一話
あの日は、雨だった。
今からちょうど三年前の六月、小学六年の頃の話になる。
休み時間の教室は、外に遊びに行けない子達も留まって、騒々しかった。そんな中で私も友達と二人で窓際でおしゃべりをしていた。
室内で鬼ごっこをしていた男子の一人が、鬼に追っかけられて真っ直ぐにこっちに向かってきた。曲がって逃げていくだろう――そう思った。
追いかけられていた男子は、鬼にタッチされそうになるやと見ると、私の目の前で、くるっと身体を翻して鬼の手を後ろに飛び退いて避けた。
その時だった。私の頭はガラスを砕いた。飛び退いた男子におもいっきり体当たりされたのだ。
病院に運ばれたが、頭も顔も少しだけ縫う程度で済んだし、幸い目立つような痕にもならなかった。その日の晩に、怪我をさせた男子とそのご両親が謝りに来た。
なのに、
「ごめん。本当に、ごめん」
その男子は翌日の放課後にも頭を下げにきたのだ。
その男子とは特に仲が良かったわけでもなく、「そういえば同じクラスだな」程度の関係だったけど、いつも元気にはしゃぎ回っていた印象があったから、沈んだ顔を見るのはあまり気持ちのいいものではなかった。
「もういいよ。大丈夫だったし」
「でも……スゲー怒られた。女の子の顔に傷つけて、って」
「私、可愛くないから別にいいよ。縫った痕とかも全然見えないしね」
「いや、ダメだよそんな……。ほんとオレのせいで、ごめん」
「だから、もういいってばァ」
「…………」
いっこうに晴れない男子の顔。
「あー、じゃあさ、じゃあさ。責任とって結婚、とか?」
もちろん冗談だった。そんなんいつの時代の話だよ、なんて言って笑ってツッコミを入れて欲しかったんだけど、
「……うん。いいよ」
「いや、あの……そうじゃ」
「責任とるよ」
「なく……て、さ……」
――なんてこったい。
冗談を言うにもタイム、プレイス、オケイジョンをわきまえなければいけないのだと、このとき学んだ。
己の空気の読めなささと浅はかさに、ほとほと嫌気がさしたエピソードである。
* *
「えっ、マジで許嫁なの?」
「そ」
「親が勝手に決めた、ってやつ?」
「いやいや、当人同士の合意で、デスヨ」
一番廊下側の席から聞こえてきた会話。一番窓際の席の私のところまで届いた。決して話声が大きかったわけでもなかったのだが、耳がキャッチした。
質問されて嬉々として答えているのが、杉元正太郎。どうしようもないアホだ。
なんでそういうコト人に言うかなぁ……。
「ユッキー、今のマジ? 付き合ってんのは知ってたけどさ、結婚を前提としたお付き合い、とかいうやつだったの?」
前に座っていたさよちゃんは身を乗り出して訊いてきた。さよちゃんは今年のクラス替えで一緒になった、新しい友達。
「んなワケ無いッショ。だいぶ痛いカップルじゃん、そんなの」
一応本当のことだけど、否定しておく。恥ずかしいってのもあるし。
「学生の身であるにもかかわらず、結婚しようね発言なんて、しょせんは夢物語。付き合いたての若者にありがちなんですヨ。フッ……」
「――って、ユッキーあんたいくつよ」
「あはは」
「てか、付き合いたてでもなかったよね」
「まあ……かれこれ三年」
そう、あれから三年。時間の流れとは恐ろしい。よくもまあ三年も続いたものだ。……正太郎は本当に責任をとるつもりなんだろうか。昔のあんな戯言を本気にして。
だとしたら、バカだ。アホじゃなくて。
……でも、私のせいでもあるんだよなァ。そうだ、ちゃんと言わないといけない。もう中学三年になったんだから。来年はたぶん高校に進むだろうし、区切りは良い……ハズ。
まあ、もともと遅いんだろうね。別れを切り出そうとするのがさ。
* *
放課後、掃除の時間。
「大山さん、こっちもチリトリいい?」
「ああ、うん」
急いで自分が集めたゴミを取って、谷口くんのもとにしゃがみこみ、谷口くんの箒の先にチリトリを構えた。
廊下掃除って二人でだけど楽でいいね。机とか運ばなくて済むし。
「……大山さん、ここ何か付いてる」
言って、谷口くんが自分の右頬を指差す。
「え、ウソ」パッパと左の頬を慌てて手で掃う。「取れた?」
「逆、逆」
今度こそ右頬を二、三回掃ってみたが、谷口くんは首を横に振る。
うぬぬ……しぶといゴミめ。――って、わう!
「ん、取れたよ」
いきなり手ェ出すな。心臓に悪い……。
「あ、アリガト」
私あんま男子得意な方じゃないんだぞ。一応彼氏なるものがいるケド。まだドキドキしてるし。谷口くん、顔けっこう良いもんなァ。優しいし、こりゃモテるはずだわ。さよちゃんに言ったら羨ましがられそうだ。
「由記子!」
あ、正太郎だ。もう掃除終わったのか。いいなー。
「まだ掃除やってんの?」
「もう終わるトコ」
「今日さ、俺んち来いよ」
「いや、最初からその予定だったじゃん。昨日タローが言ったんでしょ。何忘れてんの」
「あれ? そーだっけ?」
「てか、ちょっと待ってて。私ゴミ出しに行かなきゃなんだわ。ジャンケン負けた」
「それ、俺が行こうか?」
おっとお、谷口くん、なんて親切な申し出!
「ダンナ、待ってるみたいだし」
「ダンナじゃないデス」
「今度俺が負けたときにでも代わってくれればいいから」
「いや、でも、大丈夫だよ」
「いいって。部活が体育館だからついでだし」
「……ええっと、じゃあ、お願いしていい? 谷口くんのときになったら絶対に代わりますんで」
「うん。じゃあ、掃除お疲れ」
谷口くん……良い人や! 爽やかだし、そりゃモテるはずだわ。
* *
整理整頓された本棚に、消しカスひとつ落ちてない勉強机、寝具しか置いてないベッド(目覚まし時計すら無い。私のベッドの頭の方にある大量の時計を分けてやろうか。携帯程度じゃ起きない私さ)。床にゴミや脱ぎっぱなしの服が無いのはもちろんのこと、ゴミ箱の横に某消臭除菌スプレーまで。
相変わらずキレイな正太郎の部屋。くっ……! なんかくやしい。エロ本探したろ、エロ本。
「ちょっと……ひとの部屋で何してんの」
はっ! 見つかった! いつの間に戸口に。
「いやあ、なんか面白いもんないかなァとガサ入れ……」
「すんな!」
本人も戻ってきたことだし、私はおとなしく座布団に座りなおす。
「はい、アイスティーとりんごジュース。好きなほう飲んでいいよ。あとこれ、マジうまいよ」
そう言って正太郎はお菓子の袋を開けた。
「あー! 『チョコチョコスナック激甘くん』じゃないッスかー! 私もこれちょうど昨日初めて食べて、チョーおいしかった」
茶菓子も出すマメな男杉元正太郎、十五歳。グッジョブです。
「あっ、ねえ、ネコ吉は?」
この家にはネコ吉という名前の猫がいるのだ。猫飼いたいんだけど、私んちはマンションだし、親があんまり動物が好きじゃない。ぶー。だから正太郎の家に来てネコ吉に会うのも楽しみのひとつ。
「たぶん外、散歩中。さっき一階も探してみたけどいなかったし」
「そっか。残念」
「写真見る? この前言ってたネコ吉がコスプレしたやつ」
「見たい見たーい」
アルバムを正太郎から受け取って、二人で一緒に眺め見る。
「ふおおぉお……めっちゃ可愛い」
浴衣姿のネコ吉に、忍者ネコ吉。腹巻したオヤジルックなんて鼻血ブーもんじゃねっスか。
「ネコ吉最高。マジ癒される。私も猫飼いてー」
「あと三、四年したらユキもネコ吉と住めるじゃん」
あと三、四年……結婚できるお歳ですね、はい。笑顔でまだそのネタ言うか正太郎。やめてくれぇ。切り出しにくくなるじゃんか、別れ話。
しっかし、いつ言えばいいんだ? タイミングがとんとわからん。とりあえずネコ吉の写真を見終わってからにしよう。うん。
「――アハハ、ネコ吉寝ちゃってんじゃん」
「そう。着せられんのも慣れたっポイ」
「さすがネコ吉。大物だなァ」
……ん? 正太郎くん、キミちゃんとアルバムのほう見てる? なぜだかワタクシ視線を感じるんですが、気のせいでしょうか。
確認すればいいんだけど、なぜかこういうのって振り向けない……。なんか変に恥ずかしいというか、なんというか。こうなったらアルバムに顔をロックオンじゃ!
「――この澄ました顔つきが良いよね」
「ね」
ちょいちょいコメントしながらめくっていくが、全然写真を見れてない気がする。
あ……まずい。最後のページになってしまった。
ぬあー! 最後だけこんなにまじまじと見てたら変に思われる! いや、待て、落ち着け。実は正太郎こっち見てないかもしれないじゃん。そんな気配がするだけでさ。自意識過剰かもしれん。よし、チラっと確認してみよう。
……チラ。目ぇ合ったぁあ!
しまった! 目がそらせないぞ。魔力が働いている。だってここで目をそらしたら気分を害してしまうかもしれないし。……まあ、ただ、そらすタイミングを完全に逃がしたってだけの話なんスけどね。
だがヤバイ、この雰囲気は……! 以前にもあったからわかるぞ。どどどどどーしよう。
正太郎の顔がゆっくりと近づいてくる。もうホント、目の前に――!
「――なっ、なに!?」
ギリギリでなんとかスッと身体を引いた。
「何って……、わかるだろ」
そっぽを向いて正太郎は息を吐いた。
あ。不機嫌になった。当たり前か。
「何でいっつもよけんの? そんなに俺とキスすんのイヤ?」
「イヤとか、別に、そんなんじゃなくてですね……えーっと、何と言いましょうか……」
……だって、仕方ないじゃん。頭の中によぎるんだもん。私達は好き合って一緒にいるんじゃない、本当の恋人同士じゃないんだ、って。
話が盛り上がって楽しく過ごした時も、デートした時も、帰って一人になるとその考えがふと思い起こされる。そうすると正太郎と一緒にしたことや時間が、すごく虚しいものに感じてしまうんだ。
「あのさ……私たち、別れませんか?」
ついに……、言ってしまった。
正太郎は一拍固まって、それからゆっくりと私のほうを向いた。
「…………」
無言、そして無表情で私の顔をじっと見つめ、やはり何も言わないまま視線を外すと、考え込むように眉根を少し寄せて床を睨みつける。
沈黙が……キツイ……!
正太郎は床を睨んだまま、やっと口を開いた。
「……何で?」
うわっ。正太郎、声低い。怒って……ますよね? イヤだなァ、こういう重い空気。苦手なんだけど、弁明する余地が無いほど自分でまいた種だ。
「怪我させた責任で付き合うとか結婚とか、もういいじゃん。子供の頃の話だしさ、あれ冗談で言ったんだよね。スンマセン!」
「…………」
無言が怖い。
「ほんと今更って感じですけどねー、アハハー。そんな責任云々で、正太郎がさ、好きな子とかできても諦めるしかないとかなったらイヤじゃん? それこそこっちか責任感じるってゆーか」
正太郎がそこそこ女子に人気があるって友達からも聞いたことあるし、まあ実際、背も高いし、頭もぼちぼち良いし、気も利くし。私なんかが彼女じゃ他の女子に申し訳ないよ。世の中には可愛い子が大勢いるのに。昔の事がなければ私と付き合うとか無かったと思うしな。私は可愛げの欠片も無いし、ガサツだし、容姿も良くないし。
自分で言ってて悲しくなってくるな……。




