第89話
その日の夜、皆が簡易のテントや寝袋で寝静まった中、見張りのために起きていたフィゼルは皆の姿が見えない所で、一人大樹の根元に凭れ掛かっていた。
時折来る激しい吐き気を抑えることが出来ず、その場で先程食べた食事を全て吐き出している。実はフレイノールを発して以降、食べた物はほとんど全て吐いていた。
「ハァ……ハァ……」
自分の吐しゃ物に土を被せて覆い隠した後、また別の樹に寄り掛かったフィゼルは、脂汗の浮かぶ顔を上げ、満天の星空を仰いだ。
「……大丈夫ですか、フィゼル?」
そんなフィゼルに声を掛けたのはアレンだった。驚いたフィゼルが弾かれたように身体を声の方へ向けると、アレンは安心させるように微笑を湛えたままゆっくりとフィゼルに近づいて来た。
「先生……」
フィゼルは凭れ掛かっていた樹から離れようとしたが、アレンはそれを手で制し、そのまま根元にフィゼルを座らせた。
「……大分まいっているようですね」
フィゼルの額に手を当てると僅かに熱があった。
「大丈夫だよ。ちょっと導力車に酔っただけだから」
「フィゼル……記憶を封印しませんか?」
それが嘘だということを分かっているアレンは、単刀直入に内に秘めた思いを伝えた。思ってもみなかった言葉に、フィゼルの眼が見開かれる。
フィゼルを苦しめていたのは、かつてワイズマンとして多くの人間を殺めてきた記憶だった。確かに当時の自分にははっきりとした自我のようなものは希薄だったように思う。しかしその行為自体は鮮明にフィゼルの脳裏に焼き付いていた。
「このままでは王都に着く前に貴方が倒れてしまいます。せめてこの戦いが終わるまで、過去の記憶を封印しませんか?」
フィゼルがワイズマンNo.8“熾眼”のレンとしてアレンの前に現れた日、アレンは撃退したフィゼルの“力”と“記憶”を“鍵の長”から授かった封印術で封じ込めた。それと同じ封印をもう一度施そうと言う。
「……駄目だ」
アレンが自分のことを考えて言ってくれているのは分かっていたが、フィゼルは精一杯力強い眼差しを向けてそれを拒んだ。
「フィゼル……」
「ゴメン、先生。でも俺は……忘れるわけにはいかない」
本当は今すぐにでも忘れてしまいたい忌まわしい記憶だが、フィゼルには決して逃げるわけにはいかない理由があった。
「助けるんだ、あの子を。その為には、俺はもう忘れちゃいけないんだ」
フィゼルの頭には、ある一人の少女の顔が浮かんでいた。自分と同じように幼い身でワイズマンにされ、壊れてしまった心で今でも殺戮を繰り返している哀しい少女を、何としても救いたかった。
「あの子……? それは一体……」
フィゼルが誰のことを言っているのか、当然アレンには分からなかった。しかしフィゼルはゆっくりと首を振ってアレンの問いを躱した。他の誰にも言うことのできない秘密があるのだろう。
ワイズマンNo.10“死告天使”シフォン・アウスレーゼ。彼女がどのような経緯でワイズマンに加わり、そしてなぜ自分にだけ特別に懐いているのか、フィゼルは知っている。その記憶こそが、彼女を救えるかもしれない唯一の鍵だった。それ故、フィゼルはその記憶を封印してしまうわけにはいかないのだ。
「……分かりました。貴方の意志がそこまで強いのなら。ですが……」
「分かってる。絶対無理はしないよ。本当にヤバくなったら先生の言うこと聞くから」
やつれた顔に精一杯の笑みを浮かべて、フィゼルはアレンの言葉を遮った。アレンはまだ何か言いたげな様子だったが、そんなフィゼルを見て、今は彼を信じるしかないと心に決めた。
「あ……アレンさん……」
木の根元に座り込んだままのフィゼルを残してアレンがその場を離れると、少し離れた所から二人の様子を窺ていたミリィが声を掛けてきた。
「ミリィさん……貴方もフィゼルのことを?」
フィゼルの位置からは二人の姿は見えない。声も聞こえないはずだったが、自然とアレンは声を落とした。
「え、ええ……でも……」
ミリィもフィゼルの様子が心配で、声を掛けるタイミングをずっと計っていたのだ。あの夜の出来事により、ここまでまともにフィゼルと眼を合わせることもできずにいたが、今夜こそはちゃんと話そうと思っていた。しかしいざとなると、どうやって声を掛けたらいいか分からず、ずっと物陰から二人を眺めることしかできなかった。
「……傍にいてあげてください。もちろん、貴方さえ良ければですが」
フィゼルとミリィの間にはまだどうしようもない蟠りがあるのだろう。それは致し方のない事だった。しかし今のフィゼルを救えるとしたら、それはミリィを置いて他にはないとアレンは思った。その役目が自分ではないことに若干の寂しさを感じながら、アレンはフィゼルのことをミリィに託した――
「あ、ミリィ……」
自分の接近を知らせるようにわざと強めに下生えを踏んでやって来たミリィに気が付いて、フィゼルが顔を上げた。
「えっと……ここ、いい?」
「う、うん……」
ミリィがフィゼルの座り込んでいる樹の根元を指さしたため、フィゼルは慌てて身体を少し横にずらしたが、ミリィはフィゼルとは樹を挟んでちょうど真裏に腰を下ろした。
「…………」
それから樹を挟んで背中合わせに座ったまま、しばらく二人は無言のまま空を見上げていた。
ミリィが自分の身を心配して来てくれたことは明らかだ。それを嬉しいと思う気持ちと、情けないという気持ちが入り交じり、フィゼルは口を開けずにいた。
「……綺麗ね」
長い沈黙の後、ぽつりと言葉を発したのはミリィだった。特に意味のある言葉ではなかったが、話のきっかけを作るように夜空に瞬く星を見上げたまま口を開いたのだ。フィゼルを心配するような言葉は決して口にしない。それを言えば余計フィゼルを苦しめるだけだということは分かっていた。
「う……うん」
フィゼルも同じように空を見上げたまま、ミリィの言葉に応えた。ここで口を噤んでしまうわけにはいかない。ミリィが精一杯の勇気で作ってくれたきっかけを、今度はフィゼルが活かす番だ。
「あの……ミリィは、さ。これからどうするの?」
「え……?」
「あ、いや……別に深い意味は……ないんだけど」
ミリィの困惑を敏感に感じ取って、フィゼルが慌てて自分の言葉を打ち消した。何か話さなければという焦りから、我ながら馬鹿なことを訊いてしまったと後悔する。
ミリィは母親の仇を討つためだけに今まで生きてきたのだ。唯一の目的を失ってしまった今、その仇であるフィゼル自身の口からそんな事を訊くのはあまりにも無神経過ぎた。
「……ううん、いいの」
フィゼルの後悔をミリィも敏感に感じ取った。事情が事情だけに、お互い神経質なほど気を遣っている。
「これから……かぁ。フィゼルはどうするの?」
ミリィはこれからどうするべきか、まだ何も考えられずにいた。以前カイルから「復讐した後のこともちゃんと考えろ」と言われたが、あの時はそんなことを考える余裕も、また必要もないことだと思っていたのだ。
「俺……? 俺は……」
変わらず顔を上に上げたまま、フィゼルは一度言葉を切り、固く拳を握りしめた。心に秘めた思いを口に出すことに若干の恐れを抱いている。
「俺は……自分のしてきたことの償いをしたい」
かつてワイズマンの一員として多くの命を奪ってきた。たとえそれがフィゼル自身の意思によるものではなかったのだとしても、その事実から逃げるわけにはいかなかった。
「償いって……どうするつもり? まさか――」
あの夜、フィゼルは命を懸けて自分を救いに来てくれた。その後も自分の気が済むならと、平気で目の前にその命を晒したのだ。それだけ、フィゼル自身の贖罪の意識が強いのだろうが、その先には破滅しか待っていないような気がした。
「あ、大丈夫。絶対自分の命を粗末にするようなことはしないよ。生きて……生きて償うって決めたんだ」
フィゼルもミリィと同じことを思い出して、自嘲気味に苦笑してミリィの言葉を遮った。ミリィを救うために命を懸けたことは当然としても、その後でもミリィに復讐を果たさせてやろうと考えたことは、今思えば異常な精神状態だっただろう。
「あっ……」
あの夜のことを思い出して、フィゼルは思わず顔を赤らめて俯いてしまった。あのキスには特別深い意味なんてないのだろうとどれだけ自分に言い聞かせてみても、どうしても意識せずにはいられなかった。
「どうしたの?」
突然フィゼルが無言になったのを不審に思って、ミリィが樹の裏から声を掛ける。フィゼルの赤くなった顔を見ていたなら、ミリィも同じことを思い出して同様に赤面していたかもしれない。
「う、ううん! 何でもないよ! それでさ……俺、この戦いが終わったら世界中を回ってみようと思うんだ」
ミリィに自分の顔を見られなかったことにほっとしながら、フィゼルはフレイノールを発ってからずっと考えていたことを語った。
「世界中を?」
「うん、スイーパーとしてさ。世界中を回って色んな人の助けになりたいんだ」
ロザリーから言われた言葉。
――百人の命を奪ったのなら、同じく百人の命を救ってみせろ
たとえ一生を費やしたところで、実際にどれだけの命を救えるのかは分からなかったが、それがフィゼルなりの贖罪である。
「それに、自分の生まれ故郷も探したいしね」
子供の頃の記憶が甦ったと言っても、全てを思い出したわけではない。というよりも、生まれ故郷に関してはほとんど何も思い出していないに等しかった。崩れ落ちる時計塔の瓦礫から自分を庇って命を落とした母親の記憶だけがあるだけだ。実際に故郷に帰ることができたのなら、もっと色々なことを思い出せるかもしれない。
「そっか……ちゃんと考えてるのね」
ミリィはフィゼルが少なくとも破滅に向かっているわけではないと分かって、一応は安心した。と同時に、心に浮かんだ思いがある。
「ミリィは? ミリィは何かやりたいこととか無いの?」
一通り自分の想いを語ったところで、フィゼルは再び同じ質問をミリィに返した。その答え次第では――
「私は……分からないわ。そんなこと、考えてこなかったから……」
母親の仇を討つためだけに生きてきて、そのために魔族と契約もした。たとえ首尾よく仇討ちが叶ったとしても、その後の人生など望むべくもないことだと覚悟していたのだ。
「だから……ね。もし……フィゼルが迷惑じゃなかったら――」
「じゃあさ、ミリィも一緒に来ない?」
「えっ……!?」
思ってもみなかったフィゼルの言葉に、ミリィは眼を見開いた。いや、もしかしたらどこかでそう言ってくれるのを期待していたのかもしれない。フィゼルの立場を思えば、過去の忌まわしい記憶と直接結びつく自分と共にいるのは苦痛になるのではないかという遠慮があったのだ。
「あっ、いや……その……ミリィが何かやりたいことが見つかるまででいいんだ。迷惑……かな?」
自分でも驚くほど大胆な事を言ってしまったと、フィゼルはこれ以上ないくらい赤面した。ミリィの顔を直接見ていないからこその、勢い任せの言葉だった。しかしその勢いも長くは続かず、ミリィの戸惑ったような声に思わず挫けそうになる。
「ううん、迷惑なんかじゃ――」
「……ミリィ? ――っ!」
ミリィの声が不意に途切れたことを不審に思ったフィゼルが声を掛けようとした瞬間、地面に突いていた右手に何か温かいものが触れた。
「ミ、ミリィ……」
フィゼルの手に触れたのはミリィの手だった。樹の裏側から左手だけ後ろに伸ばし、フィゼルの右手を包むようにその上に置いたのだ。
「…………」
そのままミリィは何も言わず、フィゼルもそれ以上は言葉を発しなかった。しかしそれはもう先程までの重苦しい沈黙ではない。満天の星空を見上げたまま、フィゼルはこの数日自分を苦しめていたものが幾分か軽くなったような気がした。
≪続く≫
少年少女のちょっと甘酸っぱい一幕でした^^
この二人の関係が進展するかどうかはまだ未定です。
次回は9/24(土)19:00更新予定です。