第63話
「あれ? 誰もいねぇのかな……」
カイルは首を傾げながら、ノックしても返事の返ってこなかったドアを開けた。
「おいおい……まさかあの傷が一晩で治ったってのか?」
身体中に深い傷を負い、夥しい量の血を流していた少年を運び込んだのは昨日のことだ。普通に考えて、たった一晩でベッドから起き上がれるはずがない。それどころか、主のいないベッドの上には外された包帯が置き去りにされている。
「――ん?」
ベッドの上の包帯を手に取ったカイルの眼の端が、窓の下に見える裏庭を捉えた。そこにはアレンとフィゼルが木刀を持って向かい合っている。
「ほお、なかなかやるじゃねえか」
窓を開け、眼下に展開される二人の手合わせにカイルは感嘆の声を上げた。勝負はアレンに軍配が上がったが、フィゼルの動きもなかなかに鋭い。
(けど……何か妙だな)
フィゼルの雰囲気に違和感を覚え、カイルが眉を顰める。
次の瞬間、再び二人が刃を交えた。先ほどと同様、フィゼルが果敢に攻め、アレンがそれを受け止めるという展開だが、カイルの眼にもアレンが徐々に押されているのが分かる。
「マジかよ……っ!」
アレンの木刀が弾き飛ばされたのを見て、カイルは驚愕に思わず身を乗り出した。カイルもアレンに勝負を挑んだことがあったので、彼の実力は十分分かっている。そのアレンが自分より遥かに若い少年に一本取られたことが信じられなかった。
(何者だ……あいつ……?)
ミリィと共にアレンを追ってフレイノールを目指している少年がいるということは聞いていたが、どうやら何か重大な秘密があるようだとカイルは直感で感じ取った。フィゼルの剣捌き、そしてその身に纏う、何とも言い難い雰囲気がそれを予感させる。
(まあ、敵ではないんだろうな)
フィゼルの様子に何か不吉なものを感じたカイルだが、一度首を振り、階下へ降りようと踵を返した。
「あっ、カイル……さん」
カイルが階段を降りると、ちょうどミリィが正面玄関から入って来たところだった。さっきの今なので、カイルと眼を合わせたミリィがどこか気まずそうに俯く。
「カイルでいいぜ。二人なら裏庭だ。ついでだから一緒に来てくれねぇか?」
正面玄関とは反対方向の裏口のドアにカイルが親指を向ける。フィゼルの意識が回復したのは知っていたが、一体裏庭で何をしているのだろうかと思いながらも、ミリィはカイルがどうやら自分達に何か用件を持って来たらしいということの方が気になった。
「フィゼル……」
自分の正体を知りたいというフィゼルの思いに、アレンは逡巡するように拳を固く握りしめた。
もうここまで来たら隠し通すことなどできない。アレンがここで真実を話さなくとも、いずれは真相に辿り着くだろう。それよりは、今ここでアレンの口から話してやった方がフィゼルのショックも少ないのではないか。
しかし、アレンが口を噤むのにはもう一つ理由があった。フィゼルの正体、自分との出会いとその目的、そしてフィゼルの言うミリィとの関係についても、何となくではあるが想像できる。しかし、その想像にどうしても得心がいかないのだ。
まだまだアレンの知らない“何か”がそこには隠されている気がする。それが何なのか分からないまま、フィゼルにアレンの知っている残酷な真実だけを告げるのは躊躇われたのだ。
「……俺の正体って、そんなに言えないこと?」
アレンの苦しみがそのまま伝わってくるようで、思わずフィゼルは眼を伏せた。こんなに思い悩まねばならないほど、自分の正体は暗いものなのだろうか。
「フィゼル……私は――」
フィゼルの正体について全てを知っているわけではない、と告白しようとして――
「ううん、いいんだ」
しかしアレンの言葉を遮って、フィゼルは顔を上げた。ふっきれた、とは言い難い、どこか諦めを孕んだような表情でアレンを見る。
「それだけ分かればいいよ。やっぱり俺って、まともじゃなかったんだ」
そこから先は悪い想像しか浮かばない。それを直接アレンの口から聞かされるのが怖かった。だからこそ、アレンは口を噤んでいるのだろう。きっと自分ではその真実に耐えられないと判断したのだ。
「フィゼル……っ!」
アレンは哀しげに笑うフィゼルを強く抱き締めた。
「あ……」
突然のことにフィゼルが小さく驚きの声を上げる。
「もう……やめませんか?」
小さく囁くようなアレンの声は震えていた。
「え……?」
思いもよらなかった言葉に、フィゼルが今度は戸惑いの声を上げる。
「もう……何もかも忘れてコニス村に帰ってはどうですか? シェラも貴方が帰ってくるのを待っています」
これ以上、苦しむフィゼルを見ていたくなかった。フィゼルの身を案じているシェラも、このままフィゼルが村に帰ればどれだけ喜ぶだろう。
「先……生……」
アレンの胸の中で、フィゼルは泣き出しそうになった。このまま感情に任せて泣いてしまえば楽になる。全てを諦めてコニス村に帰って、シェラやアレンと一緒に暮らすのもフィゼルにとっては幸せなことなのかもしれない。実際、何度もそれを考えたことがあった。その度に首を振り、前を見続けてきたが、その心ももはや折れかけている。だが――
「先生……俺、やっぱり逃げない」
溢れる涙を懸命に堪え、フィゼルがアレンの腕から離れた。ごしごしと乱暴に眼をこすり、気丈に笑って見せる。
「今はまだ怖いけど……もっと強くなってみせるから。だからその時は……」
今のフィゼルにできる精一杯の強がり。本当の事を知りたいと思う気持ちと知りたくないという気持ち、さらには真相を知るアレンの苦悩が入り混じる中、フィゼルが選んだ結論は“もう少しだけ待つ”というものだった。いつか、残酷な現実に真正面から向き合える強さを身に付けられるその日まで――
「……分かりました。その時は私も知っている事を全て話しましょう」
フィゼルの答えをある程度予想していたというように、アレンが哀しげに微笑む。フィゼルがこのまま諦めるとはアレンも思っていなかった。何故ならば、フィゼルは“運命”に選ばれてしまっているのだから。
(ロザリー……貴方の“先見”はどんな未来を映しているのですか……?)
アレンは空を見上げ、フィゼルに“疾風の御剣”を授けた賢者に心の中で問いかけた。
「ちょいとお取り込み中のところ失礼するぜ」
不意に声がかけられた。同時に二人が声のした方に顔を向けると、裏口のドアからカイルが歩み寄ってきている。その後ろにはミリィの姿もあった。
「ミリィ……? それと……」
「彼はカイルさんです。昨日、貴方をここへ運ぶのを協力してくれた方ですよ」
初めて見るカイルの顔にフィゼルが戸惑っていると、アレンが紹介してくれた。それを聞いて、フィゼルが礼を言いながら頭を下げると、カイルは笑って手を振った。
「俺は案内しただけだから気にすんな。それより、凄えじゃねぇかお前」
カイルがフィゼルの肩を叩く。何の事か分からずにキョトンとしていると、カイルは続けて言った。
「上から見てたぜ、二人の打ち合い。あんな動きができるなんて、お前何者だ?」
その言葉には別にフィゼルを疑うような意味は込められてはいなかったが、フィゼルは暗い表情で俯いてしまった。
「あ、あれ……? 俺、何か悪いこと言ったか?」
思いがけないフィゼルのリアクションに、少々戸惑った感じでカイルがアレンを見た。
「何でもありませんよ。病み上がりでいきなり激しい運動をしたから疲れたのでしょう。さ、フィゼル、もう休みましょう」
カイルの質問に答えながら、アレンはフィゼルを落ち着かせるように肩に手を置いた。そしてそのまま宿の中へ連れて行こうとするが、それをカイルの言葉が制す。
「ああ、ちょっと待った。悪いが休むなら大聖堂に移動してからにしてくれねぇか」
少々バツが悪そうにカイルが言った。カイルがここに顔を見せたのは、アレンを連れてくるように言われたからだ。
「教皇が呼んでる。もしそいつが動けるようなら、みんなで大聖堂に来てほしい、とさ」
フィゼルを指差しながら、カイルはアレンとミリィを交互に見るように言った。みんな、とはミリィも含んでいる。
「……何かあったのですか?」
突然のケニスの呼び出しに、アレンは眉を顰めながら訊いた。
「さあな。詳しい話は俺もまだ聞いてない。とにかく急いで戻ってきてほしいとのことだ」
もしフィゼルが動けない状態にあるなら、代わりにカイルが護衛に残ってでもアレンを大聖堂に帰してほしいと告げられた。それだけ逼迫した状況にあるということなのだろう。
「……分かりました、すぐに行きます。フィゼル、大丈夫ですか?」
カイルの言葉に応じながら、アレンはフィゼルを気遣った。フィゼルが顔を上げ、力強く頷くと、安心したように微笑み、次いでミリィに視線を向ける。
「ミリィさんも……いいですね?」
今度はミリィが俯いた。未だにフューレイン教の大聖堂に足を踏み入れる決心がつかないのだ。
「わ、私は……」
ここで今更アレンと別行動を取るわけにはいかない。頭では分かっていても、しかし感情がフューレイン教を拒絶する。
「本当にあいつが言った通りだな……」
カイルは大聖堂を出る前、レヴィエンからミリィはきっとここへ来ることを渋るだろうと聞かされていた。その時は理解できなかったのだが、今ミリィの暗い表情を見て、彼女なりの事情があるのだろうと察した。だからといってミリィだけ残しておくわけにもいかないので、カイルはレヴィエンから聞かされた“秘策”を披露することにした。
「そういや、ルーっていったか? あのビックリ天然娘。今、大聖堂に来てるぜ」
カイルが言うと、ミリィだけでなくフィゼルも驚きの声を上げた。
「えっ、ルーが来てるの!?」
ミリィも同じ気持ちだったが、先に口を開いたのはフィゼルだった。レティアに行くためにグランドールで分かれたはずのルーが、何故フレイノールまで来ているのだろうか。
「まあ、詳しい話は本人から聞けばいいだろ。会いたがってたぜ、お前らに」
そう言ってカイルが笑顔を見せる。これでミリィの心が動くはずだと、レヴィエンから聞かされていた。
「ミリィ、行こうよ」
フィゼルも一緒になってミリィの説得に回る。ミリィがここまでフューレイン教を拒絶する理由は分からなかったが、ミリィだってルーには会いたいと思っているはずだとフィゼルは思った。
かくして、レヴィエンの思惑通り、ミリィは大聖堂に行く決心をした。もう二度と会わないかもしれないと思っていたルーが大聖堂で二人を待っているという事実が、フィゼルの心を弾ませた。表には出さないが、それはミリィも同じようだ。
「あ~、ミリィさぁん! フィゼルさ~ん!」
大聖堂の手前の大階段を上り切ったところで、フィゼルとミリィの耳に、聞き覚えのある元気な少女の声が聞こえた。
「ルー!」
手を振りながら駆けよってくるルーに、フィゼルも手を振り返した。
「フィゼルさぁん! お久しぶりです~!」
駆け寄ってきたルーは、その勢いを弱めることなくフィゼルに飛びついた。
「うわっ! ちょ、ルー……っ! 抱きつく相手が違うよっ!」
咄嗟にルーを抱きとめたフィゼルが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「はい~。ミリィさんにも抱きつきます~」
フィゼルから離れたルーが、すかさずミリィにも抱きつく。次の動きが全く読めないルーの行動に、ミリィも困惑した表情でルーを抱きとめた。
「な……なんだか、随分とテンション高いなぁ……」
まだバクバクしている心臓を押さえながら、フィゼルが頭を掻いた。ルーは幸せそうな顔をミリィの胸に擦りつけている。
「やっ……やめて、ルー! くすぐったいから……っ!」
身をよじらせながらミリィがルーから逃れようとする。ここに来るまでずっと硬かったミリィの表情も、ルーのおかげで幾らか柔らかくなったようだ。
「フフ、本当にルーさんはフィゼルとミリィさんのことが好きなんですね」
子供のようにはしゃぐルーの姿に、アレンが嬉しそうに眼を細める。ルーの無邪気な笑顔が、フィゼルやミリィの暗い宿命を一時でも忘れさせてくれるような気がした。
「はい~。ルーはぁ、フィゼルさんもぉ、ミリィさんもぉ、大好きです~!」
ようやくミリィから離れたルーが、眼を輝かせながら言った。多分“好き”の意味が違うのだろうが、女の子にこんなにはっきり好きと言われたのは初めてで、フィゼルは後ろの大階段から転げ落ちそうになるほど狼狽えた。
「そうですか。良かったですね、フィゼル。こんな可愛いお嬢さんに好きと言ってもらえて」
アレンが楽しそうな笑顔をフィゼルに向ける。
「かっ、からかわないでよ、先生っ!」
フィゼルが顔を真っ赤にしながらアレンに抗議した。だがそれを聞いたルーが顔を曇らせる。
「フィゼルさんはぁ、ルーのこと嫌いですかぁ……?」
「あ、いや……別にそういうわけじゃ……」
困り果てた顔でフィゼルが否定すると、ルーは安心したように笑顔になった。
「ではルーさん、お二人をよろしく頼みますね」
そんな三人を微笑ましげに見ながら、アレンはカイルに目配せして歩き出した。
「あっ、先生、俺も――」
「いえ、フィゼルはミリィさんと待っていて下さい。それに、ルーさんは二人と一緒にいたいみたいですよ?」
フィゼルとミリィの腕をぎゅっと抱え込むようにして放さないルーを強引に振りほどくこともできず、仕方なく二人はアレンとカイルを見送った。
「やあ、やっと来たか」
アレンとカイルがケニスの執務室に入ると、そこにはすでにレヴィエン、アリア、ヴァンが揃っていた。
「ケニス、何かあったのですか?」
ケニスを除く三人の硬い表情を横目に見ながら、アレンが訊いた。穏やかな表情を装ってはいるが、恐らくケニスも緊張しているのだろう。
「ついさっき、この三人には話したんだが――」
そこでケニスは一旦言葉を切り、机の上に手を組んで溜息をついた。その仕草にアレンにも緊張が走る。
「王国軍が……動き出した――」
≪続く≫
次回は7/31(日)19:00更新予定です。