♭Eps.6
思い出したくもない記憶。
もしそんな記憶が"現実"にあったとしたら、それはもう破滅に近いのかもしれない。
「…耀」
暗闇から現れた人影により、軽く握った右手を大きな両手で包まれる。
「またやってんのか」
その人はため息をつき、その手で一本一本丁寧に俺の指を開いていく。最後に残った手のひらには、白くて小さな錠剤が3粒ほど据わっていた。
「…もうこれに頼るなって言ってるだろ。しかも前より量増えてるじゃないか」
「…」
「眠れないなら素直に俺に言えよ。…良かった、ここに来て。今日のおまえ見て心配だったから」
そう言って彼は俺の手からそいつをむしり取り、近くにあった瓶に戻した。ピンピンピン…と個体同士がぶつかり合う音が響く。
「…真一」
「何だ、まだ信じられないって顔してるな。俺はおまえの考えてることなんて分かってるんだよ」
不機嫌そうに言い放ったその人は、俺の手を掴んでベッドに押し倒した。ベッドサイドに置かれた小さなライトは、のそのそと上に乗ってきた男の顔をやんわりと映し出す。
短い黒髪、たれ目気味の人懐こい顔。やや面長だけれど、32歳にしてはかなり幼い顔立ちだ。
「…俺がついているだろ。…何か、あったんだろ?」
「……」
「分かった。おまえのことだから、今は言いたくないんだろ。顔にかいてある」
真一は苦笑して俺の横に寝そべった。そして俺の頭の下に腕を滑り込ませ、片方の手でライトを消した。
部屋が真っ暗になった。しばらく無言の時間が続いた。
彼の体温は、眠気を誘うほど心地よかった。
「…耀?」
半分眠りかけた頃、隣の真一が声をかけてきた。
「……ん」
「あ、寝てたんか。ごめん」
「いいよ。…起こされたし」
「だからごめんって」
何だかバカらしくなって、笑いが込み上げてきた。真一もつられて笑いだす。
「…ほんと馬鹿だな、俺たちって」
「ああ」
ひとしきり笑いあったあと、他愛ない話をして眠りについた。相手の体温に包まれて、幸せな気分になった。
ただひとつ、あの事がなければ良かったのに。
物音に気がついて、俺は目をさました。
もうすっかりあたりは明るくなっていて、朝になっていた。知らない間にしっかり寝ていたようだ。
深い眠りについたあとの朝は、頭も体もスッキリしている。ぼうっとすることもなく、さっさとベッドから降りて着替える。
リビングに赴くと、その先のシステムキッチンで真一が料理をしていた。後ろから近づいてきた俺に気づくと、振り返って微笑んできた。
「耀、おはよ」
「おはよ」
「…よく眠れたか?」
「…うん」
「だろうなぁ~。おまえ一回も起きなかったもんな。やっぱりおまえは俺がいないとだめだからなぁ~…うんぬんかんぬん」
嬉しそうに語りだす真一は無視して、横でグラスに水を注いで一気に飲み干した。喉から胃に、冷たい感触が滴り落ちる。
グラスをテーブルに置いて、上機嫌な「父親」の背中に抱きつく。この父親は貫禄が無さすぎて困る。
「…うぉっ!? 何だ耀、珍しいじゃんか。甘えてくるなんて。なんだ、でこチューしてほしいのか?」
「バカ、疲れただけだよ。あんたのいびきに付き合わされて」
「え? まじ? ごめん…」
「嘘だよ」
「何だよ」
「馬鹿だよ」
とりあえず真一から離れ、彼の横に立って手伝った。真一は料理上手で手伝うほどではないけれど、隣にいてくれるだけで安心する。
広いテーブルに料理を並べる。大切な人とこうして同じ食卓を囲めるのは、幸せなことだ。
「いただきまーす」
「あ、俺も食う。耀、隣座っていい?」
俺が答える前に、真一は飯椀を手にしながらドカッと音を立てて椅子に座った。対面の席もあるというのに、このおっさんはわざわざ隣同士で食べたがる。
「だってこの方が耀とベタベタできるじゃーん」
「はいはい、いいから食えって」
「萌」
朝からフルコースを平らげると、お腹が一杯になった。美味しかったと伝えると、真一は犬みたいにガバッと抱きつき、頬をすりよせてきた。
「…さすがは俺の息子だなっ」
「オーバーオーバー」
「耀がうちに来てくれてよかったよ。あの時はどうなるかと……」
一瞬、暗い影が頭の中を過る。一生思い出したくない記憶だ。
しかしその記憶も、奥底から表面に浮かんでくる前に、真一のキス攻撃で消え失せた。
額に、目尻に、頬に、ひっきりなしに口づけてくる。
「…やーめーろって! …んぅっ…」
今日はよほど機嫌がいいのか、それともバカになっているのか、その流れで口を塞がれた。真一の肌の匂いがするだけで、心臓が過剰に反応してしまう。
「……いい加減にしろっ」
力一杯突き放した。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。
真一はそれを見て、ケラケラと笑った。目尻に浮かび始めたしわが、優しそうな印象を与えていた。
「可愛いー」
「うるさい」
「早く学校行く準備しろよ。今日入学式だろ? もうこんな時間だぜ?」
「誰のせいだと思ってる」
「赤くなってるー」
恥ずかしいので、顔を隠しながらリビングを後にする。時間を確認しながら髪を整え、制服を身につける。
出発間際、靴を履いていると、真一が慌てて玄関に顔を出してきた。
「耀」
「…何?」
神妙そうな顔をしているので、どうしたのだろうと首を傾げていると、真一は性急に俺を抱き締めてきた。
「…何だよ急に」
「いやー、よかったなーって思って。息子の成長に涙する父親の心境よ」
「あんたいくつだっけ?」
「…32」
犯罪だな、と笑い合う。でも、この人がいなかったらここまでなれなかったかもしれない。生きていたかさえも分からない。
どぶのような世界からさらって救いだしてくれたのは、間違いなく彼なのだ。
「…耀、もうどこにも行くなよ」
「ん…」
「俺が守ってやるから、安心して学校に通いなさい」
「ん。ありがとう…」
彼の背中に回した腕に、力を込める。
「よし、いい子だ」
真一は俺の額にキスを落とし、にっこり微笑んだ。ひげも薄くてツルツルしているくせに、いざとなったら大人の顔ができる。何か悔しい。
「…ん。行ってきますっ」
俺は真一から離れ、外に飛び出した。4月の空はぼんやり白く、生暖かかった。