第11話
ようやくフィゼルの秘密が少し判明します。
フィゼルは甲板に出て、船端の手摺に捕まりながらゆっくりと遠ざかってゆくモーリスの港町を眺めていた。まだ出港してからそれほど時間は経っていないのに、もうサイモン島の全容が一望できるようだ。
大まかな地図ぐらいは持っているので、世界全体から見ればサイモン島がどれほど小さな島かということは知っていた。それでもフィゼルがこの島で過ごした一年は沢山の思い出に溢れている。フィゼルにとってはこの小さな島が世界の全てだった。今、その何十倍、いや何百倍もの広大な世界に飛び出して行こうとしている。
怖いのかもしれない。右も左も分からない世界で、恐ろしく困難な目的を持って旅をするということに、期待よりも不安のほうが大きいのは確かであった。
それでも動かないと何も始まらないという、一種の焦りにも似た感情がさっきのみっともない行動に現れたのだろうとフィゼルは思った。実はフィゼルにもそれなりの理由があってのことだったが、冷静に考えれば根拠というには余りにも曖昧で頼りないものだったので、それを上手く説明できずに部屋を飛び出してしまったのだ。
「何、考えてるの?」
不意に後ろから優しい声をかけられ、振り返るとミリィが傍まで来ていた。それを境に雑多な人々の声が聞こえてきて、甲板には沢山の人が出ていることに気が付いた。さっきまで何も聴こえないくらい、物思いに耽っていたようだ。
「ミリィ……」
自分のことを追いかけてくれたのだろうか。もしそうなら凄く嬉しいことなのだが、フィゼルは何も言えず、ミリィもそれ以上何も言わなかった。ただ表情は穏やかで、笑顔というわけではないが、こんなに優しげな顔を見たのは初めてな気がした。
ミリィはフィゼルの横に並び、さっきまでのフィゼルのように手摺に手を掛け、黙って海を眺めた。潮風が彼女の美しい藍色の髪を優しくなびかせる。フィゼルも再び縁の方へ向き直り、二人は暫く無言のまま波の弾ける音をただ聞いていた。
お互い切り出すきっかけがなかなか掴めないまま、徒に時間だけが過ぎていく。
「あ、あの……さ」
堪りかねたようにフィゼルが切り出した。喉につっかえて上手く出てこない言葉を懸命に押し出すように口を開く。
「さっきは、その……ごめん」
フィゼルは小さく呟いた。ともすれば波と風の音でかき消されてしまうような小さな声だったが、ミリィはその言葉に応えた。
「ちょっとびっくりしたかな。だって凄い剣幕だったから」
そう言ってミリィは少しだけ笑った。「別に気にしてないよ」と言外に込めたつもりだったが、フィゼルはもう一度「ごめん」と詫びた。
会話が再び途切れた。二人はまた暫く無言で、次に切り出すべき言葉を流れる波の間に捜している。
再び切り出したのもやはりフィゼルだった。
「あのさ、俺達って以前どこかで会ってないかな?」
「えっ?」
まるで古いナンパの定番みたいなフィゼルの言葉に、ミリィは一瞬意表を突かれたような顔をした。
「何、突然?」
怪訝そうな顔をするミリィ。
「どこかで一度会ってるような気がするんだ」
フィゼルはそのままの言葉を返した。ミリィはますます首を傾げてしまった。
「だって、私があの島を訪れたのは今回が初めてよ。フィゼルだって島を出たことは無いんでしょ?」
当然ミリィには心当たりは無かった。フィゼルは背格好に特徴があるタイプではないので、どこかの街ですれ違うことがあったとしても印象には残らないかもしれないが、そもそもあの島に来たことがないのだから、フィゼルにも会っているはずがない。
「う、うん……そう、だよね。ごめん、また変なこと訊いちゃって」
ミリィの当然の理屈に納得した様でもあったが、フィゼルの言葉はどこか煮え切らない感じがした。それがミリィには一層不可解であった。
「どうしたの? 今日は朝から変よ?」
いつもと違うと判断するには、二人が行動を共にしていた時間は余りに短過ぎるものの、ミリィには何か尋常でない空気をフィゼルから感じていた。
「それに、記憶ってどういうこと?」
その話の流れでミリィはつい踏み込んだ質問を投げ掛けてしまった。先程のアレンの言葉が妙に気にかかっていたのだ。
「えっ?」
フィゼルは予想外の言葉に少し戸惑って、しばらく俯いてしまった。
「あっ……ご、ごめん。別に詮索するつもりじゃないの」
フィゼルの戸惑いを別の意味で解釈したらしく、ミリィは慌てて釈明した。
「ただ、その……あなたには助けてもらったから」
だから相談に乗ろうと思ったのか。ミリィは自分でも馬鹿なことを言っていると感じた。自分の事は一切語らず、そのくせ他人の事情に首を突っ込もうというのだから、身勝手な話と思われても仕方がない。
「ありがとう。優しいんだな、ミリィって」
ミリィの慌てた顔が可笑しくて、フィゼルは微笑んだ。それと、自分を心配してくれるミリィの心遣いが嬉しかった。
「別にお礼を言われるほどの事じゃ……」
ミリィはフィゼルから顔を逸らし、背を向けてしまった。照れているのか、頬が赤くなっているのが一瞬見えた気がした。
最初に出会った時のインパクトが強過ぎたためか、同い年ぐらいの女の子なんだという意識が少なかった。何の事はない、ミリィだって普通の女の子なのだ。フィゼルは少し笑って、また顔を海の方へ向けた。
「記憶が、無いんだ――」
背中から聞こえたその言葉は、ミリィにとって意外なものだった。振り返るとフィゼルは遠く海を眺めている。
「記憶が……無い?」
ミリィはその言葉がどこまで深い意味を持っているのか計りかねていた。
フィゼルは小さく頷いて遠くを見つめたまま話を続けた。
「一年前、大怪我して倒れていたところを先生に助けられたんだ。だけど、先生の家で目を覚ました俺は、それ以前の記憶を全部失くしていて、自分が何者なのか、なぜあの島にいたのかも全く覚えていないんだ」
自分の本当の名前すら分からない。フィゼルという名は、このままでは不便だから、と本当の名前を思い出すまでということでシェラが付けてくれた名だ。結局、それも含めて何一つ思い出せなかった。
「怪我を治しながら一生懸命思い出そうと努力したけど、何も浮かんでこなくて」
そこでフィゼルはちょっと笑った。その表情には悲壮感は漂っていない。沈痛な面持ちで聞いていたミリィにはそれが不思議だった。
「それじゃあ、さっきの爆発とか時計塔だとかいうのは?」
あの時のフィゼルは物凄く真剣な眼をしていた。間違いなくその記憶に関するものであろうとミリィは思ったが、フィゼルは何一つ記憶は戻っていないと言う。
「うん、はっきりとした記憶は全然戻らなかったけど、最近よく同じ夢を見るんだ」
それが、雪の降り積もる街を高い時計塔の屋上から見下ろしている自分の姿。しかもその姿は五、六歳ほどの子供であった。そしてその時計塔が爆発して崩れていく光景――
「それが本当に自分の記憶に関係するものなのかは分からないけど、今はそれだけしか手掛かりがないから」
だからまず目指すのは雪の降る街ということになる。雪に覆われた街を巡って、夢の光景と一致する場所を探すつもりだった。
「そうだったの……」
ミリィは顔を曇らせた。今までフィゼルのことを世間知らずの田舎者と思っていた。まさか、そんな事情があったなんて夢にも思わなかった。
ミリィは「ごめんなさい」と小さく呟いた。しかしその声は波と風の音にかき消されて、フィゼルには届かなかった。
≪続く≫