第41話
フィゼルと街道で別れた後、ミリィは山間の小さな集落に建てられた墓の前に立っていた。
正確に言えば“集落跡”で、今はもうそこに住む人間は一人もいない。
「お母さん、二年振りね。今まで来られなくてごめんね」
墓石を八割ほど埋めていた雪を丁寧に取り除いて、ミリィはしゃがみ込んだ。墓の前に花を添えると、両手を合わせて黙祷する。
「本当は二度と来るつもりはなかったわ。だってこんな姿、お母さんに見せられないもの……っ!」
その眼には涙が浮かんでいる。ずっと堪えてきたものが溢れだしていた。
「……もうすぐ私もそっちに行くわ。そうしたら、いっぱい叱ってね」
母の墓に取り縋って泣いた後、ミリィが笑顔になる。全てを覚悟した者の哀しい笑顔だった。
元より命懸けの復讐だった。目的を果たせるなら、この命などいつ捨てても構わない。
あまりにも悲壮感漂う母と娘の対面が終わり、ミリィが踵を返そうとした時――
「なっ、何……この邪気は……!?」
この山を包み込む禍々しい邪気に気が付いた。
(この感じ……まさかっ!)
身体に纏わりつくような厭な感覚には覚えがある。ミリィは弾かれるように駆けだした――
雪の積もった山道を意にも介さず歩いていくロザリーの後ろを、フィゼルが一生懸命追いかける。平坦な雪道なら苦にしなかったフィゼルも、急斜面となると簡単には歩けなかった。
だがフィゼルより一回りも小柄なロザリーは、普通の山道を歩くように軽々と進んでいく。フィゼルは信じられない思いでその背中を見つめていた。
雪山に入ってからどれだけ歩いただろうか。空は晴れ渡っていて視界が良かったため、フィゼルはある異変に気が付いた。
「ねえ、なんか同じ所ばっかり歩いてない?」
どこを見ても雪で覆われた山の中なので分かりにくかったが、先程から景色が全く変わっていなかった。道なりに真っ直ぐ進んでいるはずなのに、気付けば元居た場所に戻っている。
「どうやら“結界”の中に入ったようだ」
ロザリーは特に驚いた様子もなく言った。
「結界……?」
「魔力で囲まれた特殊な空間だ。これを破らない限り、我らは一生同じ場所を歩き続けることになろうな」
フィゼルがぞっとするようなことをロザリーは平気な顔で言った。この結界を破る自信があるのだろう。
「確かにこの程度の結界なら破れないことはないが、あまり力を使いたくないな。恐らくこちらの消耗が相手の狙いなのだろうから」
ロザリーがまだ見ぬ敵の浅はかな考えを嘲笑するように言う。いかにも小者らしい小細工だと思った。
「じゃあ、どうするの?」
「そなたの力を使わせてもらう」
ロザリーはフィゼルに人差し指を向けて言った。
「えっ!? で、でも俺にそんな力なんて……」
剣の腕には多少の自信があったが、魔法に関してはからっきしだった。自身で扱うことも、魔法に関する知識もない。
「心配はいらぬ。そなたは何もしなくてよい。我がそなたの力を引き出して使うでな」
きょとんとした顔のフィゼルの胸に右手を当てて、ロザリーは呪文を唱え始めた。同時にそれまで凪いでいた風が俄かに吹いて、渦を巻き出す。
(あの時と同じだ……!)
風が粉雪をまき散らしながら次第に強くなっていくにつれ、フィゼルの身体から力が抜けていく。
「風よ、我が前に集いてまやかしを打ち払え」
ロザリーが詠唱を終えると突風のような強い風が吹き付け、フィゼルは眼を開けていることができなくなった。
しばらく眼を固く閉じたまま風が鎮まるのをじっと待つ。やがて風が収まって眼を開けると、先程までと景色が変わっていた――
「ここは……?」
強い脱力感を覚えながら、フィゼルが辺りを見回した。
「どうやら山頂付近のようだが――」
ロザリーが言いかけているところへ、突然何かが頭上から襲ってきた。
「うわぁ!」
いきなりの襲来にフィゼルが咄嗟に自分の身体を庇ったが、襲来者の攻撃はフィゼル達の手前で見えない壁に遮られた。
「それで不意を突いたつもりか?」
嘲笑うようにロザリーが口角を少し上げる。襲来者の攻撃を防いだのはロザリーの魔法障壁だった。
「なっ……何だあいつ!?」
ロザリーに攻撃を防がれ、襲来者は一旦飛び下がって距離を取った。その姿を見止めたフィゼルが驚愕に顔を歪める。
それは一言で言うならローブですっぽりと身体を覆った骸骨だった。眼球の無い真っ暗な穴の奥から妖しげな光が漏れている。地に足を付けてはおらず、身体を宙に浮かせていた。
「フフフ。私の楽しみを邪魔するのはどんな奴かと思えば、なんとも可愛らしい童共だ」
骸骨から乾いた声が発せられる。骨だけの顔では表情は分らないが、どうやら笑っているようだ。
「しゃ、喋ったぞあいつ!」
骸骨の正体をゾンビやスケルトンなどの死霊系の魔獣だと思っていたフィゼルが驚きの声を上げた。喋る魔獣など聞いたことがない。
「奴は魔獣ではない。“魔族”だ」
狼狽するフィゼルを諭すようにロザリーが言った。
「魔族!?」
ロザリーの言葉に、さらに驚いたフィゼルが声を上ずらせる。
魔族という言葉には聞き覚えがあった。アレンの書斎で見つけたファンタジー小説の中に出てきた怪物だ。しかしあれはあくまでも作り話であり、実際には存在しないのだとシェラは言っていた。
この世界とは別の世界の住人で、不死に近い肉体と強大な魔力を持ち、人間の魂を糧にするという。まさに目の前にいる化け物はそんなイメージを具現化したような姿だ。
「何ということはない。所詮、現界と魔界を隔てる結界の隙間から漏れ出てきた小者だ」
蒼ざめるフィゼルに対して、ロザリーは落ち着き払っている。常人なら見ただけで発狂しそうな禍々しいオーラを纏うこの化け物を、その言葉通り小者と見なしているようだ。
「フッ、物知りなお嬢ちゃんだ。だが私をそのような低級魔族と一緒にしないでもらおうか」
魔族はロザリーの見下したような物言いを、怒るでもなく一笑に付した。
「ほう、違うと申すか?」
魔族の自信に満ちた態度を訝しがりながらも、ロザリーはなおも嘲笑うような口調を変えなかった。
「人間の小娘風情が。その不明をあの世で悔いるがよいっ!」
ロザリーの態度に業を煮やした魔族が飛びかかってきた。先程と同じようにロザリーが魔法障壁を張るが、その見えない壁に阻まれる直前、魔族は高く舞い上がり、二人の頭上から魔法の弾丸を浴びせかけた――
「ハァ……ハァ……」
大きく肩で息をしながら、ミリィは集落跡にほど近い雪原の一角に立っていた。
(何も変わっていない……)
ミリィの目の前には二年前と変わらぬものがあった。真っ白い雪に鮮やかに映える赤い魔法陣――
雪の上に描かれたものなのに、二年の時を経てもそれは消えていなかった。
辺りを取り囲む邪気はこの魔法陣から漏れ出たものではないかと考えたミリィだったが、魔法陣からは特に何も感じない。
(ここじゃなかった……)
予想が外れたことにはほっとしたが、実際に邪気はこの山に満ち満ちている。それも、先程よりも一層強くなっていた。
(とにかく、行かないと!)
ミリィはこの邪気の正体を確かめようと、踵を返した。その時――
「久しいな、幼き魔女よ」
不意に背中に声をかけられた。ミリィが驚いて振り返ると、魔法陣の上に一人の紳士風の男が立っている。
いや、立っているという表現は的確ではないだろう。では浮いているのかというとそれも少し違う。
男の身体は半透明に透け、特に下半身の方はほとんど透明に近い。普通に立っていればそれくらいの高さであろうという位置に頭があるものの、実のところ立っているのか座っているのかすら分らなかった。
「メフィスト……」
ミリィは眉間に皺を寄せて男の名を呼んだ。
「フフ、そのような顔をするな。私はそなたの味方ぞ?」
メフィストと呼ばれた男は口元に皮肉っぽい笑みを浮かべながら言った。
「あなた、約束が違うじゃない! 現界には干渉しないって!」
メフィストが姿を現したことで、やはりこの邪気の正体はこの男なんだとミリィは思った。気色ばんでメフィストに詰め寄り非難する。
「これは私のせいではない。どうやら魔界と現界を繋ぐ穴が大きくなっているようだな。それによって下品な輩がこちらの世界にやって来たのであろうよ。元々この辺りは魔界に近いゆえ、その者にとっても居心地がいいのだろう」
メフィストはこの邪気の正体を知っているが、さして興味もないようだ。メフィストに比べれば、この山に棲みついた魔族など赤子同然の雑魚だった。
「そんなことより、大分“力”を使っているようだな。あまり使い過ぎると肝心の目的を果たす前に身体が堪え切れなくなるぞ?」
「ご忠告どうも。もっとも、あなたにとってはそっちの方がいいんでしょうけど」
この魔法陣はミリィが己の血を用いて描いたものだった。一歩間違えればそのまま失血死する程の大量の血液。それによって魔界から魔族を召喚し、その力を分け与えられたのだ。
だがたとえそれほどの危険を冒しても魔族の力をただで借りることはできない。それ以上の代償を支払う必要があった。
「フフ、それは誤解だ。私はそなたの仇討が成功することを祈っているよ」
メフィストはまたもや口元に曰くありげな笑みを浮かべた。少なくともその言葉を額面通りに受け取ることはできないだろう。
「どうだか。魔族が親切心で私に協力してくれたとでも言うの?」
「やれやれ、随分と嫌われたものだ。では私がそなたの味方だという証拠に、一つ良いことを教えよう」
それまで反発していたミリィだったが、その言葉にぴくりと反応した。
「フフ、気になるようだな」
メフィストは焦らすようにその先をなかなか口にしない。
「もったいぶっていないで早く言いなさいよ!」
メフィストが楽しそうにしているのが気に入らなくて、ミリィは苛立ちをそのまま言葉に乗せた。この男が自分に力を貸すのは単なる気まぐれで、ただの暇つぶし程度の認識なのだろうとミリィは思っていたが、それでもこんな風にからかわれるのは我慢がならなかった。
「もうすぐだ。そなたの憎い憎い仇はもうすぐ現れる」
メフィストは魔法陣から出られない身体を精一杯ミリィに近づけて囁いた。その言葉にミリィの表情が凍りつく。
「あなた、なんでそんなことを……まさか……」
この魔族は最初から全部知っているのではないかという疑いがミリィの心に生まれた。人智を遥かに超越した存在であるメフィストならそれも十分あり得る話だ。
「フフ、私は契約によって力を貸すだけ。真実は己の眼で確かめるがいい」
最後にメフィストは、魔法陣のすぐ傍まで近づいていたミリィの顔をそっと撫でた。実体はないはずなのに、撫でられた箇所が恐ろしく冷たい。そのままメフィストの姿は見えなくなってしまった。
メフィストから告げられた衝撃の言葉に、ミリィは一人呆然と雪原に立ち尽くした――
≪続く≫
ミリィの力の根源が明らかにされました。
次回は6/25(土)19:00更新予定です。