第86話
魔女の一族に代々伝えられてきた秘術は二つある。一つはミリィも使用した、魔族を召喚して契約を交わす“黒魔術”。そしてもう一つは、自らの魂を別の何かに移し替える“移魂術”だ。
反魂術や転生術とも呼ばれるが、実際には死者を蘇らせる事が出来るわけでも、永遠の命を得られるわけでもない。死の寸前にある魔女が、己の魂の一部を自分の武具等に封入し、強力な魔具を作り出すというのが実態であった。それによって極稀に意思を持つ魔具が生まれることがあるが、大抵は魔力の塊が宿るに過ぎない。
この秘術が外部に漏れ、かつては“ゾンビ”等の仮初の魂を埋め込まれた死体が生み出された事もあったが、今ではもう完全に忘れ去られたはずの魔術であった。
二年前のあの日、フィゼルに心臓を貫かれて絶命する寸前、リオナ・フォルナードはその移魂術によって自らの魂の一部をフィゼルの身体の奥深くに潜ませた。
深く、深く――フィゼルの“中”を覗き見たロザリーや、魔界の大公メフィストフェレスにすらその存在を気付かれることのないほど奥深くで、リオナの魂はずっとフィゼルと共にあったのだ。
その目的は言うまでもなく、この時この場所でミリィの精神を覚醒させるため。
しかし問題もあった。それだけ深くに魂を沈め込んだために、簡単には表に出て来られなかったのである。
フィゼルがこの精神世界でミリィの元に辿り着き、ミリィの主精神を一瞬でも闇から引き戻す事が出来たからこそ、メフィストフェレスも“最後の手段”をとったのだろう。そしてそれこそが、リオナの魂が具現化する条件でもあった。
メフィストフェレスによって強制的に再現されたミリィの記憶の中の姿を“依代”にすることで、リオナの魂はフィゼルの中から出て具現化することが出来たのである。当然、ミリィが傍にいることなどもその条件に含まれていた。
「今まで……辛い思いをさせてごめんなさい。でも、こうするしか――」
「分かんないっ! 全然意味が分かんないよっ! なんで……なんで……っ!」
リオナが全て話し終えても、ミリィには何一つ理解出来る事はなかった。それもそのはず、そもそも何故そんなことをしたのかという根本的な理由が説明されていなかったからだ。
メフィストフェレスの姦計に嵌って自我を失ってしまったミリィを助けるために、フィゼルの中に己の魂を潜ませていたのだというが、ミリィがメフィストフェレスと契約を結んだのはリオナの復讐が目的だったのだ。そこに大きな矛盾が生じている。
「ミリィ……」
涙を流しながら大きく髪を振り乱すミリィの姿に、フィゼルは掛けてやる言葉が見つからなかった。リオナの言葉によって過去の苦しみから解放されたような思いと、そんなことを考える自分を不謹慎だと恥じる思いとが入り交じり、どうしていいのか分からずに複雑な表情を浮かべている。
「ミリィ……泣かないで」
泣きじゃくるミリィの身体を、リオナがそっと抱き寄せる。何度も何度も頭を撫でながら、優しく囁く声は僅かに震えていた。
「今はまだ言えないの。でも、すぐに分かるわ」
そう言って、リオナがミリィの身体を離す。そして浮かべた寂しげな笑顔に、ミリィは直感的に悟ってしまった。
「いっ、いや……っ! 行かないで!」
もう一度しがみ付こうとミリィが手を伸ばす。しかしリオナはその手を掴むと、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
「……最後に、私の力をあなたに託すわ」
包み込んだ両手の中から青白い光が溢れ出す。その光がリオナの姿をより一層神秘的に、そして儚げに染め上げた。
「いや……っ! こんなのいらないっ! お願い、独りにしないで!」
ミリィの手の中に吸い込まれるように、青白い光がどんどん小さくなる。身体の中に流れ込んでくる心地よい力と反比例して、ミリィの心は哀しみで満たされていった。
「独りなんかじゃないわ。あなたには素敵な仲間が沢山いるじゃない」
大きく頭を振るミリィを諭すように、リオナは優しく、ゆっくりと言った。
「いや! 私はお母さんと一緒にいたいっ!」
どんなに願っても叶わない事なのだが、今のミリィはそれを聞き分ける分別も体面もかなぐり捨て、堰を切って溢れる想いを垂れ流しにしていた。そんなミリィの姿を初めて見たフィゼルも一層胸が熱くなり、涙を流しそうになる。
「あら、私だってずっと一緒よ?」
「え……?」
嗚咽交じりに訴えるミリィとは対照的に、リオナの声は明るかった。そして発せられた言葉にミリィが一瞬キョトンとした顔でリオナを見る。
「あなたに渡したのは私の魂の一部。これからはいつだって、どこにいたって私はあなたと一緒にいるわ」
そう言って微笑んだリオナは、自分の両手で包み込んだミリィの両手をミリィの胸に当てた。
「ほら、感じるでしょう?」
リオナに促されて、ミリィが意識を沈めるように眼を瞑ると、そこに何とも言い表せない暖かいものを感じた。
「うん……感じる。感じるよ……お母さん」
自分の中に母親の存在を確かに感じたミリィは、しばらくその暖かさに浸るように胸に手を当てたまま眼を閉じていた。
「……じゃあ、私はそろそろ行くわね」
ミリィが落ち着いたのを確認して、リオナが別れを告げる。しかし、やはりその言葉にミリィは過剰に反応し、再び泣き出しそうな表情になった。
「ミリィ……」
眼に涙を浮かべるミリィを、リオナがもう一度抱きしめる。
「笑って。私、あなたの笑顔が見たいわ」
そう耳元で囁いてから、リオナはミリィの身体を離した。三度目は無い。これが本当の本当に最後なのだと、ミリィもついに覚悟を決めた。
そして浮かべたミリィの笑顔は、眼からは大粒の涙を零し、どこかぎこちなく引きつったような表情ではあったが、今まで見たどの顔よりもフィゼルの心を打った。
「うん、いい顔よ。それなら男の子はみんなゾッコンね」
そう言って、リオナがフィゼルの方を振り向きウインクをしてみせる。それを見たフィゼルは、これ以上ないくらい真っ赤に染め上げた顔を慌てて隠すように俯いた。
「フフ、それじゃあね。愛してるわ、ミリィ」
絵に描いたように典型的なフィゼルの反応に満足げな笑みを浮かべて、リオナが再びミリィに顔を戻す。そして額にそっとキスをすると、今まで一番優しく穏やかな笑顔を見せた。
「うん……私も……っ……大好きだよ……お母さん……っ!」
そして少しずつ身体が透けていくリオナに、ミリィも涙を堪えながら精一杯の笑顔を返した。泣いても喚いても避けられない別れなら、せめて最後は笑って見送るために――
「……目が覚めましたか?」
気が付くと、フィゼルは元の世界に戻っていた。ベッドに仰向けに寝かされており、目の前には穏やかな表情で自分を覗き込んでいるアレンの顔がある。
「あれ、先生……? 俺……」
まだ頭がはっきりしないのか、フィゼルはぼんやりとしたままだった。
「よく頑張りましたね、フィゼル」
まるで幼い子供にそうするように、アレンがフィゼルの頭を撫でる。その眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「そうか……俺、ミリィを――」
だんだんと記憶がはっきりしてきたフィゼルが、突然上体を起こす。いきなりのことだったので、危うくアレンは顔面に思い切り頭突きを喰らうところだった。
「ミリィ……! ミリィは!?」
ミリィが寝かされていたはずの隣のベッドにミリィの姿はなく、代わりにロザリーが小さな寝息を立てていた。よほど疲れたのか、普段からは想像出来ないほど穏やかで無防備な姿を晒している。
「ミリィさんでしたら、フィゼルより少し早く目覚めて、ついさっき出て行きましたよ。多分テラスの方へ向かったと思いますが」
目覚めたばかりのフィゼルの体調を気遣いながら、アレンが応えた。
「でも今はそっとしておいてあげた方が……」
アレンの言葉を聞いてすぐにベッドから飛び降りたフィゼルを、アレンが慌てて制止する。
ほんの数分前、先に目覚めたミリィは、アレン達に対して説明もそこそこに部屋を出て行った。アレンもミリィの身を心配したのだが、今は一人にしてやった方がいいと判断してそのまま止めなかったのだ。
「ごめん、先生。でも俺……行かないと」
アレンの言うことも十分理解出来る。理解出来るが、どうしてもフィゼルには着けておかなければならないケジメがあった。
「…………」
フィゼルの部屋から廊下を真っ直ぐに進んだ突き当りのテラスにミリィはいた。様々な思いが頭をぐるぐると駆け巡る中、これから昇ろうとしている太陽が赤く染め上げた東の空をじっと見つめている。
「ミリィ!」
そこへ息を弾ませながらフィゼルがやって来た。距離にしてみればほんの僅かなのに、ここまで走ってきたフィゼルは不自然なほど呼吸が荒い。
「…………」
フィゼルに呼びかけられても、ミリィは振り返りもしない。その態度にミリィの複雑な心中を察しつつも、フィゼルはゆっくりと近づいた。
「あ、あの……ミリィ……」
言いたい事、言わなければならない事が沢山あるのに、どうしても喉につかえて出てこない。そのまま沈黙の時がしばらく続いた。
「ミ、ミリィ! その……ごめ――」
「ねぇフィゼル。昨日の朝の約束、覚えてる?」
永遠とも思えるような沈黙の後、ようやく口を開いたフィゼルの言葉を遮ってミリィが問いかける。視線はずっと前方の空に向けたまま振り返らず、その声には凛とした鋭さがあった。
「え……?」
出鼻を挫かれた格好になったフィゼルが、キョトンとした顔でミリィに問い返す。昨日と言われても、あまりにも色んなことがあり過ぎてミリィの言いたい事がすぐには分からなかった。
「『俺はもう謝らない。だからミリィも謝るのナシ』って言ったわよね?」
二人がフレイノールに到着したその日――フィゼルはワイズマンの一人、シフォン・アウスレーゼによって満身創痍の大怪我を負わされた。そこに駆け付けたアレンやケニスの治癒魔法によって一命を取り留めたが、その翌日、ミリィは自分のせいでフィゼルが危険な目に遭ってしまったと自らを責め続けた。そんなミリィの気休めになればと思って、咄嗟に口をついて出てしまったのがその約束だ。
「だから私は謝らないわ。フィゼルも約束は守るんでしょ?」
「そ、そんな……」
あの時はこんな事になるなんて思ってもみなかった。自分の過去について、口で謝って済むなどとは思っていなかったが、詫びることすら許されないのはフィゼルにとってこれ以上ない苦しみだった。
「お母さんが何を考えてたのかは分からない……。あなたを怨むなとも言ったわ」
今にも泣き出しそうな情けない声を出すフィゼルに、ミリィは感情を押し殺したような淡々とした口調で続けた。
「ミリィ……」
フィゼルは唇を噛みしめ、拳をぎゅっと握りしめた。向こうを向いたままのミリィの表情は分からなかったが、それが晴れ晴れとしているわけがないことぐらいは分かる。
「でも……そんなこと言われたって、簡単には割り切れないの……っ」
手摺に置いたミリィの手に力が入る。フィゼルも沈痛な面持ちになった。
「……分かるよ、ミリィ……」
フィゼルにもミリィの気持ちは痛いほどよく分かる。もしこれが自分だったらどうだろうかと考えたら、やはり簡単に割り切れはしないだろう。目の前で母親が命を落とすというのは、形は違えどフィゼルの記憶にも刻み込まれている。
「ミリィの……ミリィの気の済むようにしてくれっ!」
このままでミリィの気持ちが収まるはずがない。かといってフィゼルには何をどうしてやればいいのか見当もつかなかった。だから、ミリィの望むようにしてやろうと思った。
「……本当にいいのね?」
フィゼルの決意のこもった叫びに、ようやくミリィが振り返る。やはりその表情は硬く、無理に感情を抑え込んでいるようだ。
「覚悟は……出来ている」
もし万が一ミリィが今でもフィゼルを殺したいと思うなら、それも仕方ないと思った。アレンは絶対許さないだろうが、フィゼルはそれだけのことをしたのだから――
「……分かったわ。眼を閉じて」
フィゼルの言葉に応じ、ミリィがテラスの手摺から離れてフィゼルのすぐ前まで接近する。フィゼルは言われた通り固く眼を瞑り、身体を強張らせた。
――バチンッ!
次の瞬間、東から徐々に白んでゆく空に乾いた音が響き渡る。ミリィの平手が思い切りフィゼルの頬を弾いたのだ。
「……これで、復讐は終わり」
顔を横に弾かれたフィゼルが歯を食いしばり、次の衝撃に身構える。しかしその次はなく、ミリィはそれでもう終わらせてしまった。
「そんな……っ! こんなんじゃ――」
痛くない……ということはなかったが、ミリィの苦しみと比べればあまりにも軽い罰だった。しかしそれを訴えようと瞑っていた眼を開いたフィゼルの顔に、今度は柔らかいものが当たる。
「――っ!?」
口と頬のちょうど真ん中辺りに触れたものがミリィの唇だったことを理解するまで、数秒の時を要した。それだけミリィの行動は予想外で唐突だったのだ。
「あ、もう! いきなり動かないでよ……」
ミリィが抗議の言葉と共にフィゼルから顔を離す。どうやらフィゼルが突然動いたせいで、キスする場所がずれたようだ。頬にするつもりが唇の近くになってしまったのか、元々唇にするつもりだったのかは分からないが、フィゼルにはそんなことを考える余裕もなかった。
「これは……助けてくれたお礼よ」
思考が停止し完全に固まってしまったフィゼルに、ミリィが顔を背けながら呟く。そしてそのまま踵を返して走り去っていくミリィの頬は、ほんの少しだけ赤かった。
「…………」
東の山間から昇っていく太陽が、辺りを明るく照らしていく。深く暗い夜の終わりを告げる朝日に照らされながら、フィゼルは今までの人生で一番の衝撃に動くことすら出来ず、そのまましばらく呆然と立ち尽くしていた――
≪続く≫
フィゼルが夢で自分自身に刺される夢を見たり、ミリィの子供の頃の記憶があったりしたのは、リオナの魂がフィゼルの中にあった影響だったのです。
長々と張った伏線をようやく回収できました(笑)
次回は9/10(土)19:00更新予定です。