける。


「誰か大切な人を亡くされたか」

「どうなんでしょう……」


 泣き腫らした少女が顔をあげる。エプロンと簡素な女中服。パッと見は何の変哲もない少女なのに不思議と目の離せない雰囲気のある、可愛らしい少女だ。

 きっと悲嘆に暮れる彼女の儚さがそうさせているのだろう。


「今日初めて会ったおじさんでしたけど、いい人だったんです。こんなふうに死んでいい人じゃなかったんです……」

「そうか」


 であれば本望だろう。

 誰しもがその死を惜しまれて死んでいけるわけではない。パレードという大災厄の中では誰にも看取られずにひっそりと息絶える者も多いだろう。


 だからライナスの死は意味のある、極めて幸福なものだった考えることにした。


 正直に言えばまだ仕事は幾らでも残っているだろ。勝手に逝きやがってという想いもあるが……いまさらだ。


「僕の友達を看取ってくれたことに感謝を。冒険者ギルドの職員ルピン・ラオだ。救助に来た」


「「おおおっ!」」


「ライナスさんの言う通り本当に救助だったのか」

「良かった、良かったよぉ」

「助かるんだ!」


 抱き合って喜ぶ使用人一同だがぬか喜びだ。ルピンのこの行いは限りなく救助に来たに等しい混乱の呼び手だ。


 救命ボートは一人分。選ぶのだ。この52人の中から生き残るたった一人を。

 だがどのようにして? 彼らに決めさせる? くじ引きでもするか? ……彼らの善性を弄び、醜悪な争いを起こすだけだ。


 救うなら全員だ。だがあれだけの魔物が跋扈するペール市内をこの人数を連れて脱出できるのか。無理だ。そんなことができるなら何の苦労もなかった。


 ただ一人でダンジョンに乗り込みパレードも守護者も蹴散らす救世主であれたなら何の苦労もなかった。パレード発生時のダンジョンの様子ならいやというほど知っている。全盛期のルピンでさえ八人もの仲間を失い、六層にも到達できずに逃げ帰るしかなかったんだ。


 ルピンが震える声で告げる。


「街はおろか屋敷の中でさえ魔物がうろついている。シェルターに隠れたまま王都の救援を待つのが一番いい」


 ……ルピンには言えなかった。命を選べ、この中から一人だけ助かる者を差し出せなんて言えるはずがなかった。


「だがライナスさんは屋敷にいても死ぬだけだと……」

「そうです。ライナスさんはシェルターから外に続く隠し通路を使って東の街道へ出ろって……」


「残念ながら状況が変わった。これだけの数での移動には無理がある。ここに隠れているのが一番生存確率が高いのだ」


 今となってはライナスがどのような状況を想定していたかもわからない。もしかしたら領主家の状況を必ず確認に来るルピンにすべてを託して、彼らには無責任な希望だけを残したのかもしれない。絶望の中で彼らが死を選ばないように、シェルターの中で凄惨な事件が起きないように……


(だとしたら僕を買いかぶりすぎたな。何もできやしない。僕だってお前と同じで何もできやしないんだ……)


 ルピンは救世主ではない。パレードという大災厄の中で大いなる救済をもたらす英雄ではなく、逃げ惑う群衆の一人にすぎないのだ。


 運がよければ助かることもあるだろう。民家では絶望的でも領主家のシェルターであれば十に一度の幸運さえつかめれば……


 ソリスが彼の手を握って見上げてきた。

 なんて目をするのだろう。まるで親から捨てられる子供みたいな目だ。


「ルピンさんはどこかに行ったりしませんよね。あたしたちと一緒にいてくれるんですよね?」

「僕は……」


 ソリスだけではなかった。

 使用人はみなルピンへとすがりつくような目を向け、どうか見捨てないでくれと口々に言う。


 ルピンには彼らの手を振りほどくことはできなかった。



◆◆◆◆◆◆



 雨は時を重ねるごとに強さを増していく。


 ペール市を脱出した冒険者たちは夜を忘れたみたいにひたすらに街道を西進する。石畳の敷かれた街道に流れ込んだ泥が足を重くした。激しく叩きつける雨が体温を奪っていった。


 息を切らせながらも懸命に歩く人々は怯えている。


 街道の外から、小高い丘の上から、林の茂みから、ランプのような赤い目でこちらの様子を窺うモンスターの存在を感じ取れてしまう。


 恐怖から人々の口は軽くなった。多少なりとも騒がしくしていた方が魔物を警戒させられると冒険者が言ったので、最初の内はおしゃべりをしていた。


 トリアタ市はどんなところだろうか。何かうまい食い物はあるのか。宿はどうする? 厩舎でも貸してもらえればいいな。くさいのはやだな。雨がしのげればそれでいいさ。問題は働くところだろ。そいつは大問題だな。流民を使ってくれるお人がいりゃいいんだが。今から最低なこと言うぞ、俺なら怖くて雇わない。本当に最低だな。


「どうした、急に黙って?」

「疲れてな」

「……そうだな」


 歩いて身にこもった熱を雨が容赦なく奪っていく。

 雨でさえ、雨でさえなかったら……


 みなは俯き、やがて声さえも失ったかのように黙々と歩いた。


 夜闇はあらゆるものを隠した。暗順応した目でも一つ二つ先を歩く誰かの背中しか見えない。疲労か眠気か、固まって歩く集団から外れてしまう者もちらほらと現れる。


 狼が狙うのはきまってそういうはぐれた羊だ。


「あああああああああ! 助けて、助けてくれぇ!」

「いやああああああああ!」


 冒険者が悲鳴を聞きつけて急行する。中年のご婦人に群がっているゴブリンを連続突きで素早く仕留めたが、悲鳴はもう一人分あったはずだ。


「あんた! うちの旦那があっちに連れ去られたんだ。助けておくれよ」

「わかった」

「待て! 追うな!」


 バトラが制止するのも構わず若い冒険者が闇の向こうに走り去っていった。

 戦いの音が聴こえる。


「助けないと!」

「バトラ、加勢すんぞ」


 ユイとトキムネが今にも飛び出しそうだったのでバトラは殴り倒す勢いで二人の腕を掴んで後ろに引き倒す。


「なにをッ―――」

「あれを見ろ」


 バトラが短い詠唱で紡いだ照明弾の魔法を空中に打ち上げる。山なりの放物線を描いて大地を照らす明かりの下で、連れ去られた男性と冒険者がぐったり倒れている。


 よほどうれしいのか小躍りするゴブリンどもと、呪術師らしい怪しげな黒衣をまとうゴブリンシャーマンが二本の短剣をカチンカチンと打ち鳴らしている。


「よくやる手だろ。引っかかるな」

「……どちらにせよ片づけた方がよくないか?」

「よせキリがない。こっちが固まっている限りは向こうも襲っては来ない」

「だがよぉ」

「一番いやなのはこっちには戦える奴が少ないとバレることだ。俺達だけあくせく動き回っていると被害が増えるぞ」


「ですが舐められてもつけあがらせるだけです。一発仕返しをくれてやるのもいいでしょう」


 クラウがメガネを光らせる。

 魔導師の消耗は抑えてほしいところだが、照明弾を一発使っちまった自分が制止するのもマヌケじみている。


「ほどほどにな」

「ええ、軽く一発で済ませますよ」


 クラウが教鞭のような伸縮式の短杖を差し向けてフリージングカノンを三発放つ。収束する冷気の砲弾がゴブリンシャーマンの肉体を粉々にし、餌に群がっていたゴブリンどもをも打ち砕いた。


 精密なコントロールで十五体を葬ると、同じく集団先頭を警護するエルフのクランリーダーから口笛が飛んできた。


「やるものだな、あれだけ正確に打ち込めるのはうちの部族にも中々いない」

「うちの自慢の火力担当さ」


 彼はネイルズというらしい。本名は長くなるのでコミュニケーションの観点から避けるようにしているとか。


 エルフは出身地によって名前の名乗り方が大きく変わる。

 例えば名前・父の名前・母の名前・里の名前をしてフルネームとする連中。簡単に名前・里の名前だけとする者、これはラトファなんかがそうだ。本当に単純に名前だけの連中もいる。これはユークリッド大森林出身のエルフに多い。

 あちらのエルフは本当に大森林の外に出ていかないから、そういう名乗り方なんだそうな。


 だが中央文明圏、特にイルスローゼではエルフが自由にあちこち往き来しているので自らの出自を明確にする意味でも名前が増える傾向にあるんだそうな。


 ネイルズはダージェイルのエルフらしい。大陸南部の未踏破地帯、魔神領域の密林の出だとか。落ち着いた怜悧な居姿からは想像もつかないが随分と好奇心旺盛で、あちこちの同胞を尋ねて回っているんだそうな。つまり冒険者業は路銀稼ぎと割り切っているらしい。


 ネイルズはクラウに興味があるらしい。道中ぽつぽつとおしゃべりを持ち掛けてきた。


「それでなんでクランリーダーなどやり始めたのですか?」

「若い連中を鍛えてくれってウルド様から頼まれたのだ。あれは断れない」

「意外ですね、あの方はもう少し古風な考え方であるように思いましたが」


 クラウもウルドとは面識がある。

 彼女はハイエルフでありイルスローゼにおけるエルフの女王だ。となれば結婚したなら報告に行った方がいいだろうというバトラとラトファについていって知己を得た。ただ残念ながらハイエルフの術法を教えてはくれなかった。門外不出らしい。


「今はエルフも森から出る時代。豊かな暮らしをするために外貨を稼ぎ、異種族と交流して見識を深めるべき。単一種族で完結できる時代はもう終わった。そう説かれては頷く他にない。私もあちこちフラフラしている口だしな」

「ほぅ、意外にも開明的というか革命的というか……」

「里の長老衆よりは年長のはずだが、若々しいほどに頭の柔らかい御方だ」


 どうやらすっかり心酔しているらしい。二度三度しか会ったことのない、上位種というだけの存在にだ。クラウはそれをすっきりとは呑み込めなかった。主義主張の問題で呑み込みたくないだけかもしれない。


「これは礼儀に欠ける質問になるのかもしれませんが、上位種が存在するという気分はどういうものなのですか?」

「お前らにも上位種はいるだろう。王家とか貴族とか、我々からすればハイトールマンに見えるぞ」

「そういうものですか。やはり従うのは権威なのですか?」

「里で長老衆がふんぞり返っているのを気にしたことがないように祖先を敬うのはトールマンにも理解できる風習だと思う。我らは等しくあの方々から生まれた。敬意を持つのは当たり前の……」


 饒舌に語っていたネイルズが言葉を失った。

 何かの間違いに気づいたって顔だ。


「なにか?」

「もっと単純な想いかもしれんと思ってな。強い奴は尊敬されるものだろ?」

「それは単純ですね」


 求めた答えとはちがったが真理の一つかもしれないと思った。

 そもそも王家なんてものは強大な勢力を誇る豪族だったのだ。いかに権威を捏造し、事実を誤認させたのだとしても、実体としてはその武力ゆえに崇められている。


 隆盛を誇った大国もいつか滅び去るように、物事とは存外単純なのかもしれない。そして人は単純な物事の上に虚飾を張りつけて着飾っている。


「……であれば私も所詮は虚飾の人か」


「何か言ったか? すまんが聞き取れなかった」

「いいえ、ただの独り言ですよ」


 クラウは何とも言い難い感情のうねりを誤魔化すみたいにぎこちない笑みを張りつけた。ユイが心配そうに彼の肩に寄り添った。彼女は何も知らないけれど、クラウの抱えている悩み事のきざはしくらいには気づいているんだ。


 夜が深まっていく。天候はすでに嵐と呼ぶほどだ。稲光が雲の中を泳ぐ雷竜のように散っていった。



◆◆◆◆◆◆



 燃え盛る炎の壁は高く、ペール市旧市街を囲む堀は文字通り炎上している。


 迷宮騎士団は夜を徹して堀に油壺を放り込み続ける。備蓄はまだまだある。市内の油問屋からたっぷり略奪してきたおかげだ。


 ただひと晩で尽きる計算なので、迷宮騎士団は積極的に市内に手勢を割いては民家から油壺を略奪している。……思ったより難航している。


 四隅を炎で潰してパレードを旧市街から出さないように心掛けてきたが、どんな手品か魔物は新市街にも出没している。近隣の魔物が押し寄せたのかもしれない。


 迷宮騎士団にはなるべく分隊単位で略奪に当たらせているが、グリフォンやマンティコアの亜音速急降下にやられて数を減らして戻ってくる。


 おかげで河川防御陣地で報告を受けるラインダルト団長からは歯ぎしりが絶えない。


「深層の魔物が存外すぐに出てきたのが痛いな。ああいう連中は三日目以降ではなかったのか。まだ初日ではないか」

「事はパレードですからな。何事も頭の中で描くようには参りますまい」


 合いの手は参謀のジョゼフが入れている。


 ジョゼフは黄金騎士団の頃から付き合いのある魔導師だ。以前は海の向こうの植民地で魔導官をやっていたが、引退をきっかけに迷宮騎士団の参謀に引き抜いた。というのもジョゼフが求めていた老後は孫とのんびり暮らせる日々だったから、本国での三日に一度の出勤でいい非常勤の仕事は願ったり叶ったりだった。……おかげでブーブー言われている。話がちがうぞって奴だ。


「人生の最後にパレードとはな。まったく激動だ」

「いいかげん愚痴るな。孫夫婦はきちんと逃がしてやったろ」

「それは当然だ。領主家一家だけ逃がすという話になったなら私は裏切っていた」

「堂々と言いやがる。有翼系統の魔物な、ありゃ何とかならんか?」


「夜間は無理だな。目視可能ならともかくサーチを飛ばしてから打ってもそこにはおらんだろうよ」

「照明弾を一斉に打ち上げていぶり出すのは―――」

「無理だとわかっていて言うのはやめよ。連中も馬鹿ではない、明かりを打てば逃げていくだろうよ」

「そのままどこかに消えてくれるならたっぷり打ち込んでやってもいいんだがな……」

「諦めろ。連中は一度ターゲットにした獲物は地の果てまで追いかけてくる」


 現状はどうにも頭が痛い。目視不可能な夜空に一番危険な連中がうようよしてやがるせいだ。


 百戦錬磨のラインダルトとジョゼフでさえ胃がキリキリしているのだ。頭上からプレッシャーを浴びながら河川防御陣を敷き続けている、迷宮騎士団もかなり精神をすり減らしている。油の略奪に行かせた分隊の戻ってこない理由が全滅か逃走かもわからない程度に。


 あまりにも生還率が低いので夜間の略奪は禁止させるしかなかったくらいだ。とはいえ昼間は昼間で大忙しなので、果たして略奪をする暇があるやら……


 そのうち伝令がやってきた。堀の外側を走り回っている定期報告だ。


「報告! 負傷27名、戦闘継続不可能及び死亡が14名、第一中隊はこれより休息に入ります」

「許可する」

「はっ!」


 伝令兵が仮設陣地の隣の部屋に飛び込んでいった。仮眠を取らせている連中を叩き起こすためだ。


 市内に残った迷宮騎士団は220の手勢を二つの中隊に裂き、交互に河川防御陣を維持している。まるまる一日くらいなら休息の必要はないが、オーダーは可能な限りの長期戦闘だ。ここで食い止めた時間の分だけ周辺の被害が少なくなる。


 すでに各隊70名前後まで減っているが、ルーティンは掴めた。後はこれを維持するだけでひと晩は確実に保つ。


 休憩は二時間交代だ。伝令が叩き起こした兵隊がそろそろ出てくるはずだが……

 ラインダルトが何かに気づき、髭面を狂相に染める。


「気づいたか、あの伝令の声がしない」

「!」


 ジョゼフも慌てて席を立つ。


 まさかあの伝令が眠っている兵隊を一人一人殴って叩き起こしている馬鹿野郎でもあるまい。……そちらの方が事態としてはありがたいが。


 ジョゼフがとびきりの魔法照明を兵隊の仮眠室に放り込み、ラインダルトが内部に突入する。


「…………最悪だな。これは最悪だ、いったいどんな悪夢だ」


 仮眠室の兵隊は全滅していた。

 全員が首をひと掻きで切り裂かれ、74人が流した血の海に沈んでいる。……先ほどの伝令も入り口の傍に転がされている。


 むせ返るほどの血のにおいだ。いったいどうして気づけなかったのか不思議で仕方ない。だが不思議なんてそうそうあるものではないから、これは明らかに人間の、それも高位の魔導師の手による認識阻害だ。


「いやな出し抜かれ方だ。私も老いたな」

「反省はいい。事態の分析をしろ」

「パレードを助長して得する者が誰か? 笑わせるなよラインダルト、我らはそうした敵と長年戦ってきたのではないか」

「他国の諜報部隊か。だがどうしてペールに? 戦略的価値のないただのダンジョン都市だぞ?」

「だがローゼンパームからは中々に近い。ここが魔界となれば連中のいい前線基地になる」

「机上の空論だな。黄金騎士団がペール迷宮ごときの封鎖に失敗するはずがない。そもそも連中はどうやってパレードを察知した?」

「知るか」


 ジョゼフは答えに至らなかった。ラインダルトもまた答えには遠かった。

 しばし考え込む二人だが、ラインダルトがいやな妄想を思いついてしまった。


「パレードの助長で利を得るつもりなら伝令を狙うはずだ。私ならそうする」

「王都に急報が届かないと?」

「ああ、ご老体を働かせてわるいとは思うがひとっ飛び頼めるか?」

「同期にご老体はやめろ。だがいいのか?」


 それはこちらが手薄になるという意味であり、共に死を決意したジョゼフだけ助かる可能性についての話だ。だがラインダルトはそういう些事についてはどうでもいいらしい。こざっぱりした顔でジョゼフの魔導衣に包まれた胸を叩く。


「いいさ、どうせこっちはどん詰まりだ。なによりも俺達の死が無駄になるほうが気に食わん。全速力で行け、トリアタまでたどり着けばそっちの領主に話をつけて王都に伝令を送らせろ。何が何でもシュテル閣下に事態をお伝えするのだ」


 死の覚悟など愚問だった。

 ラインダルトはその程度の覚悟はとうに済ませていたのだ。騎士団に入隊して栄達を掴むと志した少年時代にすでに護国の鬼となる誓っている。


 彼はたしかに俗物だ。酒も女もお宝だって大好きで、己に与えられた権力を利用することに躊躇のない典型的な小役人だ。だがその勇気については疑う余地はなかった。


 長年の友に別れの言葉を告げ、ジョゼフ魔導官が空に舞い上がる。


 飛翔魔法は高等魔法に位置する。習得は難しく、行使に伴う魔力量も膨大だ。ジョゼフほどの魔導師でも最高戦速240キロを10分と維持できない。つまり112キロ先にあるトリアタ市に到達する前にガス欠になる。


 出力を四割程度に抑えて消費量を軽減した方が結果的に早く到達する。そちらの方が賢い。だがジョゼフは時を弁えていた。


「この年になって限界に挑戦する機があるとはな。ああは言ったが間に合うように努力はする、死ぬなよラインダルト」


 これら数字は全盛期のものだ。死に直結する魔力器官の酷使は三十を過ぎてからは極力避けてきた。


 だが友のために命を懸ける最後も悪くない。面白いことに命は張れば張るだけ輝くものだ。最近生まれたばかりのひ孫に語る武勇伝を増やしておくのも悪くない。じいさまが英雄になればさぞ鼻も高いだろう。


 ジョゼフが全速力で飛翔する。夜闇を切り裂いてグングン加速する。


「ぬぅ……!」


 魔力探査に反応あり。マンティコア級の空の魔物がジョゼフを狙い追ってきている。


 早い。ジョゼフの最高速度に倍する速さで追ってくる。マンティコアかグリフォンかは判別できないが、十数頭もの有翼獣はジョゼフを逃がさないように包囲フォーメーションを敷いている。


「この動き、やはり操られているのか……?」


 思い返せば最初からだ。最初から違和感はあったのだ。

 深層の魔物がパレード発生から二時間ないしは三時間で出てくるはずがない。何者かが余所から連れてきたのだ!


 違和感はあった。気づけさえすればちがった未来もあったかもしれない。テイマーは排除し騎士団の損耗を抑え、堅実に戦っていたなら……


(挽回はできる。何者が何を企もうがシュテル殿下にご報告が適えば……)


 ジョゼフ魔導官がさらなる加速をする。


 有翼獣に狙われた時は地上スレスレを飛ぶのがセオリーだ。真下から足を食いちぎられる心配が減るだけでもありがたいし、むやみに突っ込んできた魔物が地面と激突してくれれば最高だ。


 とはいえそんな無茶をすれば有視界80cmの暗闇の中を生身で激走している魔導師が自爆するだけだ。


 ゆえにジョゼフはセオリーの真逆を選択する。逆に高空を目指すのだ。訓練された魔導師なら絶対に取らない手段だ。空中戦でマンティコアに敵うはずがない。


(だがこいつらが操られた存在であるならビーストテイマーの裏を描ける!)


 マンティコアは恐るべき空中の狩猟者だが操り手が人間なら性能は格段に落ちる。これほどの危険度の魔物を意志を残したまま飼い慣らすはずがない。


 空を覆う曇天に突入し、肌を叩く氷の粒にも負けずに雲海を突き破る。


 雲の海が漂う高空の世界は穏やかだ。あれほどのどしゃ降りも魔物どもの姿もなく、ただただ雄大な世界が月明かりの下にあった。……ああなるほど、ここに隠れていたのか。ジョゼフは敵の姿をこの穏やかな世界で見つけた。


 雲海の隙間に漂う赤い鱗の小火竜。その首の付け根に据えた黒檀の鞍に貴族的な容貌の使徒が跨っている。ただ魔力探査に反応はない。探査魔法の上では彼はこの世に存在しないことになる。


 あれほどの魔物を操りながら魔法力の尻尾も出さぬ超級の魔導師。魔法大国サン・イルスローゼの魔導官であっても、絵本に出てくる魔法使いの領域の御業だ……


「素晴らしい」


 銀髪の大魔導が賞賛するがごとく微笑んだ。口元を傾けるようなアルカイックスマイルだ。


「さすがは人類文明の聖地にして戦争の激戦地ウェルゲート海の魔導師だな。詰めるだけの状況から正体を暴かれたのは初めてだ」


 強い畏怖を宿した声だ。王のものだと言われれば納得するほどの威厳に満ちている。ジョゼフはペール市を襲う怨敵と相対しながら、ここが戦場であることを忘れている。


「本来特務中の名乗りは好ましくないのだが貴殿は中々の人物と見た。敬意を払い、名乗りをあげよう。ガラテア・ワースシュテイル・グローゼアル、ラハトの位にある」


「いずこの手の者か?」

「神罰執行部隊ジャッジメント・デザイアである。知らぬか? まぁいい、そちらも名乗られよ」


 どうやらこの大魔導は栄誉ある騎士の決闘をご希望らしい。


 邪魔者がいないのは助かる。何しろあちらは無数の魔物を従えているが、こちらは単騎だ。ジョゼフは身の内に魔法力を循環させるように深呼吸をする。


「ジョゼフ・コーリン。ペール伯爵家迷宮騎士団付き魔導官だ!」

「その命、我が信仰に捧げる」


 空を挟んで互いに杖を向ける。


 まったく堂々とした決闘だ。昨今の忙しなく優雅さに欠ける決闘の定石なら先手必勝。相手よりも早く詠唱を終え、適切な威力で打ち倒す。

 だがガラテアはジョゼフが詠唱を始めるのを待ち、合わせる気だ。


「≪ミクラガルドの大渦よ逆巻け! 回れ回れ運命の如く、回れ回れ小舟の如く、逃れられぬうずしおに沈んで息絶えよ!≫」

「≪炎の娘リースは火の理を謳う! 永遠の冬に凍える娘は慈悲深き炎神からひと雫の火を与えられた 娘は火の温かさを知り、神の愛を知った これこそが原初の加護なり≫」


 ジョゼフは刹那心を乱したが堪えた。

 同時に魔法力を集め始めたはずなのに集積が早すぎる。言ってしまえば力量のちがいなのだろうがここまで来ると笑えてくる。ジョゼフが250アテーゼを体内からかき集めている間に、ガラテアは四ケタ近い魔法力を集めてきた。


 何が正々堂々たる決闘か。とんだペテンではないか。ただ文句だけは口が裂けても言えまい。お前は強すぎるから卑怯だなんて魔導官を三十年にわたり勤め上げてきた男が言えるはずがない。


(古きカルステン語、それも聴いたことのない詠唱だな。様式からして神話語りなのだろうが火属性か? ならば属性相克の上では私の大海嘯が有利。運に救われたか……)


 ふと些細な疑念が心をよぎる。

 本当に運だろうか?


「≪海神の娘は笑う、この海にお前達の住処はない 我らは愛の意味を知らず 我らに法はなく、我らに慈悲はない あぁお前達が憐れむことはない お前達は海の掟を知らぬのだから―――≫」

「≪男たちはきこりに出かけ、娘たちは囲炉裏を囲む 時は巡りて娘たちはたたらを踏み、男たちは鉄を鍛えた 愛は戦いの道具となった オーディンは言う、炎神よ泣きたもうな お前は愛を与え闘争も与えたのだ 人は愛の意味を知り、奪うを学んだ 原初の加護こそが信仰の芽生えなれど、永遠の戦いの始まりとなった―――≫」


 詠唱を終えてスタンバイに入った魔法が杖を震わせる。

 魔法は解き放たれる刻を待ち、だが放たれる快楽を止められるものではなかった。


 刹那、嵐のように魔法力の渦巻くフィールドが制止した。


「≪諸共に藻屑と消えよ! ギネビアの大海嘯!≫」

「≪お前にも愛を与えよう―――プロメテウスの灯よ≫」


 光が乱舞する。

 夜を押し流すほどの大津波と夜を染め抜くような燈色の炎が衝突する。それはとても綺麗な光景だった。この世にこんなにも美しい色彩があるのかと誰もが息を呑んで見つめるほどに。


 ただ、ジョゼフがこの色を見ることはなかった。


 一瞬で大津波を貫通されて灰と化した彼がこの、この世のものとは思えない美しい火を見ることだけはなかった。


 極致魔法を放った残り香か、杖の先に灯った火をひと振りで払ったガラテアは少々物足りない面持ちをしている。このような事を言えば決闘相手にとても失礼にあたるのだろうが、少々期待外れだったわけだ。


 魔導戦の神髄は初撃から相手の力量を推察し、三度四度と打ち合いを経て互いの器量を計ってこそ。まさか小手調べの一発目で消し炭になるとは……


「見誤りだな。あぁ我が主神に捧げるべき誉れ高き戦いとは何と遠いのであろう……」


 嘆きは一瞬だけ。

 すぐに特務を思い出した大罪教徒は次の手をどうするかと思案する。


 イルスローゼにはS鑑定がいる。過去を視る超級の魔眼を持つ彼らにかかればガラテアの仕業だとすぐに露見するだろう。


 だから物事は単純に純粋に何を疑う余地もなくモンスターパレードという自然現象であると見せかけるべきだ。


 しかしこのフィールドに満ちる水の魔法力をこのまま放置するのも……

 遥かなるペール市では河川防御陣での戦いが続いている……


「この程度であれば問題はないか?」


 世界樹の短杖を振るう。

 急速冷凍した水の魔法力が霧状のままペール市へと向かう。炎さえも鎮める冷気の風が、奮戦する迷宮騎士団を頭上から襲った。



◆◆◆◆◆◆



 ペール市内の河川防御陣。首謀者もわからぬ卑劣な暗殺によって半数を失った迷宮騎士団はそれでも戦闘を継続していた。


「油を切らすな! 単独行動は禁じる、常に三人以上で動け。夜明けまででいい、最悪夜明けまででいいのだ。パレードを何としても食い止めるのだ!」


 騎士団はけなげに戦い続ける。

 もはや万に一つの生還もありえない。王都からの救援まで耐え凌ぐどころか夜明けまでさえ危うい。死は確定している。

 だが今も町から遠ざかる避難団には家族がいる。妻がいる。子がいる。俺の武勇を信じて再会を胸に懸命に歩き続けている。


 奮戦した時間の分だけ妻子の生存確率が増す。もう彼女たちには会えないけれど、俺の生きた証は彼女たちの胸に残り続ける。


 迷宮騎士団は使命を胸に戦い続けた。どんな皮肉屋だって彼らの武勲と心意気だけは貶められないほどに戦い続けた。


 天から、冷気が降ってくるまでは。


 轟ッ!と冷気が吹き荒れていった。一瞬の強風みたいに駆け抜けていくだけの風だった。だが……

 あの一瞬で堀の水が凍りつき、氷の大地へと変貌した。


 火柱のように高々と燃え盛っていた炎も鎮火している。キラキラと凍りついた空気の中で、吐息を白く染めながら、迷宮騎士団の瞳は絶望に染まっている。


 闇の向こうに灯る無数の赤い目がゆっくりと近づいてくる。それは最初だけだ。すぐに走り出した。もうすぐ傍だ!


「総員、命を捨てよ」


 すらりと剣を抜いたラインダルトが先頭に立ち、雄たけびをあげてパレードへと立ち向かう。迷宮騎士団もまた団長を追う。


 一分もかからなかった。迷宮騎士団が魔物の津波に踏み潰されるのに、僅か一分さえもかからなかった。彼らは戦って殺されたのではない。文字通り行進する魔物の行列に踏み潰されて死んでいったのだ。


 パレードが始まる。大地を埋め尽くす魔物の群れが、大地へと解き放たれた。

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