第8話
真っ白になった世界の中でフィゼル達三人は反射的に後ろへ飛び退き身構えた。視界が徐々に元に戻ってゆく。始めはぼんやりと、次第に輪郭がはっきりしてくる。
さっきと変わらない廃坑のどん詰まり。唯一つ、しかしあまりにも大きく変わってしまった景色に、フィゼルとミリィはぽかんと口を開けたままその場に立ち尽くした。
さっきまで目の前にいたはずの男の姿はそこには無い。代わりに異様な化け物の姿があった。
何とか人間の形に見えなくもない。しかしそのサイズは人間と呼ぶにはあまりに大きく、骸骨が薄皮一枚纏ったようなごつごつしたその姿からは人間らしさの欠片も見当たらなかった。赤黒く染まった全身からは吐き気を催すほどの悪臭と、思わず後ずさりしてしまうほどの禍々しい邪気を発している。
「あ……アニキ?」
声を震わせながら、子分の一人が化け物に近づいた。化け物の赤く光る眼が横に滑り、その男を捕らえる。
「危ない!」
化け物の大きな手が男に襲いかかる刹那、アレンが間に割って入り、刀で化け物の鋭い鉤爪を受け止めた。アレンだけはこの冗談のような状況にも思考は止まらず、化け物の動きに瞬時に反応することができたのだ。
「早く逃げなさい!」
アレンが叫ぶと、子分の二人は飛び上がり、ひっくり返った声で悲鳴を上げながら一目散に逃げ出した。
「先生!」
呆然としていたフィゼルも剣を抜き放ち、アレンに加勢しようと化け物に突進する。フィゼルが振り下ろした剣は、化け物のもう片方の手によって受け止められた。化け物をフィゼルとアレンが挟み込む形になり、しばらくそのままの体勢で力比べになった。
「くそっ! なんて馬鹿力だ……っ!」
力の限り押しているのに、フィゼルの剣は一向に化け物に届かない。その代わり押し返されることもなかった。
「そのまま動かないで!」
このまま持久戦になるかと思われたその時、ミリィが高らかに呪文を唱えた。掲げられた両手を化け物に向かって振り下ろす。するとミリィから化け物に向かって一直線に地面が氷漬けになっていき、やがてそれは化け物の足元に到達して膝の高さくらいまでを凍らせた。
『グゥオオォォォ!』
化け物が低く割れるようなダミ声で唸った。足が完全に凍り付いてしまっているので、上半身だけをじたばたさせてもがいている。フィゼルとアレンはミリィの魔法が化け物に直撃する瞬間に後ろへ飛び退いていた。
化け物に正対しているミリィの元へ二人が戻る。化け物は身動きが取れなくなって、ただ洞穴をびりびりと震わせる咆哮を上げるだけだった。ぱらぱらと塵のように小さな石が天井からこぼれ落ちる。
そして再びミリィが呪文を唱えた。今度は足だけでなく全身を氷漬けにするつもりで、さっきよりも長く深く意識を集中させて詠唱する。
しかしその時、突然化け物の戒めが解けた。その場に縛り付けていた氷を力尽くで打ち破り、自由になった化け物の両足が鋭く地面を蹴る。
呪文の詠唱に集中していたミリィは咄嗟の化け物の突進に反応できずにいた。無防備なその身に凶悪な鉤爪が襲いかかる。が、その鉤爪を寸でのところでアレンの刀が受け止め、同時にフィゼルの剣が横一文字に滑空し、化け物の胴を切り裂いた。
『グオオオォォォ!!』
ちょうど腰の辺りの左半分を切り裂かれ、化け物が一際大きく吠えた。耳を劈くほどの大音声に、三人の身体が一瞬硬直する。
化け物はその瞬間を見逃さなかった。腰からどす黒い血を噴き出しながら高く跳躍すると、三人の頭上を飛び越え、その後方へと走っていく。
「しまった!」
三人が振り返った時には、すでに化け物の姿は遠ざかる足音だけを残して暗闇の先に消えていた。このままでは逃げられてしまう――
――ターーン!!
三人が急いで後を追おうとした時、坑道の中に銃声が木霊した。銃声の本体は一発だけだったが、その音は壁に、天井に、地面に反響していつまでもいつまでも耳に纏わりつくように響いた。
「銃声……?」
木霊がようやく収まって、三人は再び足を動かした。化け物が逃げ出した時は大急ぎで追いかけるつもりだったが、坑道の先に銃を持った何者かがいるということが分かった今、慎重に歩を進める必要があった。カンテラの照らす範囲は銃の射程に比べ、あまりに狭すぎる。向こうがその気なら、こちらが相手を認識する前に銃弾を撃ち込むことも可能だろう。
眼で銃声の主を認識できないなら、神経を研ぎ澄まして気配を探る他ない。三人は臨戦態勢のまま、ゆっくりと坑道を逆行した。
「ハッハッハ。そんなに警戒しなくてもいいよ」
しばらくして、コツコツとこちらに近づいてくる足音と共に陽気な男の声が聞こえた。聞き覚えのある声だと三人が顔を見合わせたとほぼ同時に、一人の男がカンテラの灯りの埒内に入ってきた。
「あっ――」
その後の言葉が接げなかった。この男をなんと呼べばいいのか分からなかったからだ。フィゼルは男を指差しながら口をパクパクさせた。
「何だい何だい、人を指差したまま金魚の真似事かい? まったく田舎者は礼儀というものを知らないねぇ」
男が鼻で笑いながら言う。
「お前に礼儀なんてあったのかよ」
フィゼルが眉間にしわを寄せて言い返した。なぜかこの男の言動はいちいち癇に障る。
「先程の銃声は貴方ですか?」
フィゼルを宥めてから、アレンが男に問い掛けた。臨戦態勢こそ解除していたが、相手の出方次第ではいつでも応戦できるように集中だけは切らさないようにしていた。
「いやぁ、実はこっそり君達の後を尾行けさせてもらったんだけど、いきなり化け物がこっちに向かってきたものでね」
男は懐から銃を取り出した。二十センチほどの幅広の銃身は煌びやかな装飾が施されている。それを前方に向かって撃つような仕草をした。
「で、仕留めたんですか?」
銃声は一発だった。まず間違いなく仕留めたということなのだろうが、念の為アレンは確認した。
「ハッハッハ。もちろんさ」
男は笑いながら銃をくるくる回して懐にしまった。相変わらずの芝居がかった仕草にフィゼルが辟易した顔で溜息をついていると、男はすっと三人の間をすり抜けて彼らが来た道を奥へと進んでいった。
「お、おい――」
予想外の男の行動に、フィゼルが慌てて呼び止めようとしたが、アレンがそれを制した。
「後のことは彼に任せて、私達は帰りましょう」
そう言うとアレンはさっさと坑道を出口の方へ歩いていった。これまた予想外の展開に、フィゼルがその場に立ち尽くす。
「行きましょう、フィゼル」
ミリィもその場で動けずにいたが、しばらくしてフィゼルにそう声を掛けると、ゆっくり歩き出した。フィゼルも戸惑いながらもそれに従った。
結局三人は廃坑を出てモーリスの港町に戻るまで一言も口を利かなかった。フィゼルにとっては不思議な事だらけで、訊きたい事は山ほどあったのだが、アレンもミリィも押し黙ってしまい、ずっと何事か考え込んでいたのでついに切り出せなかったのだ。
(あの化け物は一体何だったんだろう?)
それがまず第一の疑問だった。ただの魔獣であるはずがない。少し前まで普通の人間だったのだから。それが突然あのような異様な姿に変貌した。フィゼルでなくとも驚き戸惑うのが普通である。
しかしアレンはフィゼルのような戸惑いは見せなかった。化け物が窃盗犯の一人を攻撃した時も、いち早く反応してそれを防いだ。全く未知の事態に遭遇した人間の反応ではない。
きっと何か知っているはずだと思ったのだが、そこでふと、ミリィの様子にも違和感を覚えた。
フィゼルと同じようにミリィも、あの時は驚きのあまり身体が硬直していた。その後の顛末についても、フィゼル同様困惑していたように思えるのだが、アレンと同じように押し黙っているミリィはフィゼルとは全く違う戸惑いを感じているように見える。
三人が三様に思いを巡らせながら、モーリスに戻った時にはもう日が暮れかけていた。
宿に入り部屋を取る。夕食の時間にはまだ早いので、部屋で少し時間を潰してから、食事にするつもりだった。
フィゼルはここでようやく溜まりに溜まった疑問の山をアレンにぶつけることができると思っていたのだが、ベッドにごろんと転がった途端、この日の疲れがどっと出て、あっさりと眠りに落ちてしまった。
≪続く≫