第91話
“竜王”ゲルディオス――
伝説の魔獣として人々に畏怖されるドラゴンの中でも、それらを統べる王たる彼は一際異彩を放つ特別なドラゴンである。
魔力を持つドラゴンや人語を解するドラゴンは非常に稀ではあるが確認されている。しかしながら彼のようにドラゴンが人の姿に化けたなどという記録はどの文献にも記されていなかった。ゲルディオスは決して歴史の表舞台に出ることは無く、このデモンズ・バレーの奥深くにて世界の行く末を“監視”していたのだ。
「貴方がどこにいるのか分かりませんでしたが、こうしていればきっと貴方の方から会いに来てくれると思っていましたよ」
アレンがどこかぎこちない微笑を浮かべながらゲルディオスに歩み寄った。握手を求めるように右手を差し出すが、ゲルディオスは眉間に皺を寄せた険しい表情のまま微動だにしない。
「……我が同胞を葬ってくれたようだな」
アレンが苦笑交じりに右手を引っ込めたところで、ゲルディオスが静かに口を開いた。空気が俄かに張り詰める。
「ゲルディオス……あれは――」
「分かっておる。あれは未熟な同胞の咎だ。たかが人間ごときに操られおって……」
ゲルディオスが忌々しげに吐き捨てる。いかにワイズマンが人間離れした力を持っていたとはいえ、彼から見れば所詮取るに足らない人間である。かつて人間に敗れたドラゴンはいても、操られた挙句に人間同士の争いに加担させられたなどと前代未聞の恥辱だった。
「……それでも貴方は沈黙を貫くのですね。二十年前と同じように」
アレンが眼を伏せ、寂しげに呟いた。その気になれば止めることなど容易い事だろうに、このドラゴンの王は自ら「同胞」と呼ぶドラゴンの危機に対して、腹立たしげに思いつつも何もせずただ成り行きを見守るのみであった。
「その二十年前にも言ったはずだ。それが吾輩に与えられた“使命”なのだ」
「……この世界が滅びるまで……ですか」
「そうだ。それが“双生の女神”の従者たる吾輩の唯一の使命。この世界も、幾度となく繰り返されてきた創世と滅亡の一つに過ぎぬ」
世界創世と同時に存在し、あらゆる生命の栄枯衰退を見守り続けてきた。そして一つの世界が終わる時、その全てを創造主たる二人の女神に報告するのがゲルディオスの役目である。故に決して自分から何かに干渉することはなかった。
ゲルディオスがこの世界で唯一、他者と関わりを持ったのは二十年前の騒乱時のことだった。デモンズ・バレーにて最後の決戦に臨むアレン達“四大”の前に姿を現し、少々言葉を交わしただけである。アレン達はゲルディオスに合力を求めたが、当時も彼は頑なにそれを拒んだのだ。
「――とはいえ」
「えっ?」
今回もまたゲルディオスの協力を得ることは敵わないのかとアレンが諦めかけたその時、まるでそのタイミングを見計らっていたかのようにゲルディオスがおもむろに口を開いた。
「十賢者との“約束”もある。吾輩自身は動くこと能わぬが、同胞には少々骨を折ってもらったよ」
それだけでも不本意であると言わんばかりに、ゲルディオスが不愉快そうに顔を歪める。しかしそれとは対照的に、アレンの表情は俄かに明るくなった。
「十賢者とどのような約束を?」
二十年前、魔石の力を利用して世界の覇権を狙ったノヴォガス帝国の野望によって、こちらがわの世界と魔族達の棲む魔界とを繋ぐ“穴”が開かれた。その穴を塞ぐために、十賢者は自らその穴に身を投じ、人柱となることで世界を滅亡の危機から救ったのだ。
世界の“調停者”たる十賢者は、自分達が消えた世界の行く末を憂い、自らの力の一部をロザリーに託し、そしてさらに“監視者”であるゲルディオスにも万が一の時には協力してくれるよう要請していたのだ。
「たとえ十賢者の頼みとはいえ、吾輩が直接この世界に干渉することは許されぬ。しかしながら同じく“双生の女神”に仕える盟友の誼もあるでな。今回だけは特別だ。」
そう言ってゲルディオスはアレンの後方――北の空を指さした。
「明日にでも王国軍と教会の艦隊が北の海で激突する。その直前、日が昇ると同時に我が同胞達が両軍に一斉攻撃を仕掛ける」
「なっ……! 待って下さい! それでは――」
指さされた方を振り返り、北の空へ視線を飛ばしていたアレンが、再び驚愕の眼差しでゲルディスを振り返る。ドラゴンの群れに襲われれば、いくら最新鋭の艦隊といえどもひとたまりもない。
「安心しろ。何も撃沈させるわけではない。適当に打撃を加えつつ、両艦隊共に戦闘不能にするだけだ」
アレンの驚きと抗議を予想していたのだろう。ゲルディオスはドラゴン出撃の目的を簡潔に説明した。
「そう……ですか。しかし、なぜ……?」
ドラゴンが両軍を全滅させるわけではないことを聞いて安心したアレンだが、また別の疑問が沸き起こった。両軍の衝突を食い止めたいのはアレンも同じ気持ちだが、あれほど人間の争いに関わることを拒否していたゲルディオスが、特別に動いてまですることなのだろうか。
「両軍がぶつかれば、どちらが勝利を収めるにしろ大量の血が流れる。先のフレイノールの襲撃と合わせれば、かなりの数の“魂”が手に入るだろう。敵の狙いは――」
「まさか……っ! 再び“穴”を開けることだというのですか!?」
ゲルディオスが説明を始めると、アレンもすぐにその意図を理解し、驚愕に声を震わせた。いや、魔界に繋がる“穴”が開いてしまう危険があることはアレンも認識していた。驚いたのは、敵がそれを望んでいるということだ。
「吾輩はそう見ている。十賢者を失い、また世界各地で賢者が次々と葬られ、世界には魔族の好物たる負の感情と魂が溢れておる。“穴”を開けるにはこれ以上ない好条件だが、これが偶然だとでも?」
歴史の表舞台には出ず、陰ながら人々の支えとなり導いてきた賢者達――。彼らがいたからこそ、世界はどうにか均衡を保っていたとも言える。しかしその反面、人々はいつしか賢者のような特別な存在に無意識下で依存し、自分達で困難に立ち向かう気概を失ってしまっていた。そんな中、その支えたる賢者がいなくなってしまえば、世界には絶望と混乱が溢れるのは道理と言えた。
「しかし……“穴”を開けば世界は間違いなく滅亡します! そんなこと、ディーンだって充分分かっているはずなのに……!」
王国軍が魔石を用い、非合法な人体実験を繰り返していたことは間違いない。その過程で“ワイズマン”という賢者に匹敵する超人達は生み出されたのだろう。それにかつての仲間が関わっているなど、今でも信じられない気持ちだが、関わっていないと考える方が不自然でもあると理解していた。
しかしながら、一体その本当の目的がどこにあるのか、アレンには杳として知れなかった。まさか本気で世界の滅亡を望んでいたなど、想像だにしていなかったのだ。
「“剣帝”か……。確かにあの堅物そうな男がこんな大それたことを画策しているとはな。しかし、本当にあの男なのか――」
最後の一言は無意識だった。ゲルディオスは咄嗟に口を噤んだものの、時すでに遅く、アレンはその言葉を聞き逃さなかった。
「どういうことですか!? 貴方は何を知っているのですか!?」
今まで以上に声を震わせながら、アレンがゲルディオスに詰め寄る。そのまま胸倉を掴みかからんばかりの剣幕に、さすがのゲルディオスも観念したように溜息をついた。
「……吾輩としたことが迂闊であったわ。だが先程も言った通り、吾輩はこの世界の流れに干渉することは禁じられておる。誰と誰が争おうが、そのどちらかに肩入れするわけにはいかぬのだ」
王国軍と教会の軍事衝突を止めることも、ゲルディオスの本意ではない。それでも、あくまでも一時的な措置に過ぎず、その間にアレン達がこの事態を解決できなければそれまでのことと割り切っていた。あくまでも時間稼ぎであり、直接アレン達の手助けになっているわけではない。
「しかし……っ!」
ゲルディオスの言葉を理解しつつも、ここまで来たらアレンも引き下がるわけにはいかなかった。何より、彼が最後に漏らした言葉は、アレンの思い描いでいた事件の構図を根本から覆すことになりかねないのだ。
「……口を滑らした吾輩の落ち度だ。仕方あるまい、話してやろう。しかし恐らくお前の期待しているような話ではないぞ」
そう前置きして、ゲルディオスは目と鼻の先まで詰め寄ってきているアレンを押し退けるようにして距離を取った。そしてもう一度自分の迂闊さにに腹を立てて大きく溜息をつく。
「正直に言えば、分からぬのだ。この世界の全てを監視する役目を与えられた吾輩の眼をもってしても、今回の騒動を引き起こした黒幕が何者なのか全く見えぬ」
それはゲルディオス自身にとっても信じがたい事だった。世界の監視者として、ゲルディオスはこの場に居ながらにして世界中のあらゆる事象を見通すことができる。それは空間的な広がりに留まらず、過去や未来に至るまで、彼の眼で捉えられないものは無かった。
王国軍の魔石を用いた人体実験、そしてクーデターまでの流れはゲルディオスにも確認できた。しかし“ワイズマン”がいつ生まれたのかは分からない。いつの間にか生まれ、そして世界各地で賢者を殺害して回っていたのだが、それを指示しているであろう人物の姿も彼の眼には映らなかったのだ。
「そんなこと……あるのですか?」
ゲルディオス自身が信じられないでいるほどなのだ。当然アレンにも彼の言葉が俄かには信じられなかった。
「あるはずがない……と言いたいところだが、実際に見えぬのだから仕方あるまい。恐らく黒幕は吾輩の存在を知っている人物。そして吾輩の眼を誤魔化せるほどの特異な力を持っている者だろうよ」
魔法によって特殊な結界を張り、同じく魔法による監視の目から逃れるというのは不可能ではない。しかしそれはあくまでも人間同士の話である。ゲルディオスの監視の眼すらもすり抜けることができるとなると、それは想像を絶する力を有した規格外の人間ということになる。
「例えば……ディーンですか?」
「さあな。たとえお前達“四大”であろうと、吾輩の眼を欺くなどできはしない。しかしお前達以外に可能性は無かろうな。お前達が“穴の向こう側”を覗き見たのであれば……」
二十年前、アレン達の目の前で開いた“穴”は、大惨事を引き起こす前に十賢者によってすぐに塞がれた。しかし一瞬とはいえ現界と魔界が繋がったのは事実で、“穴の向こう側”には確かに魔界があったのだ。
「確か、私以外の三人は皆“向こう”を見たはずです。三人ともそれぞれに衝撃を受けたようですが、詳しい話は誰もしませんでした」
当時の光景を思い出しながらアレンが言った。目の前に出現した漆黒の球体。そこから溢れ出る瘴気は、確かにこの世の物とは思えないほど濃密で恐ろしかったのを覚えている。アレンは偶然にもその“穴の向こう”を見ることは無かったが、リオナ、ケニス、ディーンの三人はその向こうに魔界が広がっているのを確かに見たと言っていた。
「お前達賢者は、魔界から漏れ出る瘴気の影響を強く受けている。それが魔界の瘴気を直接浴びたとなると、あるいは吾輩の想像を絶する覚醒があっても不思議ではないのかもしれぬな」
ゲルディオスは腕を組み、アレンの言葉に深く頷いた。
「しかし……リオナとケニスは……。“四大”で残っているのはもう……」
アレンとディーンの二人だけなのである。もし四大以外に可能性がないのなら、黒幕の正体はディーンで間違いないということになる。
「真実は己の眼で確かめるがいい。両軍の艦隊はドラゴンが止める。お前達はさっさと王都まで行って、この馬鹿げた騒動を収めるんだな」
そう言ってゲルディオスは踵を返した。
「あっ、待って下さい! そういえば、この辺りの魔獣がやけに凶暴なんですが……」
立ち去ろうとするゲルディオスを呼び止めて、アレンは昼間に感じた異変について尋ねた。以前この場所を通った時に比べ、魔獣の動きが活発過ぎるのだ。
「先程も言った通り、今世界には負の感情と魂が溢れておる。それは魔界の瘴気を呼び込み、魔獣を活性化させるのだ。普段は同胞達が抑えとなっておるが、今は出払っておるのでな。魔獣共もタガが外れておるのだろうよ」
特に興味も無さそうにゲルディオスは言ったが、まだデモンズ・バレーを抜けるだけでもあと一日はかかりそうなアレン達にしてみれば重大な問題だった。
「せっかくですから、我々がここを抜けるまでの手助けなど――」
「甘えるな。その程度のことで音を上げるようなら、どの道世界の崩壊は免れぬであろうよ」
立ち止まることなく、ゲルディオスがアレンの要請を突っぱねる。そしてそのまま遠ざかっていく背中に向けて、アレンも「ですよね……」と苦笑交じりに応えた。
現在、執筆ペースが著しく低下しております。
なるべく早く以前のペースに戻したいと思っておりますが、次回の更新時期すら自分でも分からない状況でございます。
申し訳ありませんが、少々お待ちくださいm(__)m