第10話
港は大勢の人で溢れていた。ようやく運航が再開された連絡船に、我先にと人々が群がっている。よく見ると押し寄せる人々を抑えるためか、憲兵の姿もいつもより多かった。もう船は満員だと説明する係員に、凄い剣幕で詰め寄っている人間もいた。
「ひえ~、すごい人だかりだな。こんなので俺達船に乗れるのか?」
フィゼルは初めて見る黒山の人だかりに圧倒された。モーリスへは何度も来たことはあるが、こんなにも人が溢れ返っているのは初めての光景だった。
「大丈夫ですよ。何とかチケットは確保できました」
ただ……とアレンは語尾を濁した。フィゼルがそれに反応すると、「まあ入れば分かりますよ」とこれまたはっきりしない言葉が返ってきた。
人ごみを掻き分けるようにして桟橋まで進み、係員に人数分のチケットを見せる。その際フィゼルは、アレンが差し出したチケット三枚のうち、一枚だけ色が違うのに気付いた。
「二部屋取りましたからね。部屋の規格によって色分けされているのですよ」
アレンがそう言うと、ああそうかとフィゼルも納得した。ミリィは一人部屋で、自分とアレンが二人部屋に入るのだとフィゼルは思った。極々当たり前のことである。
しかし案内された船室に入ってみると、部屋には備え付けのベッドが三つあった。三人部屋なのだ。それについてアレンに質問しようと、フィゼルが口を開きかけた時、廊下からミリィの怒鳴り声が聞こえてきた。
「いい加減にしないと張り倒すわよっ!」
船全体がびりびりと震えるような迫力ある怒声に、思わずフィゼルはその場で飛び跳ねた。次の瞬間ドアが勢い良く開き、鬼の形相のミリィが部屋に入ってきた。一歩毎にどしんどしんという音が聞こえてきそうな怒りようだ。
「どっ、どうしたのミリィ?」
あまりのミリィの形相に、フィゼルが声を上擦らせる。廃坑で戦った化け物よりも恐ろしいと思った。
「やっぱり私、この部屋で寝ます。あんな男に借りを作る必要なんてありません」
ミリィは抱えた荷物を乱暴にベッドに放り投げてアレンに言った。アレンもミリィの迫力にちょっと気圧され気味だ。
「あんな男?」
とフィゼルが言いかけた時、どこからともなくリュートの音色が響いた。フィゼルとアレンはきょろきょろと辺りを見回し、ミリィは右手で頭を抱え、深く深く溜息をついた。
ああ 何故にあの人にこの気持ちは届かない
他には何も望まない この命でさえも
ただひとつ 愛しい人が笑いかけてくれるなら
リュートの穏やかなメロディーに乗って、男の歌声が聴こえてくる。フィゼルは咄嗟にドアへ顔を向けた。次の瞬間、心底嫌そうな顔でミリィに負けないくらいの大きな溜息をつく。
「またお前か……」
もうミリィが何をそんなに怒っているのか訊く必要もなかった。原因は間違いなくこの男だ。性懲りもなくミリィを口説こうとしつこく迫ったに違いない。
「どうだい? ボクの今の気持ちを即興で唄にしてみたのだが」
男はリュートの弦をジャランと爪弾いて演奏を終えた。曲や歌だけを聴いたなら惚れ惚れするところなのだが、どうしてこうも人格が伴わないのだろうか。
(本当に死んでくれるなら、いくらでも笑ってあげるのに)
ミリィは心の中で吐き捨てた。
「どうでもいいが、お前はピアニストじゃなかったのか?」
「フフン♪ 天才は得物を選ばないものさ」
長い髪を掻き上げながら男はキザっぽく笑って見せ、ミリィにウインクを投げ掛けた。当然ながらそれは見事なまでに無視されたが。
「まあまあ、とりあえず皆さん落ち着いて下さい」
このどうしようもない空気を打ち破ったのはアレンだった。いつの間にかテーブルに四つのカップが用意されており、紅茶が注がれていた。
「フィゼルも。これからグランドールに着くまで同じ部屋の仲間なんですから、そんな邪険にしないで仲良くしましょう」
アレンはそう言うなり椅子に座り、自分の淹れた紅茶を飲み始めた。フィゼルはその言葉で全てを察した。
今朝アレンが港で搭乗手続きを取ろうとした際、すでに船室はほぼ満室で三人部屋を一部屋取るのが精一杯だった。ミリィのことを考えてできれば二部屋取りたかったので、どうしたものかと思案していたところ、後ろからこの男に声をかけられた。すでに一人部屋を確保していた男に、アレンはそのチケットを譲ってほしいと持ちかけた。それをミリィに割り当てて、代わりに三人部屋の方にこの男を招こうと思ったのだ。
アレン以外の三人もテーブルに付き、カップに口を付ける。船窓の外で汽笛が大きく鳴り響き、船が動き出した。
「ボクは紳士だからね。快くアーリィのお願いを聞いてあげたのだよ」
アーリィとはどうやらアレンのことらしい。
「アレンさんのお気遣いはありがたいですけど、こんなナンパ男に借りを作るなんて真っ平です!」
ミリィはテーブルを叩かんばかりの勢いで言った。アレンに言ったのか、斜向かいの“ナンパ男”に言ったのかは分からない。とにかくこの男と関わりを持つこと自体が嫌なのだろう。
「おお、それは誤解だよ。ボクは美しい女性にただ敬意を表しているだけだよ」
「あなたの敬意の表し方ってのは、いきなり部屋に入ってきて下らない戯言を並べ立てることなのっ!?」
“下らない戯言”というのがどういうものなのか、ミリィの怒りようで大体推測できる。フィゼルは自分とは全く異質な生物でも見るように呆れた眼を男に向けた。
「ミリィさんのお気持ちも分かりますが……やはり女性の身ですし、フィゼルの精神衛生面にも宜しくありませんので」
アレンが笑いながら言うと、フィゼルは思わず紅茶を吹き出した。
「なっ、何言い出すんだよ先生!」
飲みかけた紅茶を気管に詰まらせ、大きく咳き込みながらフィゼルが顔を真っ赤にした。フィゼルのあまりの慌てぶりに、思わずミリィまで赤面してしまう。
すっかりアレンに丸め込まれた形で、ミリィは渋々了承した。ただ一つ、「この男から目を離さないように」と鋭い眼つきで念を押した上で。
「話がまとまったようで何よりです。せっかくですから、お互いに自己紹介しておきましょうか。このままでは何かと不便なので」
アレン自身は今朝の時点でこの男の名前を知っているのだが、フィゼルとミリィはいまだにお互いの名前も知らない状態だ。これから数日間同じ船の上なのだから、名前くらいは名乗っておいた方がいいだろう。
「こちらはフィゼル。訳あって一緒に暮らしています。そしてこちらが――」
フィゼルとミリィが露骨に嫌な顔をしたので仕方なくアレンが二人を紹介しようとしたのだが、ミリィの名を口にしようとしたところで男は手を上げてそれを遮った。
「こちらの美しいお嬢さんの紹介は無用さ。ミリィ君だろう?」
美しい女性の名は一度聞いたら決して忘れはしない、と男は得意げに言った。
「あなた、私達の話をどこかで盗み聞きしていたわね?」
ミリィは一度もこの男に名乗った覚えはない。それなのに知っているということは、自分達の会話を聞いていたということになる。ミリィは険しい眼で男を睨みつけた。
「ハッハッハ。そんなに怖い顔をしないでくれたまえ。君の美しさはボクのような高貴で礼節を重んじる紳士でさえ、無作法な愚か者に変えてしまうというだけさ」
一体どの口が言うのか。ここまで臆面もなく言い切られると、もう突っ込む気力も無くなり、ただただ呆れるばかりだ。しかもミリィの名前しか覚えていないのだから、何とも都合のいい男である。
「では、今度は貴方の番ですよ」
そうアレンが促すと、男はゆっくりと立ち上がり、もったいぶるように髪を掻き上げた。
「ボクは美の伝道師にして愛の狩人。そして、神が創りし最高傑作との呼び声高いこの至高の指先が奏でる魅惑の旋律で人々を魅了して止まない稀代の天才音楽家――フレイノールの貴公子、レヴィエン・ヴァンデンバーグ!」
しかし、とレヴィエンと名乗った男はミリィに向けてウィンクをして、「今は君の美しさに心を鷲掴みにされた哀れな子羊さ」と笑った。
「いちいち長いのよ、能書きが」
レヴィエンの満面の笑みに、ミリィが冷ややかな言葉を返す。
「仕方ないのさ。ボクを称える美称は数多くてね。これでも掻い摘んでいる方なんだよ」
「どうせ全部自分で勝手に付けたものでしょうが」
変わらずミリィの視線は冷たい。
「やれやれ、つれないねぇ。雪国の女性は心が温かいと聞いていたのだが」
レヴィエンはわざとらしく肩を竦めて、首を振りながら再び座った。その言葉に、それまで呆れ顔だったミリィは眼を見開いて驚いた。
「なんで私の出身を……?」
今までミリィは自分の出身をフィゼルにもアレンにも話していない。自分達の会話を盗み聞きしていて、名前は分かったにしても雪国出身だということまでこの男が知っているはずがなかった。
「フフン♪ ボクの眼はごまかせないよ。その透き通るような美しい肌が何よりの証拠さ」
レヴィエンは事も無げにそう応えた。肌が白いから雪国出身に違いないとカマをかけたのだという。馬鹿馬鹿しい理由だが、この男の軽薄さにはむしろ合っていると思えた。
驚いたのはミリィだけではなく、むしろミリィ以上に衝撃を受けたのがフィゼルだった。
「ミリィって雪国出身だったの!?」
身を乗り出して詰め寄ったフィゼルの真剣な眼差しに、ミリィは思わずたじろいだ。
「そ、そうだけど……それがどうかしたの?」
その時、ミリィはフィゼルが雪国を目指していることを思い出した。
「ねえ、十年くらい前に爆発があった時計塔の話って聞いたことない?」
フィゼルの質問は余りに唐突過ぎて、ミリィには全く要領の得ない話であった。無論ミリィには心当たりなど無く、「いきなりそんなことを訊かれても……」と戸惑った。ミリィは絶対に何か知っているはずだと決めてかかるように詰め寄るフィゼルを、アレンが手を上げて制する。
「落ち着きなさい、フィゼル。いくらミリィさんが雪国の生まれだからといって、それが貴方の記憶に関係するとは限らないでしょう?」
(記憶……?)
アレンから発せられた単語に、ミリィは心の中で首を傾げた。記憶とは一体どういうことだろう――
「そ、そうだよね……ごめん、俺――」
ようやく我に返ったフィゼルは、耳まで真っ赤にして俯き、「頭を冷やしてくる」と口の中で呟いて部屋を飛び出していってしまった。
「何だい何だい? 全くもって理解不能だねぇ」
レヴィエンが呆れたようにフィゼルの飛び出していったドアを見遣りながら肩を竦める。ミリィはその言葉に何故か腹が立ち、思い切りレヴィエンを睨み付けた。
「ミリィさん。申し訳ありませんが、フィゼルの様子を見てきてもらえないでしょうか?」
不意に声をかけられて、ミリィは隣のアレンに顔を向けた。アレンはミリィの方へは向かず、じっと正面を見据えたままだ。
ミリィは小さく頷いて、フィゼルの後を追った。レヴィエンと向かい合わせに座っていることにも嫌気が差していたし、フィゼルのことも心配だった。さっきのフィゼルの眼は尋常ではなかった。
ミリィがドアを開けて廊下に出た瞬間、ぞくっと背筋に悪寒が走ったような気がして、咄嗟に後ろを振り返った。閉じてゆくドアの隙間から覗いた部屋の中の空気はさっきまでと一変して、どこか張り詰めたような緊張感が感じられる。ドアが閉まっても、ミリィはすぐにはそこから動けず、しばらくそのままドアを見つめていた。
≪続く≫