第一話 『十年前の秋』
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長らく続いていた残暑の熱気もようやく姿を消し、心地よい秋風がそよぎ始めた十月一日の昼下がり。
ハルは親戚の初老の男性に手を引かれ、都会の中心部にある庁舎前広場にやって来た。
当時まだ五歳だったハルにとって、自宅からここまでの道のりは大変なものだった。
それでも彼は「せんせぇ」と呼んでいるその男性の手をしっかり握り、最後まで歩き通した。
広場につくと、男性はハルを抱きかかえ、広場の隅へ移った。
広場には多くの人々が集まっていた。
そのほとんどは若年世代から壮年世代で、仕事の途中にここへ来たらしく背広姿の人が目立つ。多くの人が期待と不安の入り混じった表情をしていた。
彼らは内心の動揺をまぎらわせようとするように、誰彼となく言葉を交わしていた。
「いったい、どうなるんでしょう。前回の世論調査では、賛成が若干上回っていましたが」
「賛成多数でなければいけませんよ。なにしろ、我々の人生がかかっているんですから」
「もし、反対が多かったら、どうなるんでしょうか」
「その時は全国で暴動が起こるでしょうな。もっとも、賛成でもそうなるでしょうが。投票前日も当日も、本当にひどい騒ぎでしたからね」
「賛成派も反対派も、大勢の死傷者が出てしまいました……」
「とにかく、これで終わりにしてほしいものですよ」
「そうですね……。でも、本当にこれで、終わるのでしょうか」
「終わらなければいけないでしょう。この投票結果は私達日本国民の、いえ、日本という国家の総意なのですから。そしてその総意は、私達を必ず裏切りはしませんよ」
人々の話し声はハルにも聞こえていたが、その内容はさっぱりわからなかった。
ただ、これから何かとても大事なことが起こるんだということは、感覚的に理解できた。
ハルを抱きかかえている男性は緊張しているらしく、その腕に力が入る。
その緊張感を感じとったのか、ハルは男性の顔を見上げ、たずねた。
「せんせぇ、だいじょうぶ?」
「大丈夫だ。心配ないさ」
男性はハルに優しく微笑みかける。
それを見て、ハルは安心したように笑った。
時がたつにつれ、人々の話し声は次第に大きくなった。
一方で、都会の雑踏を行く足音や道路を走る車の音は、少しずつ小さくなっていった。
やがて、広場を見下ろすようにそびえ立つ庁舎のビルから軽やかなメロディーが流れた。
同時にビルの前に巨大なスクリーンが表示され、立体映像が映し出される。
それは国営放送による臨時ニュースだった。
気品のある身なりをした若い女性ニュースキャスターは無言のまま一礼すると、一切の感情を押し殺したような口調で原稿を読み始めた。
「ただいまより、昨日行われました、日本再生計画の実施を問う国民投票の結果をお伝えいたします。今回の国民投票の投票率は九十八パーセント、うち、賛成は有効投票数の五十一パーセント、反対は四十九パーセントとなりました。よって日本再生計画の実施は、賛成多数により決定されました。繰り返します。昨日実施されました、日本再生計画の実施を問う……」
ニュースキャスターの声が響くたびに、庁舎前広場から人々の話し声は消えていった。
しばらくすると都会の雑踏を行く足音も消え、車道を走る車も緩やかに速度を落とし、次々と停止した。
信号が変わっても、動き出そうとする車はなかった。
そうだ。もう、動かなくていいんだ。
少なくとも、今、この時だけは……。
奇妙な静寂が広場全体を包み込む。
ハルは言い知れぬ恐怖を感じ、男性にたずねた。
「ねえ、みんな、どうしちゃったの?」
男性は何も答えなかった。
彼はとても深刻そうな顔をして、目をスクリーンにまっすぐ向けていた。
その目には深い哀しみが見え隠れしていた。
せんせぇ、とハルが呼びかける。
男性はようやく気づいたらしく、ハルに目を向けた。
「大丈夫だ。心配することは何もない。そうだ、何も心配ないんだ……」
ハルは男性の言葉を信じた。
仕事で忙しい両親にかわり、いつもハルの面倒を見てくれているのはこの男性だった。
なので彼が大丈夫だと言えば、ハルは素直に大丈夫だと信じた。
「さあ、もう帰ろうか。すまなかったね、こんなところまで連れてきてしまって」
男性はハルを抱きかかえたまま広場を去ろうとする。
しかしハルは、もう歩けると言って地面に降りた。
「本当に、大丈夫なのか?」
男性が尋ねると、ハルは元気よく「うん!」と答えた。
「そうか……。強い子だな、お前は」
男性はハルの頭を優しくなでる。
ハルは幸せそうに笑い、男性の手を握って歩き出した。
歩きながら、男性はハルに言う。
「今日のことは、誰にも言わないようにな。もちろん、お父さんとお母さんにも内緒だ」
「どうして?」
「どうしてもだ。世の中にはそういうことがある。とにかく、これは約束だ。わかったな」
ハルは男性の言葉の意味を考えようとしたが、幼い彼にはまるで理解できなかった。
「約束を守ってくれるなら、何かおいしいものを食べさせてあげよう」
するとハルは喜びの声を上げてはしゃいだ。
そんなハルを見て男性は小さくつぶやく。
「あの瞬間を、どうしてもお前に見せたかったんだ。すぐ、忘れてしまうだろうがな……」
その言葉は、ハルの耳には聞こえなかった。
実際にハルは翌日になると、広場での出来事をすっかり忘れてしまった。
男性と一緒に食べた美味しいものも。
男性と交わした約束も。
それでもハルの心の奥底には、男性の腕から伝わってきた緊張感と、スクリーンを見つめる目に見えた深い哀しみが、忘れられた影のように残っていた。
もちろん、今のハルは翌日のことなど考えられない。
五歳の子どもであるハルにとって翌日のことは、五年後十年後のことと同じような認識なのだから。
今はただ、おいしいものを食べられるという喜びで、頭がいっぱいだった。