第84話
「ミリィ……ミリィ……」
全てが色を失った世界を、フィゼルは虚ろな瞳で歩いていた。すでに足取りは覚束なく、今にも躓いてしまいそうなほどふらふらになりながら、うわ言のようにミリィの名を呼ぶ。
自分に向けられる人々の顔には全く表情がなく、せいぜい男か女かを判別出来るほどしか個性はない。それはミリィが周りに対して完全に心を閉ざしていることを表していた。全くの無機質、全くの無感動。その中で燃えるような復讐心だけが、この世界を黒く覆い尽くしている。
(苦しい……心が張り裂けそうだ……)
ついにフィゼルは足を取られて転んでしまった。うつ伏せに倒れたまま、苦しみから逃れるように眼を閉じる。想像を遥かに超えたミリィの絶望の世界に、絶対に助けるとあれほど強く誓った心さえ、脆くも崩れ去ろうとしていた。
(やっぱり……俺には無理だったのかな……ミリィをこんな風にしてしまったのは俺なんだ……)
絶望に打ちひしがれた心に、諦めの影が迫る。その時、ふとロザリーの最後の言葉が蘇った。
――心挫かれ、力尽きて倒れることもあるやもしれぬ
――その時、あと一歩だけ進め
(あと……一歩だけ……!)
もうこれ以上動きたくないと叫ぶボロボロの心を無理やり抑え込んで、フィゼルは立ち上がった。そしてその言葉通り、たった一歩だけ足を進めて再びその場に膝を突く。
今度は地面に手をつき、四つん這いの体勢になってなんとか倒れはしなかったものの、本当にもうこれ以上はただの一歩も動けそうにない。ぎりぎりのところでフィゼルを支えていた「諦めたくない」という気持ちも、ぶるぶると震える両腕と共に今にも崩れ落ちようとしていた。
「――っ!?」
その時、フィゼルは眼の端に微かな“色”を捉えた。弾かれたように顔を上げると、眼前に広がる灰色の景色がほんの僅かながら色付いている。
(ここは……グランドール?)
色鮮やかというにはあまりにも淡くくすんだ色彩で彩られていたのは、三大都市の一つ、グランドールの街並みだった。そしてその視界の先には、古ぼけたギルドの看板が見える。
「あ、ジュリア……?」
ギルドの戸を開けると、カウンター越しから女の子が笑顔で迎えてくれた。他の人間は恐ろしいほど無表情なのに、この女の子だけは笑顔が溢れている。
グランドールのスイーパーズギルドを一人で切り盛りしている女の子、ジュリア・ジェノワースが笑う度、まるで脈打つように一瞬だけミリィの記憶が明るく色付く。それはすぐに暗いものへと変わってしまうが、先程までよりは少し暖かくなったように感じた。
(そっか……ジュリアと出会って、ミリィも少しは変わったんだ)
ミリィに連れられて初めてグランドールのギルドを訪れた時、フィゼルは二人が仲のいい姉妹のように見えた。ジュリアの無邪気な笑顔が、固く閉ざしたミリィの心をほんの少し融かしていたのだ。
灰色の世界が僅かに明るくなったことで、再びフィゼルは前に進む勇気が沸いた。まだまだ世界は荒んでいて、胸を締め付ける痛みも和らぎはしなかったが、それでも重い足を引き摺って進む。
そうしているうちに、今度は徐々に、だがはっきりと世界が明るくなってきたのを感じた。子供の頃のような眩しいまでの鮮やかさはなかったが、見ているだけで精神を蝕まれていくような禍々しさはなくなっている。
(あれって……俺?)
ミリィの心の変化に戸惑いながら、フィゼルが見たのは自分自身の姿だった。もう随分と昔のように感じたが、ミリィと出会ったのはついこの間のことだったのだ。
(俺……あんな馬鹿面してたっけ……?)
思わず赤面しまうほど、ミリィの記憶の中のフィゼルは落ち着きがなく、よく笑い、よく怒り、とんちんかんな言動で周囲に呆れられていた。ミリィ自身の顔は分からないが、きっと同じように呆れていたのだろう。
だが、そんなフィゼル達と共に過ごした記憶が、ミリィの精神世界に色を足していく。ジュリア、フィゼル、アレン、そしてルー。フィゼルも知っている面々が記憶の中に現れる度、ミリィの心は暖かくなっていった。
(俺……信じてもいいかな? ちょっとくらい、自惚れたっていいよな?)
固く閉ざしたミリィの心を和らげている原因の一つが自分であることに、フィゼルは大いに勇気付けられた。ミリィの心の中に、確かに自分がいる。その思いがフィゼルを強く支えた。
(待ってて、ミリィ! 絶対俺が助け出してやる!)
もう迷いはない。フィゼルは強く前を見据え、一気に走り抜けた。
「ハァ、ハァ……行き止まり……?」
しばらく走ると、フィゼルの行く手を阻むように怪しく蠢く巨大な“壁”が現れた。周りはすでにミリィの記憶は映しておらず、再び夜空のような空間に変わっている。
(この向こうにミリィがいる!)
ここがミリィの精神世界の最奥だと確信したフィゼルは、ほとんど無意識に“疾風の御剣”を抜き、意識を高めた。するとそれに応えるように刀身が淡く光りだし、やがて完全に光に包まれた。
「うおおお!」
気合と共に、フィゼルが“宝剣”を振り抜く。一筋の光の軌跡を描いて、それは目の前の壁を布切れのように引き裂いた。
「ミリィ!」
開かれた壁の裂け目に、フィゼルは迷わず飛び込んだ。
「ほう、よくここまで来たものだ」
壁を通り抜けたフィゼルに、男の声が投げかけられる。そこには頭の大きな角を除けば普通の人間とほとんど変わらない姿をした魔族がいた。リッチーのような姿を想像していたフィゼルは、一瞬戸惑いながらも即座に身構えた。
「お前がメフィストフェレスだな! ミリィはどこだっ!?」
今にも飛び掛りたい衝動を必死に抑えながら、フィゼルは辺りを見回してミリィの姿を探した。
「フ、どこを見ている? ここにいるではないか」
嘲るように鼻で笑い、メフィストフェレスは顎を軽く動かして自分のすぐ後ろの壁にフィゼルの視線を促した。
「――っ!」
先程フィゼルが斬り開いた壁と同じように蠢く壁の中に、ミリィの姿があった。身体のほとんどを壁の中に埋もれさせ、僅かに胸から上だけが見える。虚ろな眼を薄く開け、意識がないことを表すようにうな垂れていた。
「ミリィっ!」
その姿に、思わずフィゼルはメフィストフェレスの存在も忘れて壁に駆け寄ろうとした。しかし――
「うわぁっ!」
突然、フィゼルの身体が見えない何かに弾き飛ばされる。二、三度転がり、うつ伏せの状態で顔だけを上げると、そこにはミリィの顔を愛しそうに撫でるメフィストフェレスの姿があった。
「無粋な真似はよせ。この娘はもう私のものだ」
放っておけばそのままキスでもするのではないかと思うほど顔を接近させたメフィストフェレスに、フィゼルの怒りは頂点に達した。
「ミリィから離れろぉ!」
すぐさま飛び起き、感情に任せてメフィストフェレスに突進する。
「愚かなことよ」
もはや嘲りを通り越して、メフィストフェレスは哀れむように溜息をついた。するとフィゼルがまたもや弾き飛ばされる。今度は宙高く跳ね上げられ、受身も取れないまま背中から落下した。
「ぐぅ……っ!」
全身を駆け抜ける痛みに、しばらくフィゼルは悶絶した。
呪文を唱えるでもなく、気合を入れるでもなく、指を弾くようなポーズすらない。“ただ立っているだけ”――ただそれだけで、フィゼルはメフィストフェレスに近づくことさえ出来なかった。
「諦めろ。これが現実だ」
圧倒的なまでの力の差。どんなに心を強く持っても、絶対に敵わないと思い知らされる。それでもフィゼルは諦めなかった。
「ミリィ……聞こえるだろ!? 眼を覚ましてくれ!」
蠢く壁に囚われているミリィは、虚ろな眼を薄く開けたままうな垂れていた。そのミリィに、フィゼルが必死で呼びかける。
「それも無駄だ。貴様がいくら吼えようと、この娘には届きはしない」
その言葉を証明するように、フィゼルの必死の叫びにもミリィは何の反応も見せない。それでもフィゼルは何度でも呼びかけ続けた。
「ミリィ! 頼むよ、起きてくれ……っ!」
呼びかけ続けながら、ミリィに近づこうとしては弾かれる。そんなことを何度も繰り返し、とうとうフィゼルは立ち上がれなくなった。
「フ、滑稽な事だな。この娘を追い込んだのは貴様自身だというのに」
うつ伏せに倒れたまま動かなくなったフィゼルに、メフィストフェレスが近づいた。爪先でフィゼルの顎を持ち上げ、その苦痛に満ちた顔に笑みを浮かべる。
「この娘を助ければ自分の罪が許されるとでも思ったか? 仮に私の手から解放したとしても、一生恨まれるだけなのだぞ?」
苦痛に歪みながらもまだ諦めを宿してはいないフィゼルの顔を見下ろしながら、メフィストフェレスが心を砕きにかかった。
「そんなものはただの逃避でしかない。一生苦しみ続けることが分かっていながら、自分はこの娘を助けたのだと自己満足に浸るだけのな」
元来、人の心の弱さに付込む事を得意とする魔族の言葉は、急速にフィゼルの心を侵略しようとする。しかしフィゼルの心はそれを強固に跳ね除けた。
「そうだ……こんなのは俺の自己満足だ。でも、それでも俺は……ミリィを助ける!」
悲鳴を上げるボロボロの身体で、フィゼルは剣を杖にして立ち上がった。そして目の前のメフィストフェレスに向けてその剣を振り上げる。
「無駄だというのが――」
自分から見ればひどく緩慢に思えるフィゼルの動きに、メフィストフェレスは再び溜息をついた。しかし次の瞬間、何か違和感を覚え、避ける必要もないはずのフィゼルの剣を大きく躱して後ろに跳んだ。
(何だ、この妙な感覚は……?)
その正体を探るように、メフィストフェレスが辺りを見回す。そして、はっと後ろを振り返った。
「フィ……ゼル……」
意識がないはずのミリィが、微かに口を動かしてフィゼルの名を呼んでいた。未だ虚ろなままの瞳に光は宿らず、俯いたままであったが、確かにフィゼルの呼びかけに反応していたのだ。
「ミリィ! 俺の声が聞こえるんだな!?」
ミリィが僅かに反応を見せたことに、フィゼルの表情に希望の色が浮かんだ。ボロボロだったはずの身体に力が湧き、フィゼルはミリィに駆け寄った。
「悪いが、茶番は終わりだ」
しかしそれを阻むようにメフィストフェレスが立ちはだかった。これまでは何もしなくてもフィゼルの身体は弾き飛ばされていたのだが、今度はしっかりと拳を握り、フィゼルを殴り飛ばした。
「ぐっ……!」
現実世界なら頭が消し飛んでもおかしくない程の攻撃を受け、またもやフィゼルの身体が宙を舞う。しかしフィゼルはすぐに立ち上がり、再びミリィに駆け寄ろうとした。
「ちっ、娘の精神が僅かに目覚めたか」
天と地ほど隔たっていた力の差が明らかに縮まっていることに、メフィストフェレスは内心驚いていた。ミリィの精神がフィゼルの呼びかけに応えたことも意外なら、この精神世界がフィゼルに力を与えていることも意外だったのだ。
「まぁいい。所詮、悪足掻きに過ぎぬ」
とはいえ、メフィストフェレスに別段焦りはなかった。近づいてきたとはいっても、まだまだフィゼルとの間には歴然とした力の差がある。ミリィの精神が覚醒し始めたというなら、もう一度闇に沈めてしまえばいいだけの話だった。
「うっ、うわ……っ!」
メフィストフェレスが軽く腕を払うと、ミリィを捕らえている壁と同じような質感の触手が無数に足下から発生し、フィゼルの四肢はあっという間に絡め取られてしまった。
「貴様があんまり騒ぐから、眠り姫の安寧が破られてしまいそうだよ」
フィゼルの身体が完全に触手に囚われたのを確認して、メフィストフェレスはもう一度ミリィの頬を撫でた。
「くそっ、何が安寧だっ! ミリィ、起きろ! 起きてくれぇ!」
手足を拘束され、宙に持ち上げられ、それでもフィゼルは身をよじりながら叫んだ。その度に触手が強く締め付けてくるが、そんなものは無視して叫び続けた。
「フィゼル……?」
不意に、ミリィが今までとは明らかに違った反応を見せた。うな垂れていた顔をゆっくりと持ち上げ、まだ完全には焦点の定まっていない瞳をフィゼルに向ける。
「ミリィ、聞こえてるだろ! 助けに来たぞっ!」
ミリィが顔を上げたことで、フィゼルも俄然力が湧いてきた。身体を締め付ける触手を強引に引っ張って脱出しようとする。
「フィゼル……どうして……?」
徐々に光を取り戻していくミリィの瞳が、今度こそフィゼルの姿を捉えた。大きく見開いた眼に、溢れるほどの涙が浮かぶ。
「俺、まだミリィに何にも言ってない! 伝えたい事が一杯あるんだ! こんな形で消えてしまうなんて絶対に嫌だっ!」
必死でもがきながら、触手から抜け出してはまた捕まり、フィゼルはミリィに向かって懸命に手を伸ばした。
「フィゼル……っ!」
その手に応えるように、ミリィもまた手を伸ばそうとした。しかし自分の身体は生き物のように蠢く壁に囚われていて、どんなにもがいても腕一本動かす事が出来ない。
「やれやれ……本当に茶番は終わりにしてもらいたいものだ」
溜息をつきながら、メフィストフェレスが軽く手を上げる。するとフィゼルを捕らえていた触手がより一層の力で身体を締め上げた。
「ぐ……ぅ……!」
フィゼルの顔が苦悶に歪む。
「一体何を伝えるというのだ? 『お母さんを殺してごめんなさい』とでも言うつもりか?」
ミリィの母親を殺したのはフィゼル自身だと改めて思い知らせるように、メフィストフェレスは厭味を込めた言葉をフィゼルに投げる。
「お前はどうなのだ? 奴はお前の大事な大事な家族を殺した男だぞ。なんなら、今ここで復讐を果たすか?」
メフィストフェレスの甘い囁きに、ミリィの瞳が再び光を失っていく。どんなに抗おうとしても、その言葉はミリィの心を黒く塗り潰していった。
「そうだ、思い出せ。お前の母親は誰に殺された?」
まるで激しい睡魔に襲われるように、ミリィの瞼がゆっくりと閉じられていく。そして周囲には先程フィゼルを苦しめた“あの場面”が映し出された。
「くっ……やめろ!」
向かい合う自分とリオナの姿を見ながら、フィゼルの心も苦痛に支配された。
これがどれだけミリィを傷付けているのか、フィゼルはもう嫌というほど思い知らされている。このまま続ければ、今度こそ本当にミリィの心が壊れてしまうと思った。
「フフフ、何度だって見せてやるさ。お前達の心が完全に闇に沈むまでな」
メフィストフェレスが笑みを浮かべ、それに合わせるように記憶の中のフィゼルが動き出す。消し去ることの出来ない過去が、今二人を確実に闇へと誘おうとしていた。
≪続く≫
ついにミリィのいる場所まで辿り着いたフィゼル。
そこに待ち受ける残酷な現実。
果たして二人の運命は――
って、いい加減引きの文句がワンパターンですね……^^;
次回は9/6(火)19:00更新予定です。