第39話
この世界の船旅は、目的地まで一直線に航海するものではなく、陸地に沿って各港に停泊しながら進むものです。
グランドールの港を離れ、北へと進路を取る連絡船の中で、フィゼルはとんでもない事に気が付いた。
「ミ……ミリィ、これ……」
二人用の船室は、ベッドが二つと小さなテーブルがあるだけの狭い部屋だった。ベッド同士は離れているものの、手を伸ばせば届く距離でしかない。
「仕方ないでしょ。二人部屋が空いてただけでも運が良かったと思わなきゃ。一応衝立もあるし」
「で、でも……」
こんな狭い部屋で女の子と一緒に数日過ごすとなると、意識するなという方が無理な相談だ。
「あー、もう! 変に意識しないでよっ! 私は気にしないから、あなたも気にしないで!」
ミリィだって実は同年代の男と同じ部屋に寝泊まりすることに抵抗が無いわけではない。だからといってフィゼルを廊下に放り出すわけにもいかなかった。
「今日はもう疲れたから寝るわ。話は明日にしましょう」
二つのベッドの間に衝立を立てかけると、ミリィはさっさとベッドに潜り込んだ。
仕方なくフィゼルも隣のベッドで横になるが、とても眠れる状態ではなかった。ミリィ同様、牢屋で眠れぬまま一夜を明かし、さらには王都の地下水路で化け物と戦って身体は疲れ切っているはずなのに、眼が冴えてしまっている。
この薄い衝立一枚の向こうでミリィが寝ているのだと思うと、今までにないほど心臓が暴れまわった。
それでも長い時間をかけて心を落ち着かせると、ようやく眠気を催し、フィゼルの意識はうとうとと混濁してきた。
(結局、ミリィに謝ってなかったな……)
一昨夜の王都でのことを謝るはずだったのに、その後色々な事があり過ぎてタイミングを逸してしまった。
「ミリィ……ごめん」
朦朧とする意識の中で、フィゼルは衝立に向かって言った。ミリィはもう眠ってしまっている。当然返事は返ってこなかった。
フィゼルは眠りに落ちた――はずだった。
突然がばっと飛び上るように上体を起こすと、額に汗を浮かべながら肩で息をする。
(なん……だったんだ、さっきの感じ……?)
何か、もの凄く恐ろしい夢を見たような気がした。いや、果たしてあれは夢だったのだろうか。さっきまで本当に寝ていたのかどうかもフィゼルには分らなかった。
息を整えながら、さっき見たはずの映像を思い出そうと試みる。今までにない衝撃であったが、この感覚は何度も経験したことのあるものだ。
(絶対、記憶に関係している!)
上半身を起こしたままフィゼルは瞑想するように眼を閉じた。何か記憶に関するものであるはずなのに、ぼんやりとした映像はいつまでも鮮明にならなかった。
(今日、俺は何を見たんだっけ……)
何かが自分の記憶を刺激したのだと考えたフィゼルは、今度は今日一日の出来事を順を追って思い出してみた。
王都の地下牢から始まり、地下水路や“愚者”と呼ばれる化け物との戦闘でも驚くことばかりだったが、それ以上にギルドでは衝撃の連続だった――
「あっ……!」
そこまで思い出したところで、フィゼルは思わず声を上げてしまった。慌てて口を押さえて衝立の方に顔を向け、ミリィが起きた気配のないことにほっとする。
(俺は……ミリィのお母さんを知っている……?)
衝立の向こうでミリィが静かに寝息を立てているのが僅かに見える。フィゼルの心はまたもや千々に乱れた。
頭の中でぼやけたままだった映像の一部がはっきりした。それはギルドで見たミリィの母親――リオナ・フォルナードの写真とよく似ている。写真は二十年前の若い姿だったが、先ほど見た映像はそれよりもっと歳を取っていた。ちょうど今ならこんな感じになっているだろう。
(なんで……俺はミリィのお母さんを……)
どこの誰と知り合いだったとしても、あり得ない話ではない。だがフィゼルはそれを信じたくなかった。何故か凄くいやな予感がする。
(俺って一体何者なんだ……)
言いようのない不安に震える肩を、フィゼルはぐっと抱きしめた――
グランドールを夜中に出港した連絡船は、天候にも恵まれて順調に航海を続けていた。途中、各地の港に停泊する度に船を降りる乗客と新しく乗り込む人が入れ替わる。この連絡船の普及により、今や人々は世界の端から端まで簡単に旅をすることができた。
数日が経ち、毎日のように甲板に出ていたフィゼルは頬を打つ風が冷たくなっていくのを感じていた。遠くに島影が白く霞んで見える。
「もうすぐアイリスに着くわ。そろそろ下船の準備をしましょう」
不意に後ろから声が掛かった。振り向くと、ミリィが防寒着に身を包んで立っている。
「これから先は急激に冷えてくるわよ。フィゼルも着たほうがいいわ」
まだそこまで寒くはなかったが、ミリィに促されるままにフィゼルは道具袋の中から防寒用のコートを取り出した。年中温暖な気候のモーリス島では必要のない物なのですぐには手に入らず、しかたなくアレンが昔使っていたものを譲り受けたのだ。
「ねえ、本当に聞かなくていいの?」
汽笛が鳴り響き、いよいよアイリスの港に停泊しようという時、ミリィが何度目かの質問をフィゼルにする。
フィゼルは今回の件についてミリィから何も聞こうとしなかった。ミリィも詳しい話はできなかったが、アレンの正体やこれから向かうフレイノールの“教会”について等、フィゼルが知りたがっている事には答えられると思っている。
だが船に乗る前とはうって変わって、フィゼルはミリィに何も尋ねなかった。
「いいんだ。なんか俺、焦ってたみたいなんだよな。色んな事があり過ぎて、元々の目的を見失ってたみたいだ」
ぶるっと身震いしてからフィゼルが言った。ミリィの言葉通り、急に気温が下がり始めている。
「先生のことは気になるし会いたいって思うけど、やっぱり俺は先生のこと信じてるから。だから俺はあれこれ考えるのはやめた。できる事から少しずつやっていくことにするよ」
フィゼルは笑顔を見せたが、その言葉ほど吹っ切れてはいないだろうとミリィは分かっていた。
「そう。強いのね、フィゼルは」
それでもしっかりと前を向けるのはフィゼルの強さなんだとミリィは思った。
「強い? 俺が?」
思いもよらなかった言葉に、フィゼルが赤くなる。手を振ってミリィの言葉を否定した。
「ううん、あなたは十分強いわ」
思えば、ルーも辛い過去を抱えながらそれを感じさせない明るさを見せていた。元々の性格もあるだろうが、やはりそれもルーの強さなのだろう。
「それに比べて私は……」
ミリィは俯き、眼を伏せた。ルーのように哀しみを隠して明るく振舞うこともできなければ、フィゼルのように戸惑いや迷いを抱えながらでも前を見続ける強さも無い。
「ミリィ……」
初めて見るミリィの姿だった。フィゼルには想像もつかない何かを背負っているのは分かっていたが、それをミリィが語ることはなかったし、このような弱音を吐くこともなかった。
連絡船が完全に停止し、次々と乗客が降りていった。ここでは物資の補給と船体の点検の為に丸一日停泊するということで、もっと先へ行く人達も一旦ここで船を降りる。
「私達も降りましょう」
しばらく沈黙の時が流れた後、一瞬見せてしまった弱みを打ち消すように凛とした声でミリィが言った。それがかえって儚げで、フィゼルは何も言えなかった。
二人が港に降り立った時には、もう辺りに人は少なくなっていた。
「あれ、ここがアイリス? なんだか随分寂しい街だな」
フィゼルが周りをきょろきょろと見回しながら言った。素気ない建物が道の両側に建ち並んでいるだけの殺風景な景色だった。
「ここは港の部分だけよ。実際のアイリスの街はここから街道を少し歩いた所にあるの」
便宜上この港もアイリスと呼ばれているが、元々アイリスは港町ではなかった。連絡船の普及により新たに港が整備され、その美しい街並みと装飾品の生産で瞬く間に人気の観光地となったのだ。
確かに街道に出ると多くの人が同じ方向に向かっているのが見えた。その足取りは様々で、雪道に慣れていない者はころころと転びながら進んでいる。
それに比べてミリィの足取りは確かで、普通の舗道を歩くのと大して変わらない速さですたすたと歩いていた。
「あっ、フィゼル――」
うっかり自分のペースで歩いてしまっていたことに気が付いて、ミリィが遥か後方にいるだろうフィゼルを振り返る。だが意外にもフィゼルはミリィのすぐ後ろをちゃんとついて来ていた。
「あなた、雪道平気なの?」
ミリィが少々驚いた表情でフィゼルに尋ねた。よほど慣れた人間でなければ、こうも簡単に歩くことはできない。
「え? あぁ、そういえば……」
フィゼルは周りで転びながら歩いている人達を見ながら言った。何故か自分は彼らのように足を取られることがない。コニス村では雪を見たことが無かったのに、フィゼルの足取りは軽やかだった。
「やっぱり、あなたは雪国の生まれなのかもね」
ミリィもこの辺りの生まれだけに、同郷とは言えないまでも同じような環境で育ったと思われるフィゼルに、何となく親近感を覚えた。
街道を進んでいくと、途中で二手に分かれる。そのまま真っ直ぐ進めばアイリスに至る。
「それじゃ、私はここで別れるわ。今日中にはアイリスに行くから」
ミリィはアイリスへは向かわず分かれ道を右に折れる。
「出港は明日だろ? それまでゆっくりしたらいいよ、久しぶりの里帰りなんだからさ。色々と積もる話もあるだろ?」
連絡船の中でフィゼルは、ここがミリィの故郷であることを聞いていた。アイリスに程近い山間の村にミリィの家があるという。
「そう……ね」
久しぶりに家に帰るというのに、ミリィの表情は冴えなかった。不思議には思ったが、そのことには触れずにフィゼルはミリィを見送った。
≪続く≫
次回は6/21(火)19:00更新予定です。