第81話
一話挟んで、79話の続きです。
廊下にまで轟いたフィゼルの悲鳴が、アレンの焦燥をさらに掻き立てる。一瞬、最悪の場面が頭を過ぎった。
「フィゼルっ!」
ドアを蹴破り、最悪の事態に備えて刀の柄に手を掛けた状態でアレンが室内に飛び込んだ。しかしアレンの眼に映ったのは、想定していたどれとも違う光景だった。
「う……うぅ……っ」
ベッドの上で恐怖と混乱を顕わにして震えているフィゼルのすぐ目の前で、ミリィが頭を抱えるようにして蹲っていた。大きく肩を震わせ、嗚咽にも似た苦悶の声を漏らしている。
「……出来ない……私には……!」
ミリィの傍らには短刀が転がっていた。つい先程フィゼルに向けて振り上げたはずの短刀だったが、ミリィはそれを振り下ろすことなく床に落とし、突然頭を抱えて蹲ってしまったのだ。
「ミ……ミリィ……」
未だ震える身体をなんとか引きずって、フィゼルがミリィに手を伸ばす。しかしその手をミリィは振り払った。
「なんで……フィゼルなのっ!? 殺したいほど憎いのに……! なんで……なんで……っ!?」
怯えた子犬のようなフィゼルの眼に、ミリィの涙に濡れた眼が向けられる。ようやく探し出した憎い仇なのに、その憎しみをぶつける事が出来ない苦しさがその瞳にありありと表れていた。
「ミリィ……お、俺……」
ミリィの眼差しがフィゼルの心に鋭く突き刺さる。どうしていいのか分からずに、ついにフィゼルも涙を流し始めた。その瞬間――
「うっ、ああぁ!」
突然ミリィの身体から真っ黒なガスのようなオーラが噴き出し、まるで意思を持っているかのように蠢き始めた。
「ミリィっ!」
ミリィを救出しようとフィゼルが手を伸ばすが、ミリィを包み込む闇の魔力に身体ごと弾き飛ばされてしまった。
「フィゼルっ!」
壁に激突したフィゼルがずるずると崩れ落ちる。アレンは思わず刀の柄に手を掛けた。
「待て、あれは魔力の暴走だ。下手に手を出せばお互いただでは済まぬぞ」
そこへようやく追いついたロザリーが現れ、アレンの前に立って制止した。
「しかし……! このままではミリィさんが――」
『フフ、もう遅い』
ロザリーの制止を振り切ろうとしたアレンの耳に飛び込んできたのは、ミリィ自身の声だった。
先程まで苦しそうに自分の身体を抱きしめていたミリィが、突然解放されたようにゆっくりと立ち上がる。しかしその身体に纏わりつく邪悪なオーラはそのままだった。
「貴様……何者だ?」
曇ったガラス球のような瞳に邪悪な笑みを浮かべたミリィに、ロザリーが眉を顰めながら誰何した。声色はミリィのままだったが、明らかに意識は別人に乗っ取られている。
『フフフ、我が名はメフィスト。深遠なる魔界の大公メフィストフェレスなり』
謡うようなミリィの言葉にアレンは衝撃を受けた。“先見”の力によってこの状況をある程度見通していたはずのロザリーもまた、驚愕に眼を大きく見開いている。
「馬鹿な……貴様は六大魔王に次ぐ魔界の支配者。そのような者が何ゆえミリィの身体に取り憑いておる?」
動揺を隠し切れない震えた声で、ロザリーはミリィ――いや、メフィストと名乗った魔族に問い質した。
『これは異な事を。契約を交わしたからに決まっておるではないか』
ミリィの身体を乗っ取ったメフィストが嘲るように眼を細める。
「戯言を……! 貴様ほどの高位魔族が人間の召喚に素直に応じたと言うか」
魔王にも匹敵するメフィストが人間の強制召喚に応じるなどあり得ない。間違いなくメフィストは自ら進んでミリィの召喚に乗ったのだ。
「そんな……ことは、どうでもいい……っ! ミリィを……ミリィをどうするつもりだ!?」
嘲笑うようにロザリーと正対するメフィストの後ろで、壁に叩きつけられたフィゼルがゆっくりと身体を起こした。その眼にはさっきまでの怯えはなく、心からミリィを助けようとする気持ちが顕れている。
「フィゼル……っ」
立ち上がったフィゼルにほっとしながらも、あまりにも残酷な状況に思わずアレンは言葉を詰まらせた。
『フ、この娘の身が心配か? だが、この娘を追いこんだのはお前自身なのだぞ』
興味の対象を移したメフィストが、フィゼルの心を蝕むようにゆっくりと言葉を紡ぐ。それはいとも簡単にフィゼルの瞳から力を奪っていった。
「お……俺が……?」
「フィゼルっ! 耳を貸してはいけませんっ!」
メフィストの言葉にどんどん引き込まれていくフィゼルに、アレンが声を張り上げる。しかしすでにフィゼルの耳には届かなかった。
『そうだ、この娘は母親の仇を討ちたい一心で私と契約を交わした。その仇がお前なのだ』
メフィストの言葉が音を立ててフィゼルの心に突き刺さる。それが真実であるということはフィゼル自身ももう分かっていた。
『お前を殺せば私との契約は果たされる。だがこの娘はそれを拒んだ。よってこの娘には契約破棄の報いを受けてもらわねばならぬ』
その言葉と同時に、メフィストに操られたミリィの身体から再び闇の魔力が溢れ出す。しかし今度は暴走することなく、メフィストはそれを自由自在に操った。
「貴様……最初からそのつもりだったのだな」
舞うように優雅に闇を弄ぶミリィの姿に、ロザリーはある確信を抱いた。メフィストは強大な魔力を持った魔女の末裔――ミリィの身体を狙っていたのだ。おそらく最初からこうなる事を予見して、ミリィの召喚に応じたのだろう。
『フフフ、この娘は幼いわりになかなか強い魔力を秘めている。これだけの力があれば、しばらくは私の“器”として使えよう』
ロザリーの確信を、メフィストはあっさりと肯定した。事ここに至っては、もはや隠す必要などないのだろう。
「ふざけるなっ! お前の思い通りになんかさせない!」
挫かれそうになった心を無理やり奮い立たせ、フィゼルは剣を抜いた。しかしそれを構えたフィゼルに向かって、メフィストが侮蔑にも似た笑みを向ける。
『ほう、私を斬るか? この娘を殺すというのだな?』
メフィストは両手を広げ、「さあ、やってみろ」とでも言うようにフィゼルの正面に立った。
『何とも哀しい話じゃないか。この娘はお前を殺すことが出来ずにこうなったというのに、お前は平気でこの娘に刃を向けるか』
そう言いながら、メフィストが両手を広げたままゆっくりと近づく。意識はメフィストのものでも、身体はミリィなのだ。勢いで剣を抜いたものの、フィゼルには当然ミリィの身体を傷つけるなんてことは出来なかった。
『どうした? 確かにこの娘を殺してやるのも一つの救いの道だぞ? このままでは命尽きるまで私の傀儡となって生きるのだからな』
フィゼルにそんなことが出来ないのは百も承知で、メフィストはミリィを殺せと囁く。そしてすぐ傍まで近づくと、剣を握るフィゼルの震える手にそっと自分の手を沿え、抗えない力で剣の切っ先を自分の胸に向けさせた。
『さあ、殺してみろ! “私”のお母さんを殺したみたいに!』
姿も声も、紛れもなくミリィのものだ。ミリィ自身が言っているのではないと分かっていても、その言葉はフィゼルの心を砕くには十分過ぎた。
「戯れもそこまでだ」
フィゼルの心が完全に壊れてしまう寸前、いつの間に接近していたのか、ロザリーがメフィストのすぐ後ろで呪文を唱えた。咄嗟に振り向いたメフィストの闇に包まれた手が、ロザリーの顔面を捉えようとするも紙一重で空を切る。ロザリーの肩まで伸びる美しい金色の髪が、数本はらりと舞った。
『フ、どうやらお遊びが過ぎたようだ。仕方ない。私の不意を突けた奇跡に敬意を表し、ここは退散するとしよう』
ロザリーの詠唱が完了する前に、メフィストは諦めたように溜息をついた。それとほぼ同時にメフィストの足下に魔法陣が浮かび上がり、強烈な光が辺りを白く染め上げる。その光が消えると、糸の切れた操り人形のようにミリィが床に倒れ込んだ。
「ミリィ!」
死んだように動かないミリィを抱き上げ、フィゼルが必死に呼びかける。
「あまり乱暴に扱うでない。死んではおらぬ」
ついさっきまで心を壊される寸前だったのに、フィゼルは迷わず真っ先にミリィに駆け寄ったのだ。
「確かにそなたなら……奇跡を起こせるやもしれぬ」
その姿に、強い絆を見たロザリーが小さく呟く。微かに聞こえた言葉にフィゼルが「え?」と聞き返すが、ロザリーは応えなかった。
「ロザリー、ミリィさんは……?」
ロザリーにミリィの容態を尋ねたアレンの声は沈んでいた。おそらくそれに対するロザリーの答えを予想していたのだろう。
「追い払ったんだよね? もう、ミリィは助かったんだよね!?」
ロザリーはアレンやフィゼルの問いには答えず、ミリィを魔法でふわりと浮かせると、そのままベッドの上に寝かせた。そうしていれば本当にただ安らかに眠っているようにも見えるが、アレンの表情やロザリーの沈黙が、フィゼルの不安を激しく掻き立てた。
「……追い払ったわけではない。一時的に眠らせただけに過ぎぬ。またすぐに目覚めよう。それまでに始末を付けねばならぬ」
“始末”という言葉に、フィゼルがびくっと身体を強張らせる。救いを求めるような眼をアレンに向けるが、アレンも苦渋に満ちた表情を浮かべながらも刀の柄に手を掛けていた。
「せ、先生……どうするつもり? まさか……!」
先程のメフィストの言葉が蘇る。咄嗟にフィゼルはアレンの前に立ちはだかった。
「駄目だっ! ミリィを殺すなんて出来るわけないだろ!」
「しかし……こうなってしまっては、もう……」
アレンとてそんなことはしたくなかった。しかし他にどうすることも出来ないのだ。
「……だったらお前が死んでやりゃいい」
アレンを必死に止めるフィゼルに、非情な言葉が投げかけられた。声の主はこの騒ぎを聞いて駆けつけたカイルだった。部屋の入口付近の壁に背中を預け、不機嫌そうな顔で腕を組んでいる。
「カイルさん……何を……っ!?」
信じられない言葉に、アレンがカイルを睨みつける。明らかにフィゼルはその言葉に動揺していた。
「話は大体聞かせてもらったぜ。まさかミリィが探していた親の仇ってのがお前だったとはな……」
言いながら、カイルはつかつかとフィゼルの傍まで歩み寄った。
「お、俺が……死ねば……?」
「ああそうだ。ミリィはお前を殺せなかったからこんなことになったんだろ? だったら最初の契約通り復讐を果たせばミリィは助かるんじゃないのか?」
つまりミリィ自身の手でフィゼルを殺させれば、ミリィは契約を破棄したことにはならず、メフィストに身体を乗っ取られることもないというのである。
「カイルさんっ! 何てことを言うんですかっ!」
カイルの言葉に再び肩を震わせるフィゼルを庇うように、アレンが二人の間に割って入った。
「じゃあ、どうするってんだ? 本当にミリィを殺すつもりか? もしそうなら、俺は絶対許さねぇ」
あくまでもフィゼルを庇おうとするアレンに内心舌打ちをしながら、カイルはアレンに詰め寄った。母親を殺された人間と殺した人間、どちらかを選べというのなら答えは明白なのだ。
「しかし――」
「先生……もういいよ」
なおもフィゼルを守ろうとするアレンの言葉を遮って、フィゼルがぽつりと呟いた。全てを諦めたような抑揚のない声に、アレンも思わず息を呑む。
「本当に……俺が死んでミリィが助かるなら……俺は……」
「フィゼルっ!」
あまりに哀しいフィゼルの決意に、アレンは我を忘れて怒鳴ってしまった。その両肩を掴んで俯いていた顔を上げさせると、フィゼルが大粒の涙をぼろぼろと零し始める。
「だって……俺、思い出したんだ……全部じゃないけど……確かに……俺がミリィのお母さんを殺した……」
途切れ途切れのフィゼルの告白に、アレンは心が引き裂かれるような痛みを感じた。あの時本当の事を話していれば、という後悔が胸を締め付ける。
「それだけじゃない……もっと、もっと沢山の人を殺した……はっきりと思い出せないけど……でも……その時の感覚だけは覚えてるんだ……っ!」
自分の両手を見つめながら、フィゼルはわなわなと震えた。一体どれほどの人間を斬ってきたのか、人間の肉を切り裂く感触だけが生々しく蘇る。
「フィゼル……貴方は操られていただけなんです。一年前、初めて出会った時の貴方は強い暗示によって自我を封じ込められていました。貴方が今まで犯した罪は、全て貴方の本当の意思とは無関係なんです」
断片的に蘇る罪の記憶に押し潰されそうになるフィゼルに、アレンが強い眼差しで言葉を紡ぐ。このままでは本当にフィゼルは自ら命を絶ってしまうとアレンは恐れた。
「で、でも……俺は……俺は……っ!」
仮にアレンの言う通りだとしても、犯した罪が消えるわけではない。もし自分の命でその罪が購えるのだとしたら、それでもいいとフィゼルは思ってしまっていた。
「……人一人の命で購える罪があるとすれば、それは精々同じ一人分の命ぐらいだろう」
フィゼルの悲壮な決意に、それまで沈黙を保っていたロザリーが不意に口を開いた。
「そなた一人の命では、そなたが今までに手に掛けた大勢の命とは釣り合いが取れぬ。ましてや、ミリィを救うなど出来はせぬ」
己の罪を見せつけられ、死をも覚悟したフィゼルに対してあまりにも残酷な言葉だった。命をもってしても購えないのだとしたら、一体どうやって罪を償えばいいのか。
「百人の命を奪ったというなら、同じく百人の命を救ってみせよ。それで清算されるものでもないが、今ここで死ぬよりよっぽど有意義であろうよ」
ロザリーなりに、フィゼルに「生きろ」と言っているのだ。死んでも償えない罪なら生きて償うしかないと。そしてミリィを救う手立ては他にあるとロザリーは言った。
「そなたに覚悟があるなら、少なくとも今ここで救えるやもしれぬ命が一つある」
ロザリーの言葉で、フィゼルとアレンに希望の色が浮かぶ。しかしアレンはすぐに懐疑的な表情になった。
「本当にそんなことが出来るのですか?」
アレンもずっとミリィを救う手立てを考えていた。しかしどうしても見つけられなかったのだ。だからロザリーの言葉をすぐには信じられなかった。
「無論、かなり分の悪い賭けになろう」
そこで一旦言葉を切り、ロザリーはフィゼルを見た。しかしすぐにその視線をアレンに向け、決意と共に続けて言葉を吐き出す。
「“門”を開く」
フィゼルにはその意味が全く分からなかったが、アレンはロザリーの言葉に驚愕の表情を浮かべた。
≪続く≫
やっぱりフィゼルを殺すことはできなかったミリィ。
果たして魔族に身体を乗っ取られてしまったミリィを救うことはできるのか――
次回は9/1(木)19:00更新予定です。