第9話
フィゼルは夢を見た。最初に見えたのは雪。天も地も白く染まった銀世界。
――いつもの夢だ
夢の中でフィゼルはそう思った。しかし今まで見てきた景色と少し違う。目線が低い。いつもなら時計塔の屋上から子供の自分が白く染まる街を見下ろしているのだが、今回は同じ地平に立っている。自分の身体も大きかった。子供ではなく、今の自分と同じくらいの背格好であるように思えた。長いローブで身体を覆い、フードで顔を隠している。
――ここはどこだ?
いつもの街の中ではない。雪に包まれてはいるが、今自分が立っているのは街中ではなく、だだっ広い雪原のようだ。ところどころに樹が生えており、全身に雪を纏っている。
にわかに強く風が吹いた。ローブの裾がばたばたと棚引く。
――人だ。人が倒れている
粉雪に一瞬目の前を真っ白に覆われ、それが晴れると目の前に一人の女性の姿が現れた。
女性はうつ伏せに倒れており、周辺の雪が赤く染まっていた。明らかに尋常ではない量の血が流れている。
――大変だ! 助けないと……っ!
そう思ったのだが、身体が動かない。ただただ目の前に蹲る女性を見下ろしている。とても冷たい眼をしているのが自分でも分かる。なぜ自分はこんな冷たい眼でこの女性を見下ろしているのだろうか。
――っ! 誰か来る
雪原の向こうから誰かが走ってくる。強く風が吹く度、目の前が白く煙るので影くらいしか認識できなかったが、確かに一人の人間がこちらに向かってきていた。
はっきりとした姿が認められるほどに近づくと、その影も自分と同じようにローブですっぽりと全身を覆っているのが分かった。顔は見えない。
「お母さん……お母さん!」
そのローブに覆われた人間は目の前まで走ってくると、倒れている女性に覆い被さった。泣きながら母を呼ぶその声で、この人間が若い女性であることが分かる。どこか聞き覚えのある、少女の声だ。
ローブの少女の顔が自分を見上げた。涙に濡れ、憎しみに歪んだ顔がフードの隙間から覗く――
「……ゼル、フィゼル……フィゼルってば!」
ミリィの大きな声でフィゼルは眼を覚ました。夢の中から突然現実に引き戻されたフィゼルは、しばらく頭が働かなくて天井をぼんやりと眺めていた。
「ちょっとフィゼル。いつまで寝てるつもり?」
天井を眺めていたフィゼルの視界にミリィの顔が割り込んだ。突然フィゼルの心臓が大きく跳ね上がる。
「あれ……ミリィ?」
一拍ドクンと大きく鳴った心臓に、思わず胸を押さえながらフィゼルが頓狂な声をあげた。
「何、寝ぼけた声出してるの。お日様はもうとっくに顔を出してるのよ」
ミリィに急かされるようにして、フィゼルはベッドから降りた。そして目の前の顔をじっと見つめる。
「何?」
ミリィが首を傾げ、フィゼルは慌てて眼を逸らした。
「あっ、いや……そういや俺、いつから寝てたんだろ」
フィゼルは自分でも間抜けだと思えることを言った。昨日の夕方、この部屋に入った直後から記憶が無いのだから、それからずっと寝ていたに決まっている。
「……大丈夫?」
ミリィが怪訝そうな顔で尋ねた。フィゼルの挙動がおかしいのも気になったが――
「何だか顔色、悪くない?」
昨夜の食事の際、もうフィゼルが寝てしまったことをアレンから聞いた時には、相当疲れていたのだろうとしか思わなかったが、もしかしたらどこか体調が悪いのかもしれないと心配になった。
「大丈夫だよ。ただちょっと……」
変な夢見たから、とフィゼルは顔を曇らせた。
今まで見たことの無い夢だった。目の前で倒れている女性。真っ白な雪を染めた血の朱が異様に鮮明で生々しかった。そしてその後出てきた少女。あれは――
「っつ……!」
そこまで夢の内容を辿ったところで、突然フィゼルは頭を押さえた。
「どっ、どうしたのフィゼル!?」
ミリィは驚き、足元をふらつかせたフィゼルを慌てて支えた。フィゼルの額には汗が滲んでいる。
「やっぱりどこか悪いんじゃないの? アレンさん呼んでくるから、もう少し休んでて」
フィゼルをベッドに座らせると、ミリィは一足先に港の様子を見に行ったアレンを呼びに部屋を出て行った。
一人部屋に残されたフィゼルは、そのままベッドに寝転んでぼんやりと天井を眺めた。窓の外からは通りを行き交う人々の喧騒が聞こえてくる。どうやら連絡船の運航が再開されるらしい。長い間この街に足止めを余儀なくされた人達が慌しく港へ駆けていく。
(あの夢は一体何だったんだろう……)
窓の外の現実から切り離されて、フィゼルの思考がゆらゆらと夢と現の間を彷徨う。心は落ち着いていた。さっきは割れるように痛んだ頭も、今はもう何ともない。
フィゼルはゆっくり眼を閉じ、記憶の海に潜るように夢の内容を再現しようと試みた。今まで度々見てきた夢とは明らかに違う。
雪原、血を流し倒れている女性、その女性に駆け寄り泣き叫ぶ少女――
(あの女の子の顔は……)
思い出せなかった。確かに一瞬ではあるがフードの隙間からはっきりと覗いたはずなのに。最後のシーンになると突然全てが真っ白になってしまう。
暫くして、ミリィがアレンを連れて部屋に戻ってきた。心なしかミリィは少し焦っているように見える。そのせいかアレンが余計に落ち着いて見えた。
「気分はどうですか?」
アレンがフィゼルの脈を取りながら訊いた。フィゼルが平気だと答えると、次は額に手を当てて熱を見る。一通り診察してから、アレンはにっこり笑って「心配ないですよ」と言った。
「特に異常は見受けられません。突然頭痛がしたとのことですが、今はもう大丈夫なんでしょう?」
フィゼルが頷いても、アレンの後ろにいたミリィは心配そうな顔のままだった。
「本当に大丈夫? さっきのあなた、ちょっと普通じゃなかったわよ」
よほど先程のフィゼルの様子に驚いたのか、アレンが心配ないと言ってもすぐには安心せず、フィゼルが何度も「大丈夫だよ」と笑ってようやく納得した。
(結構キツイ所があると思っていたのに、やっぱり優しいんだな)
フィゼルは心がほぅっと暖かくなるのを感じた。
「そういえば、船出るようになったみたいだね」
ミリィと眼を合わせるのが気恥ずかしくて、フィゼルは無理に視線を窓の外に向けながらアレンに言った。
「ええ、彼が上手くやったようです」
その言葉でフィゼルは昨日の男を思い出した。
「結局、あの男は何者だったんだ?」
普通の一般市民ではないことはもうフィゼルにも分かっている。フィゼル達を唆して廃坑に向かわせ、自分も後から密かについて来て肝心なところを全部持っていってしまったのだ。とてもじゃないが信用できる感じではなかった。
先生は何か知っているはずだ。そう思ってフィゼルが訊いてみても、はぐらかすばかりではっきりとは答えてくれなかった。
「それよりも、もうそろそろ船が出港する時間です。フィゼルもどうやら大丈夫のようですし、急いで港に向かいましょう」
そう言ってアレンはこの話を強引に打ち切った。フィゼルは不満そうな顔をしたが、船に乗り遅れてはまずいのでとりあえず黙って従った。
≪続く≫