第82話
ロザリーの言う“門”とは、人間の“精神世界”に入り込むための入り口である。メフィストフェレスに侵蝕されたミリィの精神に直接潜り込めば、ミリィの身体を傷付けることなくメフィストフェレスに攻撃することが可能なのだ。
「“門”を開く……」
険しい表情のまま、アレンがロザリーの言葉を繰り返す。「その手があったか」とは思わなかった。
ミリィを救う手を必死に模索していたアレンの脳裏には、すでにその方法は浮かんでいたのだ。思い付いていながら、しかしすぐにその可能性を否定したのには理由がある。
「しかしそれには“暁の長”と“黄昏の長”、それに“翼の長”の力がなければ……」
アレンはロザリーの考えを測りかねていた。“門”を開くのは十賢者にのみ可能な、秘術中の秘術だということぐらい、ロザリーも十分承知しているはずだと思ったからである。
「それなら心配はいらぬ。十賢者の力は全て我の中にある」
アレンの戸惑いながらの言葉に、ロザリーが僅かに微笑む。そして両手を広げて胸の高さまで掲げると、右手と左手にそれぞれ光と闇の魔力を集めて見せた。
「そんな……! 十賢者が貴方に力を託していたというのですか!?」
信じられないと思いながら、しかしアレンはロザリーから“宝剣”を渡されたことを思い出した。二十年前に役目を終え、砕け散ったはずの“宝剣”をロザリーはまた一つに纏め上げたのだ。それも本来なら十賢者――“剣の長”にしか出来ないはずだった。ロザリーの言うように、本当にロザリーの中に十賢者の力が流れているのなら、それにも説明がつく。
「十賢者は最後に己の力の一部を残した。再び世界に危機が訪れることを予見していたのやもしれぬ」
二十年前、滅亡の危機に瀕した世界を救うために十賢者は自らの命を犠牲にした。しかし再び十賢者の力が必要になった時に備え、ロザリーにそれぞれの力を託したのだという。
「そう……だったのですか。十賢者はそんな事まで……」
かつての師達の深謀遠慮に感嘆しながらも、アレンの胸中は複雑だった。しかし、これでミリィを救う可能性が出てきたことは間違いなく僥倖だ。
「これでミリィが助けられるんだね!?」
アレンとロザリーの会話の内容はさっぱり分からなかったが、フィゼルはその中に確かな希望を感じ取った。絶望に打ちひしがれていた顔がほんの少しだけ明るくなる。
「それはそなた次第だ、フィゼル」
アレンならきっとミリィを救ってくれるだろうと期待したフィゼルに、思いがけない言葉が掛けられた。一瞬何のことか分からなくて、きょとんとした顔でロザリーを見る。
「そなたがミリィの精神世界に入り込んで、メフィストフェレスを討つのだ」
強い眼差しでフィゼルを見たロザリーの言葉に、フィゼルが大きく眼を見開く。しかしそれ以上に驚愕し、また狼狽したのはアレンだった。
「ロザリー!? 何を言っているのですかっ!?」
その役目は当然自分のものと思っていたアレンが、思わずロザリーを問い詰めた。
「我とて一人で“門”を開くのは不可能だ。最低でもあと一人は賢者の手助けがいる」
先程アレンが言ったように、“門”を開くには十賢者のうち、“暁の長”“黄昏の長”“翼の長”の三人の力を合わせなければならない。いくら十賢者の力を託されたとはいえ、ロザリー一人では荷が勝ち過ぎた。
「しかし――」
「先生……俺、やるよ」
いくらなんでも危険過ぎると言おうとしたアレンの言葉を遮って、フィゼルが口を開いた。先程のような諦めにも似た悲壮な決意ではない。なんとしてもミリィを助け出したいという強い意志がその瞳には宿っていた。
「その意気や良し。どの道、これはそなたにしか出来ぬ事じゃ」
その覚悟に眼を細め、ロザリーはフィゼルを指差して言った。
「俺……にしか?」
「相手が魔界の大公では、たとえ“剣聖”であろうと……否、世界中の賢者が束になったとて足元にも及ばぬ」
驚くほど簡単に、ロザリーは驚愕の事実を口にした。
「そ……それじゃ、一体どうやって……」
いくらフィゼルに覚悟があろうと、そんな話を聞いてしまってはとても勝てる気がしない。一体ロザリーはどうやってミリィを救うつもりなのだろうか。
「勝つ望みがあるとすれば、それはメフィストフェレスに囚われたミリィの精神を解き放つこと。ミリィの精神世界では、ミリィ自身の精神はいわば神のような存在だ。ミリィの想い一つで、どのようにも世界は創られる」
メフィストフェレスに乗っ取られた今では、ミリィの精神は深い眠りについているようなものだという。それを覚醒させ、なおかつミリィがフィゼルの力になってくれればメフィストフェレスにも打ち勝てるというのである。
「……分かった。やってみる」
本当にミリィが自分の力になってくれるのか不安に思う気持ちの方が強かったが、自分にしかミリィを救えないというのならやるしかないとフィゼルは覚悟を決めた。
「アレン」
フィゼルの気持ちが固まったのを見て、ロザリーはアレンに視線を移した。
「分かっています」
ロザリーは何も言わなかったが、アレンは頷きながらフィゼルのすぐ前まで歩み出た。フィゼルの身を案じながらも、彼の背負った運命を共に受け入れる決意がその表情に表れている。
「え、何?」
そして差し出された右手に、フィゼルが困惑気味に首を傾げる。握られた拳を見る限り、健闘を祈る握手などではなさそうだ。
「“宝剣”を貴方に託します。これからは貴方が“剣聖”ですね」
微笑を湛えたアレンの言葉に、フィゼルは驚いて言葉を失った。続いてアレンの手の中から溢れ出した光に、思わず後ろに飛び退く。
「そ、そんな……! 俺が“剣聖”だなんて……」
思いもよらなかった展開に、思わずフィゼルの声が上擦る。“剣聖”の二つ名が持つ重みなどは想像すら出来なかったが、少なくとも自分なんかが背負っていいものではないことぐらいは分かっている。
「……仕方ないのです。今の貴方では、“宝剣”の力を借りなければ万に一つも勝ち目はありません」
たとえ“宝剣”を用いたとしてもメフィストフェレスには太刀打ちできないことは先程認めた通りだが、“宝剣”を持たなければミリィの元に辿り着く事すら不可能になってしまうのだ。
「じゃ、じゃあ今回だけ借りるよ。戻ってきたら先生に返せばいいだろ?」
“宝剣”がどんなものか知らないフィゼルは、当然といえば当然の疑問を持った。“宝剣”がないとミリィを助けられないというのなら、一時だけ借りればいいだけで、後でまたアレンに返せばいいのではないかと。
「残念ながらそれも出来ません。少なくとも貴方が“宝剣”を完全に使いこなせるようになるまでは」
フィゼルは“宝剣”をその名の通り“剣”だと思っている。しかし実際は今アレンの手の中に握られている光そのものが“宝剣”であった。実体のある剣とは違い、簡単に受け渡し出来るものではないのだ。
「さあフィゼル、手を」
これ以上は口で説明しても無意味だというように、アレンはフィゼルにも自分と同じように右手を差し出すよう促した。分からない事が多過ぎて混乱しっぱなしのフィゼルだったが、それ以外にミリィを救う道が無いのならと覚悟を決め、アレンの言葉に従って右手を差し出した。
「う、うわっ!」
アレンが握られていた右手を開くと、それまでとは比べ物にならないくらいの眩い光が溢れ出した。そしてそのままフィゼルの手を握り締めると、光が吸い込まれるようにフィゼルの手へと移っていく。
「……っ!?」
右手を包み込む光とは別に、何か暖かいものがフィゼルの心の中に流れ込んできた。その正体に気付いた時、フィゼルは言葉を失った。
それはアレンの心だった。アレンのフィゼルに対する“愛”が“宝剣”の光と一緒にフィゼルの中に注がれる。
しかし同時に苦しみもまた伝わってきた。それは真実をずっとフィゼルに隠してきたアレンの葛藤であり、後悔であった。フィゼルがこの一年、失われた記憶の影にずっと怯えていた間、アレンもまた苦しんでいたのだ。
「先生……っ!」
どこまでも深い愛情と、それ故にどこまでも深い苦しみがフィゼルの心を満たしていく。フィゼルは思わず涙を流しそうになった。しかし次の瞬間――
「わわっ! ちょっ、何だこれ!?」
光が完全にフィゼルに移ると、突然右手を包み込んでいた光が暴れ出す。自分の意思とは無関係に暴走する力の奔流に、フィゼルはどうすることも出来ずに翻弄された。
「剣を抜け、フィゼル!」
“宝剣”の力を抑えきれないフィゼルに、ロザリーの指示が飛ぶ。フィゼルは半ば反射的に腰の“疾風の御剣”を引き抜いた。
「あ……光が収まっていく」
それまで荒れ狂っていた光が途端に穏やかになり、張り裂けそうだったフィゼルの右腕から吸い込まれるように“疾風の御剣”へと収束していく。完全に光を吸い込んで仄かに輝く刀身を見ながら、フィゼルはほっと胸を撫で下ろした。
「それは“剣の長”が手ずから作り上げた魔剣。アレンも最初の頃はその剣で“宝剣”の力を制御しておった」
二十年前のアレンの姿とフィゼルをダブらせながら、ロザリーは少々意地の悪い視線をアレンに向けた。アレンもかつての自分を思い出し、気恥ずかしそうに苦笑する。
「その剣の中にあるうちは全ての力を解放させることは出来ませんが、それでも十分貴方の助けになってくれるはずです」
“疾風の御剣”は“宝剣”の強大すぎる力を扱いやすくするための、いわば初心者向けの制御装置といったところだろう。それでも、フィゼルは今まで感じたことのない凄まじい力が身体の中から溢れてくるように感じた。
「よし、もうあまり時間が無い。すぐに“門”を開くぞ」
フィゼルの身も心も準備が整ったのを受けて、ついにロザリーが詠唱を始めた。右手に“暁の長”が司る光の魔力、左手に“黄昏の長”が司る闇の魔力を結集させ、それらを練り合わせていく。
光とも闇ともつかぬ混沌とした魔力を練り上げ、ロザリーが両手をベッドに寝かせたミリィに向ける。するとミリィの胸のすぐ上に魔法陣が浮かび上がり、ゆっくりと回転を始めた。
「アレン、後を頼む」
魔法陣が安定したのを確認して、ロザリーがアレンに顔を向けた。それに対し「はい」と応えた後、アレンはフィゼルの両肩に手を置いた。
「もう、無茶をするなとは言いません。どうせ言っても聞かないでしょうしね」
やんちゃな子供に手を焼く父親のような笑みを浮かべて、アレンは最後に「絶対帰ってくるんですよ」と小さく、しかし力強く囁いた。フィゼルもそれに力強く頷き返す。
「ではフィゼル、そちらに」
ミリィの上に浮かぶ魔法陣の維持をアレンに託すと、ロザリーは隣のベッドを指差してフィゼルに寝るように促した。それに従おうとしたフィゼルの眼が、未だに腕を組んで仏頂面を張り付けたカイルの視線とぶつかる。
「あ……」
なんとなく気まずくて、フィゼルは視線を落とした。先程のカイルの言葉を恨みに思う気持ちはなかったが、心には深く影を落としている。
「……てめぇできっちりケリ付けんなら俺は文句ねぇよ。根性見せてこい」
元々これはフィゼルとミリィの問題で、カイルが口を出すことではなかった。また、フィゼルの事情を考えれば単純に責められることでもない。ただ、ミリィに背負わされた理不尽が許せなかっただけなのだ。
「……うん!」
カイルの言葉で幾分気持ちが軽くなったフィゼルが顔を上げ、再び力強く頷く。それを見たカイルはそれ以上は何も言わず、無言のまま踵を返して部屋を出て行った。
「我からも一つ、そなたに言うておく事がある」
ベッドに寝かせたフィゼルの胸の上に手をかざして、ロザリーがフィゼルに真剣な眼差しを向ける。射抜かれるような強い眼差しに、思わずフィゼルは息を呑んだ。
「これからそなたが向かう道は、深い闇の中に絶望を拾い集める道程となろう。心挫かれ、力尽きて倒れることもあるやもしれぬ」
そこでロザリーは一旦言葉を切り、決意と不安の入り混じったフィゼルの顔をじっと見つめた。そして僅かに微笑みを見せながら続ける。
「――その時、あと一歩だけ進め」
その言葉を聞いたのを最後に、フィゼルの意識が暗転した。身体から精神だけが無理やり引き剥がされ、光となってミリィの上で回転する魔法陣の中に吸い込まれていく。
「……二人は大丈夫でしょうか……」
フィゼルの精神が完全にミリィの中に入ったのを確認して、アレンは深い溜息を吐き出した。これからの二人を待ち受ける過酷な運命に、自然と心が沈む。
「信じるしかあるまい。二人の絆を、そしてそれを信じたリオナを――」
四大の一人――“辺境の魔女”リオナ・フォルナードが一体どんな未来を予見したのか、それを知る術はない。しかしリオナにはこの未来が見えていたのではないか。もしそうなら、きっと二人は大丈夫だとロザリーは思った――
≪続く≫
ロザリーの「あと一歩だけ進め」という言葉は、昔見た某作品の影響を強く受けています^^
これをパクリというのか影響を受けたと表現するのかは微妙なとこですが……^^;
次回は9/3(土)19:00更新予定です。