第43話
「あっ、そうだ。この剣、返さなきゃ」
雪山を降りる途中、前を歩くロザリーをフィゼルが呼び止めた。腰から鞘ごと引き抜き、ロザリーに差し出す。
「それには及ばぬ。それはそなたが持っていた方が良かろう」
ロザリーは差し出された“疾風の御剣”を受け取らず、そのままフィゼルに譲ると言った。
「で、でも……」
フィゼルは戸惑った。たった一振りしただけだが、これがただの剣でないことはフィゼルにも分かっている。簡単に貰える代物ではなかった。
「気にすることはない。助けてもらった礼だ。それに、これからのそなたには必要になろう」
「えっ? それってどういう――」
最後の一言が気になってロザリーに問い返そうとした時、前方から雪道を駆け上って来る人影に気が付いた。
「ミっ、ミリィ!?」
眼を凝らしてみると、それがミリィであることが分かった。
「あっ、フィゼル!」
手を振り呼びかけるフィゼルにミリィの方も気が付いた。
「なんでフィゼルがこんな所に?」
フィゼルの傍まで駆け寄ったミリィが驚きの表情で尋ねた。
「ミリィこそ、どうして?」
「私は……そうだわ! いつの間にか魔族の気配が消えてる! もしかしてフィゼルが……?」
つい先程、どんどん強くなる一方だった邪気が突然掻き消えてしまった。何が起きたのか分からないが、フィゼルがこの場にいるというのは偶然とは思えない。
「ああ、それならこの子が――」
フィゼルがミリィにロザリーを紹介しようと振り返る。しかしそこには誰もいなかった。
「あれ、ロザリー?」
フィゼルが辺りをきょろきょろと見回すのを、ミリィが不思議そうな顔で見る。ミリィは元からフィゼルの姿しか見ていなかったのだ。
「……そう。そんなことがあったのね」
フィゼルとミリィは山を降って、アイリスの街の宿屋に入っていた。そこでミリィは事の顛末をフィゼルから聞いたのだ。
「結局何だったんだろう、あの子……」
ロザリーがいつの間にか消えてしまった後、しばらくフィゼルとミリィは辺りを探してみたが、結局見つけられなかった。
「フィゼルの話を聞く限り、相当な魔力を持った女の子ね。もしかして賢者……」
「そういえば、あのリッチーとかいう魔族も賢者がどうとか言ってたような……でも、あんな子供が?」
フィゼルはリッチーとロザリーの会話を聞いていない。フィゼルが聞いたのはリッチーが消える間際に残した言葉だけだった。
ロザリーがただの子供でないことは間違いなかったが、いくらなんでも賢者という言葉のイメージとはかけ離れている。
「……考えても仕方ないわね。とにかく、この街の人のために魔族と戦ったんだもの。悪い人間じゃないことだけは確かだわ」
一緒にいたフィゼルにも正体が分からないのだから、話を聞いただけのミリィには知る由もなかった。いくら考えたところで想像の域を超えない。
「それもそうだな」
フィゼルもミリィに同意し、これ以上考えても無駄だと諦めた。街の人達に対して微妙な態度ではあったが、ミリィの言う通り助けたのは間違いない。
「でも良かったよ、ミリィが一人であの魔族と戦ってなくて。とても俺達がどうにかできる相手じゃなかったもん」
ミリィが魔族の気配を感じ、山を登ったということを聞いて、フィゼルはほっと胸をなで下ろした。
「そんなに強い魔族だったの?」
本来、魔族が現界で実態を持つのは極めてまれなケースで、しかもフィゼルが言うような強力な魔族は、魔界と現界を隔てる結界によって行き来することができないようになっている。
――“穴”が大きくなっている。
ミリィは雪原でメフィストが言った言葉を思い出した。
「どうしたの、ミリィ?」
不吉な予感を打ち払うように大きく頭を振ったミリィを、フィゼルが不思議そうな眼で見る。
ミリィは雪原での一件は話していない。自分と魔族の関係は誰にも話すつもりはなかった。
「ううん、何でもない。そうだ、ちょっと出掛けましょう」
ふっと窓の外へ眼をやったミリィが突然コートを羽織りながら言った。
「えっ、今から?」
今はもう真夜中である。当然外も街灯の他には灯りはほとんど無かった。
「今晩は見られるかもしれない」
意味不明な事を言うミリィに促されるまま、フィゼルも一緒に宿を出た。
「うっわ、寒っ!」
夜のアイリスは昼間より一層気温が低かった。さすがにフィゼルもこの寒さには堪え切れずに身体をぶるぶると震わせる。
「こっちよ」
それでもどうにかミリィの後をついて行き、辿り着いたのは昼間フィゼルがロザリーを初めて見た高台の展望台広場だった。
「良かった。ベンチが一つ空いてるわ」
昼間同様、いや昼間以上にカップルに埋め尽くされたベンチの一つにフィゼルを座らせ、ミリィは昼間には無かった屋台に向かった。
「お待たせ。はい、これ」
戻ってきたミリィは両手に持ったカップの一つをフィゼルに手渡した。
「何、これ?」
カップからはゆらゆらと湯気が立ち上っていて、何とも言えない甘い香りがする。初めて見る飲み物だった。
「甘酒よ。お酒って言ってもアルコールはほとんど無いから大丈夫」
ミリィがカップに口を付けるのを見て、フィゼルも一口飲んだ。口当たりはどろっとしていて甘ったるい。だが不思議と冷えた身体に心地良く沁み渡り、身体の内から暖まってくるような気がした。
「思い出すなぁ……ここでお母さんと飲む甘酒が大好きだった」
ミリィが両手で包みこんだカップに視線を落とす。
「そうだったね。ミリィってば、いつも二つ買って飲んでたっけ」
それは全く無意識の言葉だった。ミリィが手に持ったカップを落として驚愕の眼差しでこちらを見ている。それに気付いて初めて、フィゼルは自分が何かとんでもない事を口走ったのかもしれないと悟った。
「あなた……今、何て!?」
「えっ……俺、何か言った? って、ちょっ……ミリィ! 危ない! こ、零れる!」
フィゼル両肩を掴んで、前後に揺さぶりながら詰問するミリィ。しかしフィゼルは自分が何を言ったのかも覚えていなかった。
「どうしてフィゼルが私の子供の頃のことを知ってるの!?」
「いや……そんなこと言われたって……っ! 何かの間違いじゃないの?」
当然、フィゼルにミリィの子供時代についての記憶などあるはずがない。もしかしたらミリィが聞いた言葉も、彼女の勘違いかもしれなかった。
「そんなわけ――」
もしかしたら本当に自分の勘違いなのかも、とミリィが思い始めた時、不意に周囲から歓声とどよめきが沸き起こった。
「うわぁ……!」
周囲の人達は皆一様に空を見上げていた。フィゼルもそれに気付いて空を見上げ、その光景に眼を瞠った。
それは言葉を失うほど美しい光景だった。空から何とも言えない輝きを放つ光の布が垂れ下がり、あたかも風に棚引くかのごとく揺らめいている。そしてその光の布は揺らめく度に色を変え、見る者全てを妖しく魅了した。
「……この地方の名物、オーロラよ」
それまでフィゼルに詰め寄っていたミリィも空を見上げ、久しぶりに見るオーロラに眼を細めた。
それからしばらく、二人は無言のままオーロラを眺め続けた。つい先程までのやり取りなどすっかり忘れてしまったかのように、ただただ夜空に浮かぶ光のカーテンを見上げている。
オーロラが消えると、夢から覚めるようにフィゼルは我に返った。帰ろうとしているカップルもあれば、まだベンチに座って肩を寄せ合っているカップルもいる。
(周りから見たら、俺達もそんな風に見えるんだろうか)
そんなことが頭に浮かび、フィゼルは急に恥ずかしくなった。もう帰ろうと思ってミリィに顔を向けると、ミリィの頬を一筋の涙が伝い落ちていた。
「ミっ……ミリィ……?」
初めて見るミリィの涙に、フィゼルはどうしたらいいか分からなかった。
「ご、ごめん……何でもないの」
何でもないわけないだろ、とフィゼルは思ったが、涙を拭うミリィに掛けてやる言葉が見つからない。
ミリィ自信も、自分が涙を流しているという現実に戸惑っているようだ。昔、母親と一緒にここでオーロラを見上げていた頃の幸せな記憶が、ミリィの固く閉ざしていた心を溶かしてゆく。
先程のフィゼルの言葉も、そんな記憶がもたらした幻聴なのではないかと今では思うようになっていた。むしろ常識的に考えるならその方が自然なのだ。
「ミリィ……! お、俺……本当に強くなんかないんだ!」
突然のフィゼルの言葉に、「えっ?」とミリィが顔を上げる。フィゼルは自分でも何を言っているのか分からないまま、それでもどうにかしてミリィを元気付けたいと思った。
「ずっと迷ってるし、今だって怖いんだ。自分の記憶……俺の正体が」
それは本心からの言葉だった。日を追う毎にじわじわと甦りつつある記憶は、期待よりもむしろ不安の方を強くさせる。本当のことを知りたいのに、知るのが怖い。
もうこのまま何もかも放り出して、コニス村に帰ったらどんなに楽になれるだろうか。きっとシェラも村のみんなも優しく受け入れてくれるだろう。一人きりで旅をしていたなら、本当に投げ出してしまっていたかもしれない。
「俺、旅に出てみて本当に一人じゃ何にもできないことを思い知ったんだ。でも色んな人に助けてもらったから、俺は今ここにいる。だからこれからも、みんなに助けてもらいながら進んでいくんだと思う」
たどたどしくも一生懸命に紡がれるフィゼルの言葉を、ミリィは黙って聞いている。フィゼルの言いたい事が何となく分かってきた。
「えっと……だから、その……俺が言いたいのは、ミリィも辛い事とか苦しい事があるなら――」
「……もういいよ」
フィゼルの言葉を遮って、ミリィが顔を背けた。
「ミリィ……」
全て嘘偽りのない本心だったが、それでもミリィの心には届かなかったのかとフィゼルは哀しくなった。
「ふふ、あなたって不思議よね」
「えっ?」
不意にミリィが笑顔になり、フィゼルの顔を覗き込んだ。
「全然頼りなさそうに見えるのに、一緒にいると何故か安心する」
それは全く予想外の言葉だった。フィゼルの心臓が早鐘のように激しく鼓動する。
「ミリィ! 俺――」
この後何を言おうとしたのだろうか。様々な思いが沸き上がり、フィゼルは自分の心をコントロールできなくなっていた。
「そろそろ帰りましょう」
その言葉を遮るように、ミリィが立ち上がった。それによってフィゼルも我に返る。
フィゼルが自分に対して多少の好意を持っていることぐらい、ミリィにも分かっている。それは恋愛感情などという艶っぽいものではないのだろう。だがそれでも、ミリィはそんな風に想われる資格など自分には無いと思い込んでいた。それなのに、自分の事を正直に打ち明けて、フィゼルの自分を見る目が変わるのも怖かった。
「ミリィ……」
ミリィの笑顔は薄氷の彫刻のように儚げで美しく、そして哀しかった。
≪続く≫
実際にオーロラがどんな所で、どんな条件で見られるものなのか、作者は知りません……
不自然な点があったらお詫びします^^;
次回は6/28(火)19:00更新予定です。