第52話
紛らわしいので、フィゼルの夢に出てきた大きな時計台を「時計塔」、それ以外の普通のを「時計台」と表現しております。
フレイノールの大通りを真っ直ぐ北に向かいながら、フィゼルは子供のようにはしゃいでいた。港のように大規模な導力機械は見られないものの、街灯や時計台、さらには公園の噴水に至るまでが導力で動いており、当然フィゼルには初めて見る物ばかりだ。大聖堂という目的地があるから何とか真っ直ぐ進めているものの、そうでなければあっという間にどこかへ飛んで行ってしまいそうなほど、フィゼルは落ち着きなくフラフラしていた。
「ねえ、フィゼル。ちょっと言っておくことがあるの」
そんなフィゼルをミリィが呼び止めた。フィゼルが振り返ると、ミリィは再び硬い表情でまだ遠くにうっすらとしか見えていない大聖堂をじっと見つめている。
「私……大聖堂には入れない。だから、もしアレンさんがいたら外に連れ出してほしいの」
フィゼルが「どうしたの?」と訊き返す間もなく、ミリィが続けて話し出す。それはフィゼルには理解できない内容だった。
「え……? 大聖堂に入れないって、どういうこと?」
大聖堂といっても、世界中の街にある教会と同じような物だろう。教会を立ち入り禁止にされているような人間がいるだろうかと、フィゼルは不思議に思った。
「ううん……別に禁止されているってわけじゃないけど……何ていうか……」
ミリィが言い難そうに言葉に詰まる。どう説明すれば分かってもらえるだろうかと、懸命に言葉を探した。だが本当の事を隠したままでは、どうしても巧く言い表すことができない。
「……体質、かしら。教会とか……性に合わないっていうか……」
言葉を選びに選んだ結果、出てきたのは何とも間抜けな言い訳だった。当然フィゼルも怪訝そうな、というより半ば呆れたような表情を見せる。
「そりゃ、俺だってああいう雰囲気とか好きじゃないけどさ。そんな子供みたいなワガママ言ってる場合じゃないだろ?」
フィゼルの言うことはもっともだ。それはミリィだって分かっている。だがどうしてもミリィには大聖堂に入れない理由があった。
元々フューレイン教が嫌いだというのも事実で、それはミリィの出自に関係している。だがそれ以上に、ミリィの“力”の源となっている魔族の存在が問題だった。
魔族と闇の契約を結んだミリィにとって、フューレイン教はその力の対極に位置する存在であった。
実際にフューレイン教の教会や聖堂に近付くことで何か身体に異変があったというわけではない。そもそもミリィと契約を交わしたメフィストは、魔界の中でもトップクラスの大魔族だった。そんな魔族が人間の力に影響されるということなどないのかもしれない。だがミリィは今までフューレイン教には近付かなかった。“剣聖”を探しながら、四大の賢者の中で唯一その所在が知られていたケニス・クーリッヒを訪ねなかったのも、一つはその辺りに理由がある。
「ミリィ……」
その様子から、ミリィには何か事情があるのだろうということは分かった。その事情を訊いても話してはくれないだろうということも。
「……ごめんね、フィゼル」
ミリィもフィゼルの逡巡を理解し、何も話さない自分の身勝手さを詫びた。
「……分かった。いいよ、とりあえず俺一人で行って――」
仕方なしに了承しようとして、フィゼルは言葉を失った。大通りの真ん中にそびえ立つ時計塔を見上げて、大きく眼を見開く。
「フィゼル……?」
ミリィが声を掛けてもしばらく反応が無かった。
「この時計塔……」
「え?」
「知ってる……夢に出てくる時計塔だ! でも……なんでここに……」
見上げた時計塔に、フィゼルの記憶が揺り起こされる。いつも夢に見る時計塔と同じものだった。
「これが……あなたが探していた時計塔なの?」
「いや……そんなはずは……」
夢の中で見る時計塔は雪に包まれた景色の中に建っていた。そして何より爆音と共に崩れ去っているのだ。仮に再建されていたとしても、ここはフィゼルの夢の景色とはかけ離れている。
「あ、これ見て」
ミリィが時計塔の傍らに掲示された金属製のプレートを指さした。そこにはこの時計塔の説明が印字されている。
「どうやら、昔にこれと同じものがかつてのノヴォガス帝国の友好都市に贈られたらしいわね。当時としてはまだ珍しい導力を用いた時計塔ということで、帝国の導力技術を世界に知らしめる目的もあったみたい」
フィゼルが旅に出て初めてと言っていい具体的な手掛かりだった。つまり、フィゼルの夢に出てくる街は旧帝国の友好都市のいずれかである可能性が極めて高いのだ。
「やったじゃないフィゼル!」
ミリィはまるで自分のことのように喜んだ。
「あ、ああ……!」
予期せず突然にもたらされた決定的な手掛かりに、フィゼルは喜びよりも先に戸惑いを感じていた。正直なところ、自分の記憶を取り戻すという目的はいつの間にか薄れていたのだ。今はそれよりも優先すべき事があったから。
「でも、今は先生に会う方が先決だ。全部終わったら、これを手掛かりに――」
そこで不意に何かが腰にぶつかり、フィゼルの言葉は途切れた。
「レン!」
それと同時に聞こえてきたのは幼い女の子の声だった。驚いたフィゼルが視線を落とすと、自分の腰にしがみつくように声の主が抱きついている。
「レン、久しぶり! 全然連絡くれないから心配してたのよっ!?」
フィゼルが驚きと戸惑いで口を開けずにいると、脇腹に顔を埋めるように抱きついている女の子が続けて言った。
「フィゼル……その子は?」
狼狽の色を濃くしたフィゼルに、ミリィが尋ねた。女の子の方はとても親しげだが、一方のフィゼルは真逆の表情をしている。
「“フィゼル”?」
ミリィの声に反応したのは女の子の方だった。ようやくフィゼルの腰から離れ、フィゼルの顔を見上げるように顔を上げる。そこで初めてフィゼルは女の子の顔を見た。
驚くほど整った顔の美少女だ。同じく美しい顔立ちながら、子供とは思えないほど大人びた表情を見せたロザリーとは違い、こちらの女の子はコロコロとした笑顔が愛くるしかった。小脇に抱えた兎のぬいぐるみがフリフリとしたゴスロリ調の服装とあいまって、より一層その可愛らしさを引き立てている。
だがその笑顔に少し陰が差した。
「お兄ちゃん、フィゼルっていうの?」
今度は女の子が困ったような顔になり、それまでの人懐っこさから一変して少し後退る。
「えっと……君は?」
頭はまだ混乱したままだったが、何か話さなければと思ったフィゼルが口を開いた。もちろんこの女の子には面識がない。だが向こうはこちらを知っている――
「ごめんなさい、お兄ちゃん。間違えちゃった」
フィゼルの質問には答えず、女の子が踵を返す。そしてフィゼルが呼び止める間もなく、そのまま走り去ってしまった。
「……本当に知らない子なの?」
女の子が去った方向を遠く見やったままのフィゼルに、ミリィが声を掛けた。一連の流れにどういう意味があったのか、ミリィにも分かっている。
「……分からない。でも、あの子……俺を“レン”って呼んだんだ」
「レン……?」
それはちょうど今朝見た夢の中で、何度も何度も聞いた名前。それが自分に向けられた声なのかどうかは分らなかったし、当然その声は先程の女の子の声ではなかった。だが、女の子の言うように、本当にただの人違いだとは思えなかった。あの子は自分のことを知っている――
「ミリィ、ごめん! 俺、やっぱり……!」
フィゼルは女の子の後を追って走り出した。
「あっ、フィゼル!」
咄嗟に出たミリィの声も届かないほど、フィゼルはあっという間に遠ざかって行ってしまった。ミリィも後を追おうと思ったが、全力で走るフィゼルにはとても追いつけそうにない。
「ハァ……ハァ……こっちに来たと思ったのに……」
女の子を追って、フィゼルはいつの間にか郊外まで来ていた。街中の喧騒が嘘のように、この辺りは人気もなく静かだ。ジュリアと同じくらいの女の子が一人でやって来るには少々不自然な気もしたが、フィゼルにはそんなことを気にする余裕はなかった。
追いつけそうで追いつけないままこんな所まで来てしまったことも、冷静に考えればおかしな事だったのだ。
「やっぱりレンだったのね」
クスクスという控えめな笑い声と共に、その声は頭上から聞こえてきた。見上げると、傍らの木から伸びる枝の上に女の子が腰掛け、こちらを見下ろしている。
「君は……誰なんだ?」
肩で大きく息をしながら、フィゼルは頭上の女の子に問いかけた。
フィゼルの言葉に女の子は不思議そうに首を傾げて、やがて「ああ」と得心がいったという表情で頷いた。
「大丈夫よ。ここには私達しかいないから」
フィゼルの質問を全く別の意味で捉えたのか、女の子から返ってきた言葉はフィゼルと全く噛み合っていない。
「君は……俺の事知ってるのか?」
女の子の言葉に一瞬戸惑いながら、フィゼルは続けて問いかけた。同時に確信する。この子は間違いなく自分の事を知っていると。
「おかしな事言うのね。あなた、本当にレンなの?」
さっきからフィゼルが何を言っているのか分からないというように、女の子が眉を顰める。
「その“レン”っていうのは俺の事なのか!? 俺は……俺は何も覚えてないんだ!」
フィゼルの絞り出すような叫びが、誰もいない広場に響いた。
「……そっか。そういうことね」
フィゼルの言葉に一瞬衝撃を受けたように見えた女の子だったが、再び笑顔に戻ると、ふわりとフィゼルの目の前に飛び降りた。
「レン、記憶がないんだ」
上目遣いに覗き込むように女の子がフィゼルを見上げた。その瞳にフィゼルがたじろぐ。
「き、君は一体……」
「ねぇ、本当に忘れちゃったの? 私の事も?」
どこか面白がっているかのように女の子は訊いてきた。
「何も覚えてない……君の事も……自分の事だって……」
女の子の口振りから、自分とこの子には深い繋がりがあったのだろうが、それすら思い出せない自分がもどかしかった。
「ふぅん、忘れちゃったんだ……私の事」
突然、女の子の雰囲気が変わった。ぞくりと凍り付くような寒気が背中を走り、咄嗟にフィゼルは後ろに飛び退いた。
――ヒュウン!
そのギリギリ手前のところを何かが横一文字に通過した。飛び退いたフィゼルが自分の腹を見ると、上着の一部が切り裂かれている。
女の子の手にはいつの間にか身の丈を超えるような大鎌が握られていた。どこかに隠し持てるようなサイズではない。それが突然現れ、フィゼルを襲ったのだ。
「なっ、なんで……!?」
自分の置かれた状況が理解できず、フィゼルは混乱した。その外見からは信じられないほど鋭い攻撃に、しかし思考の混乱とは別に身体は本能的に臨戦態勢を取る。
「忘れたのなら思い出させてあげる」
凶悪な大鎌を肩に担いで、女の子がクスクスと笑う。その大鎌さえ見なければ、誰が見ても可愛らしいと表現するであろう。いや、その不自然な大鎌すら、傍から見れば少々センスの悪い玩具のように見えるだろうか。だがそれが玩具でないことは、鋭く斬り裂かれたフィゼルの服が物語っている。
「まっ……待ってよ! 俺は……俺は……!」
凶悪な殺気を孕んだ女の子の笑顔に、フィゼルはまともに言葉を紡ぐことが来なかった。
「私の事を忘れるなんて許さないわよ」
表情は変えず、だが見る者を竦み上がらせるような視線をフィゼルに送り、女の子は静かに言った。そして滑るように跳躍すると、一瞬にして間合いを詰め、再び大鎌を真横に振り抜く。
「く……っ!」
スピードだけでなく、そのパワーもフィゼルの想像を遙かに上回っていた。咄嗟に剣で受け止めたフィゼルだったが、抑え切れずにそのまま弾き飛ばされてしまった。
フィゼルが態勢を整える間もなく、続けて女の子はフィゼルに攻撃を仕掛ける。
「うわぁっ!」
剣で受けても弾かれ、何とか躱してもまた次の攻撃がフィゼルを襲った。小さな身体を中心に円を描くような女の子の攻撃は、ともすれば大き過ぎる武器に振り回されているようにも見えたが、その一連の動きには全く淀みが無い。
「どうしたの? こんな攻撃も避けられないなんて」
直撃こそなんとか避けていたが、徐々に女の子の大鎌はフィゼルの身体を蝕んでいた。だが女の子はそれが不思議で仕方ないというように首を傾げる。
「ハァ……ハァ……」
身体中を赤く染めたフィゼルが転がるように地面に倒れ込み、大きく喘いだ。そのフィゼルを女の子が蔑むように見下ろす。
「ねえ、少しは私の事思い出した?」
さっきまでの冷たい視線から一変して、また元の笑顔に戻った女の子がしゃがみ込んでフィゼルの顔に自分の顔を近づけた。
「……君は……俺は……一体……」
なんとか片目を開けるだけで精一杯といった姿で、フィゼルは喘ぐように声を出した。意識も混濁しているのか、その言葉も混乱の色をそのままに映す。
「……そう、まだ何も思い出せないのね」
ふっと眼を閉じ、女の子が立ち上がる。再び眼を開くと、その瞳はフィゼルに対する興味を失っていた。
「そんなレンなら……いらない」
肩に担いだ大鎌の切っ先を一度フィゼルの首元に合わせ、大きく頭上に振りかぶった。そのまま振り下ろせばフィゼルの頭と胴は綺麗に分断されるだろう。
「く……っ!」
なんとか逃れようとするフィゼルの意思に逆らって、その身体は全く動かなかった。身体中に負った傷以上に、女の子の殺気がフィゼルの身体を金縛り状態にさせている。
「バイバイ」
冷たい表情で、女の子はフィゼルに別れを告げた。どうにもできない状況に、フィゼルが諦めたように固く眼を閉じる。
「……何よ、フラン?」
だがいつまでたっても女の子の大鎌は振り下ろされなかった。そして闇の中で聞こえてきたのは、不機嫌そうに誰かの名を呼ぶ女の子の声――
「そこまでだ、シフォン」
続いて聞こえたのは若いが威厳のある男の声だった。その声が女の子を制止する。
「邪魔しないで――」
シフォンと呼ばれた女の子がフランという男に反発しようとして、急に言葉を切った。
「フィゼル!」
次の瞬間、フィゼルは闇の中でアレンの声を聞いた――
≪続く≫
フィゼル絶体絶命ですね。
なぜ最後にアレンの声が聞こえたのかは次回判明します(多分……)
次回は7/14(木)19:00更新予定です。