第29話
フィゼル達が眠りについてから数時間後――
客も従業員も寝静まった深夜の宿の廊下に、苦悶の表情を浮かべるミリィの姿があった。身体を支えるように右手を壁に手をつき、左手で胸を押さえている。
「くっ……ハァ……ハァ」
抗い難い苦痛がミリィの身体を蝕んでいく。ついには支え切れずにその場にうずくまってしまった。そのまま身体を丸め、痛みが通り過ぎるのを待つ。
(“力”を使い過ぎたみたいね……次はもう……)
ようやく苦しみから解放されたミリィは、息を整えて立ち上がった。
グリフォンすらも圧倒する驚異的な“力”。しかしそれを使えば使うほど、自分の身体がその“力”蝕まれていくのは分かっていた。
(普通の幸せ……か)
フィゼルに言われた言葉がミリィの胸を突く。廊下の窓越しに静まり返った街並みを眺めながら、その窓ガラスに映る自分の頬に一筋の涙が伝った。
(お母さん……今の私を見たら、きっと許してくれないよね……)
誰にも見られる心配がないせいか、ミリィは流れる涙を拭おうともしない。しばらくそのまま流れるに任せ、窓に移った自分の姿を見つめていた。
(でもこれが……私の選んだ道だから)
ミリィは涙を拭うと、すぐ後ろのドアを静かに開けて中へ消えていった。
――あ、あの夢だ。
フィゼルはまたいつもの夢を見た。雪の降り積もる街を時計塔の屋上から見下ろしている。
コニス村にいた時は頻繁に見ていたはずなのに、この頃は次々と色んな夢を見るので、この夢は久しぶりだった。
いつものようにゴゴゴゴと地面が揺れて時計塔が崩れだす。叫び声を上げながら真っ逆さまに落ちていく自分。場面は同じだったが、今回は一切の音が消え去っていた。塔が崩れる轟音も、自分が上げているはずの悲鳴も聞こえない――いつもならここで目が覚めるはずだった。だが今回は続きがある。
――ここ、どこだ?
フィゼルが見る夢はいつも雪景色だった。内容は違っても、必ず雪が見えた。
だが今回は無機質な壁に囲まれている。地面も壁と同じ石でできていた。崩れ去る塔から落ちている最中だったはずなのに、気付けばいきなりこんな所にいる。これが夢だと自覚しているフィゼルには、この極端な場面転換にも驚きはなかった。
――まるで牢屋だ……
正面に鉄格子を見たところで夢の延長時間は終了した。目を覚ましたフィゼルの眼にはベッドから見上げる白い天井が見える。
最近はこういう夢を見た時はミリィが起こしてくれていた。それで現実世界に引き戻されていたのだが、今日は誰も起こしに来ない。
「今、何時だ……?」
窓から陽が差し込んで部屋は明るかった。随分と寝過してしまったようだ。のろのろとベッドから滑り落ちるように降り、まだぼーっとしている頭を左右に振って意識をはっきりさせた。
フィゼルは部屋を出てミリィとルーが泊まっている部屋の前まで来た。昨夜のことを思い出して、ドアをノックしようとした手が寸前で止まる。
バツの悪そうな顔でしばらく悩んだ後、フィゼルはドアをノックした。「起きてる?」と声をかけたが返事がない。ドアノブに手をかけたが鍵は掛かっていないようだ。またしばらく悩んで、ゆっくりドアを開けた。
「ミリィ……? ルー……?」
ドアの隙間から顔だけ突っ込んで、フィゼルは二人の名前を呼んだ。しかし返事はない。女の子だけの部屋に入っていくのはさすがに気が引けたが、フィゼルは意を決して中に入った。
二つあるベッドのうち一つは空いていた。だが部屋の中に人の動く気配はない。
「ルー……ルー、起きなよ」
ベッドで寝ていたのはルーだった。もういい時間のはずだが、ルーは幸せそうにすやすやと寝息を立てている。
「俺より寝起きが悪い奴を初めて見た……。おい、いい加減起きろって!」
フィゼルはルーがくるまっているシーツを剥ぎ取ろうとした。そのまま勢い余ってルーがベッドの反対側から転がり落ちる。
「ふにゃっ!」
落ちた衝撃でようやくルーが目を覚ました。
「ああっ、ごめん大丈夫!?」
ちょっとやり過ぎてしまったと思ったフィゼルが、慌ててベッドの向こう側に回った。
「あ、フィゼルさん。おはようございます~。はれぇ? なんでぇ、ルー床で寝てるんですかぁ?」
さっき自分がベッドから落とされたことを全く覚えていないようだ。フィゼルは色んな意味でほっとした。
ミリィは先に宿を出てしまったようだ。昨日のこともあるし、やはり本当に一人でアレンを探すつもりだろう。
二人は随分と遅い朝食をとり、宿を出た。高く昇った太陽は、もう朝というより昼が近いことを示している。
「よし、じゃあ早速ウンディーネの人達に会いに行こう」
宿でウンディーネが公演を開いているという劇場の場所を聞いた。そこへ行けば関係者に会えるだろう。
「はい……。でもぉ……」
ルーは俯いていた。何かに怖気づいたように足が重い。
「昨日ミリィに言われた事、気にしてるの?」
ルーも昨日の事を気にしていた。いや、昨日の事がなくても、やはり及び腰になってしまうだろう。天真爛漫に見えるルーでも、こういう局面では足を踏み出す勇気がなかなか出てきてくれないようだ。
「大丈夫だよ、俺がついてる。絶対にルーの両親だって、ルーに会いたいはずさ」
その根拠はどこにもない。我ながら無責任な言葉だとフィゼルは思ったが、それでもルーを勇気づけるには十分だったようだ。
「でもミリィの奴……なんだってあんな事を……」
あんな無神経な事を言う人間だとは思わなかった。思わず感情的になり過ぎてしまったことは反省するけれど、それでもミリィが言った事を認めるわけにはいかないというのが正直な気持ちだ。
「でもミリィさん、すごく哀しそうな眼をしてましたぁ」
ぽつりとルーが言った。「えっ?」とフィゼルがルーを振り返る。
「きっとぉ、何か事情があるんですよぉ」
その言葉にフィゼルははっとした。ミリィだって何かとてつもないものを背負っているはずだ。昨日の言葉はそこから来るものだったのだとしたら――
「……そうかもしれない。俺、ミリィに謝らないと」
ミリィの背負っているものの大きさも考えず、無神経な事を言ってしまったのは自分の方だったのかもしれないのだ。
「それがいいです~」
ルーがようやく笑顔になった。ルーにとって自分のことよりも、フィゼルとミリィが自分のせいで喧嘩してしまったということの方が心配だったみたいだ。その笑顔に思わずフィゼルは頬を赤らめた。まるで自分だけが幼稚な子供だったみたいに思えて、急に恥ずかしくなった。
フィゼルは静まり返った昨夜の街の姿からは想像もできないほどの雑踏に眼を回しながらも、ルーに手を引かれながら何とか宿で教えられた劇場までやって来た。長閑な山村で暮らしている割に、ルーは都会の人ごみに慣れている。
見上げるほどの大きな建物は全て石造りで、しかし無機質は印象を受けないのは壁から柱の一本一本にまで施された細やかな彫刻のおかけだろう。周りの建物に比べても一際派手で、かつ気品が漂っていた。
「あの、ウンディーネの劇団員に会いたいんですけど」
入口を入ってすぐのカウンターの受付嬢にフィゼルは来訪の意を告げた。だが返ってきた言葉は素気ないものだった。
「ファンの方? 残念だけど面会はできないの」
フィゼル達をただのファンだと思っているらしい。きっと人気の劇団だから、こういう風に劇団員に会いたいと押しかけてくるファンも珍しくないのだろう。
「いや……俺達、そういうんじゃなくて――」
ここまで言ったところで、フィゼルは言葉に詰まった。自分達をどう説明すればいいのかと迷ったのだ。ルーの事情を話していいものだろうか。話せば余計ややこしい事になりそうな予感がした。
「あ、そうだ。俺達、落とし物を預かってるんだ」
フィゼルは昨夜ミリィが自分の部屋に置いていったままのブレスレットを持っていることを思い出した。
「これ、ウンディーネの人達のだって聞いたんだけど」
フィゼルがブレスレットを見せると、受付嬢はそれをじっと眺めていたが判断が付きかねたようで、「少々お待ち下さい」と改まった言葉を残して奥に引っ込んだ。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
しばらくして再び出てきた受付嬢は、二人をどこかへ案内するように歩きだした。どうやら劇団員に会わせてもらえるらしい。
メインホールを迂回するように伸びる細長い廊下を案内されて、二人は劇団の控室に通された。今は上映中ということもあってか、控室にいる人数は少ない。
「あっ! 私のブレスレット!」
その場にいたのは皆煌びやかな衣装に身を包み、美しくメイクアップされた若い女性ばかりだった。その中でただ一人、普通の服装でメイクもしていない少女がフィゼルの持つブレスレットを見るなり飛びついて来た。
「ありがとう、ありがとう! これ失くしたら私……」
うっすらと涙を浮かべるほど少女は感激し、フィゼルに抱きついた。突然で思いもよらない少女の行動に、心臓が飛び出すんじゃないかと思うほどフィゼルは驚き、顔を真っ赤にした。
続いてルーにも抱きついた少女は、それでようやく落ち着いたかと思いきや、その次に仲間の女性の胸に顔を埋めるようにして泣きじゃくった。この場にいた中では一番年上と思われる女性がその子の頭を撫でながら宥める。
「ごめんなさいね。この子ったらそのブレスレット失くしてからずっと落ち込んじゃってて。でも、それだけ私達にとっては大切な物だったの」
胸の中で少女を宥めながら、女性はちょっと困ったような笑顔をフィゼル達に向けた。フィゼルはまだばくばくしている心臓を懸命に抑えようとしながら、このブレスレットが思っていた以上に落とし主にとって大切な物なんだと理解し、それを無事に届けられたことに喜びを感じていた。
「さて、ちゃんとお礼をしなきゃいけないわね。ほら、あなたも泣いてばかりいないでしゃんとしなさい」
ようやく女性の胸から引き剥がされた少女が改めて二人に深々と頭を下げた。
「そんな、お礼なんていいよ。俺はただ馬車に置き忘れてたのを届けただけだからさ」
フィゼルが慌てて手を振った。少女が「やっぱりあの時落したんだ」と自らを戒めるように自分で自分の頭を叩いた。その時、後ろにいた女性が不思議そうに首を捻った。
「あれ? 馬車に置き忘れてたのなら、どうして君達がここへ持って来れたの?」
フィゼルは「しまった!」と思った。王都は今、立ち入り禁止である。すでに王都の外に出てしまった馬車の落し物を届けられるはずがない。
「まあいいわ。あなた達はこの子の恩人なんだもの。細かい事は言いっこなしね」
女性は狼狽するフィゼルの様子を見て察したようだ。だが大事なブレスレットを届けてくれた恩人を憲兵に突き出すようなことは考えていなかった。
「だけど、君達もできたらこの事は内緒にしててほしいな。このブレスレットってね、本当に私達にとって大事な物なの。失くしたりしたら劇団をクビになるところだったのよ」
その言葉にフィゼルとルーは何度も頷いた。自分達の事を憲兵に黙っていてくれることを考えれば、お安い御用というものだ。
「あの、俺達……実はこれ以外にも用事があって……」
フィゼルはここでようやくもうひとつの目的について触れた。ルーの左手を、ブレスレットが皆に見えるように持ち上げさせる。
「あっ、私達と同じブレスレット!」
さすがに劇団員の若い娘達はすぐに分かったようだ。わらわらとルーを取り囲むように集まって、ルーのブレスレットをじっと見つめた。その状況に圧倒されながら、ルーはおずおずと説明し始めた――
≪続く≫
作者のルーへの愛情が強すぎて(笑)、ちょっと引っ張り気味です^^;