第2話
フィゼルは緑に囲まれた山道を歩いていた。目的地は“モーリス”という、この島の唯一の港町だ。“サイモン島”という名のこの小さな島において、唯一外と交わる場所だった。交易船が度々立ち寄るこの港町に、フィゼルはよく訪れていた。アレンからは薬を、シェラからは珍しい食材や香辛料の類をよく頼まれたし、村の同年代の子達と遊びに来ることもあった。
しばらく道なりに歩き、文字が霞んで消えかけている木製の道標に従って曲がる。その先にある大きな吊橋を渡れば、モーリスに繋がる街道に出るのだ。
「あっ――」
しかし、フィゼルを待っていたのは意外な光景だった。あるはずの橋はそこには無く、対岸の崖にへばり付くように垂れ下がっている。下まで見通せないほど深い谷底から吹き上げる風が、ヒョウと甲高い音を立てた。
「そっか、この間の嵐で橋が落ちちゃったんだな」
フィゼルは数日前の嵐の夜、家中の窓を板で覆い、さらには近所の家まで廻って同じ作業を手伝ったり、怪我人がいないか尋ねたりしたのを思い出した。嵐は一夜で過ぎ去り、村には特に被害は出なかったのですっかり忘れていたが、確かに老朽化した吊橋なら落ちても不思議はなかった。
「参ったな。森を迂回するしかないか」
フィゼルは踵を返し、さっきの道標の所まで引き返した。消えかかっている文字を、確認するようにじっと見つめる。
――東:港町モーリス 南:魔の森
「一体どういうネーミングセンスしてるんだ……?」
恐らくは子供が入り込まないように分かりやすい名前を付けたのだろう。そんな子供騙しにフィゼルは呆れながらも、“キケン! 魔獣多し”と後から書き足された注意書きに少しばかり背筋が冷たくなるのを感じた。
大丈夫さ、と自分に言い聞かせて、フィゼルは森へ踏み入った。村の裏山から時々降りてきて畑を荒らす魔獣を一人で退治したこともある。剣の腕なら自信があった。医者でありながら凄まじい剣の使い手でもあるアレンに稽古をつけてもらって、モーリスで催された剣術大会で優勝したこともあった。
森の中は静まり返っていた。魔獣どころか生き物自体が全然いないかのようだ。下生えを踏む音がいやに大きく響く。陽の光もほとんど届かない薄暗い森は、まるで何かに怯え息を潜めるかのように静かで、それが余計フィゼルの心を不安にさせた。自然と右手が腰にぶら下げた剣の柄に伸びた。何が飛び出してきてもすぐに対応できるように、やや前屈みで、慎重に歩を進めた。
どれくらい進んだだろう。幸いコンパスは生きているので、向かっている方角は正しいはずだった。慎重に歩いているせいでなかなか進まないが、それでももうそろそろ森を抜けてもいい頃である。
うっそうと生い茂る木々の間を縫うように道無き道を進んでいくと、不意に広場のように拓けた場所に出た。この周辺だけ樹が生えておらず、空を覆う枝葉の天井も無いので陽の光が差し込む。いつの間にか傾きつつある陽が、一つの人影を浮かび上がらせていた。
「だ、誰……?」
フィゼルは広場の中央付近に立っている人影に向かって問いかけた。何をしているわけでもなく、両腕をだらんと垂れ下げ、俯いたまま背中を向けている。
「こんな所で何してるの?」
フィゼルはもう一度呼びかけた。人影はぴくりとも反応しない。恐る恐る近づくと、人影の輪郭がはっきりしてきた。肩まで届く髪は美しい藍色で、身体のラインは華奢で細い。身長はフィゼルより少し低く、若い女性であることが窺われた。
手が届くほどの距離まで近づいても、女は一切動かない。しかしフィゼルがその肩に軽く手を触れた瞬間、女の身体中から黒い煙のようなものが噴き出した。突然の事に驚きの声を上げ、フィゼルは慌てて距離をとって反射的に剣を引き抜いた。
「なっ、何だお前は!?」
フィゼルは驚愕に震える声で叫んだ。
そこで初めて女が反応し、ゆっくりと振り返る。フィゼルはこの女が魔獣ではないかと思った。以前、アレンから“死霊系”の魔獣の中には人間のような形をしたものもいると教えてもらったことがあった。
だからどんな恐ろしい顔を見ても腰を抜かさないように構えていたのだが、こちらに向いたその顔に思わず目を瞠った。
「お、女の子?」
その顔は普通の人間の少女だった。フィゼルと同じくらいの年頃の女の子だ。しかしその瞳に光は無く、出来の悪いガラス玉のように輝きを失っていた。
その瞳がフィゼルを見た。いや、向けているというだけで、本当にその眼がフィゼルを捕らえているかどうかも分からない。その生気を失ったような瞳に、フィゼルは思わずたじろいだ。
何も言えずにただ魅入られたように少女を凝視していると、身体に黒いガスのようなオーラを纏った少女が右腕をフィゼルの方に伸ばした。フィゼルが咄嗟に身構える。次の瞬間、向けられた右の掌から黒い光の玉のようなものが放たれた。
「うわっ」
フィゼルはまともに光弾を身体に受け、後ろに弾かれた。もんどりうって地面に倒れこむ。少女の掌に再び力が集中する気配がした。
(ヤバイっ!)
すぐさま身体を起こし、続けざまに放たれる魔法の弾丸をかろうじて横っ飛びで避けた。魔法弾が地面にぶつかり、土が跳ね上げられる。ドオンという音が轟き、地面が揺れた気がした。
また地面に転がり、すぐさま体勢を整えて飛んでくる魔法弾を躱す。そんなことを数回繰り返すうち、だんだんフィゼルの方が慣れてきて、躱す動きにも余裕が出てきた。規則的に真っ直ぐ飛んでくるだけの魔法弾は、冷静になれば避けるのに苦は無く、剣で弾くことで容易に軌道を変えられた。
魔法弾が当たらないと悟ったのか、少女の攻撃の手が止んだ。また右腕がだらりと垂れ下がる。フィゼルは剣を構えたまま、ゆっくりと少女に近づいた。攻撃が止んだのはいいが、一体どうしたものだろうかとフィゼルは思案した。悪意を持ってフィゼルを攻撃したというならこちらも応戦してよさそうなものだが、どうもそうではないようだ。明らかに少女には意識が無く、まるで何かに操られているかのようだ。少女の身体を包む禍々しいオーラがそれを証明しているように思えた。
すると突然、少女を覆うオーラの勢いが増した。そうかと思うと、今度は少女の足が地面からゆっくりと離れた。
(う、浮いてる……!?)
噴き上がるオーラに持ち上げられるように、少女の足は地面から十センチほど浮いていた。そして両腕を交差させて頭上にかざすと、少女の口が何か呪文のようなものを唱え始めた。
さあっとフィゼルの血の気が引いた。噴き出すオーラが少女の頭上に集中する。先程の魔法弾とは比べ物にならない強大な魔法が放たれると直感した。
とっさにフィゼルは踵を返して力一杯に駆け出した。躱したり剣で弾いたりできそうもない。とにかく逃げなければ――
≪続く≫