♯Eps.5
「聖、何やってんの」
高貴は隣の教室の前でコソコソしている僕に、あきれ声をかけた。
「何って…今日から僕は、兄をスパイするんだよ!」
「へー、頑張って」
「うわ、冷た」
B組を視察。まだ兄が登校する気配はなし。
あ、昨日兄と話していた小柄な男子が入ってきた。ちょっとジェラシー。
「くー、まだか、あいつは」
「…そんな不毛なことはしてないで、部屋に戻って勉強でもしたら? 昨日駄目だったからってそんなにムキになることはないでしょ?」
「う」
「それに来たところをでばがめしててもあんまり意味ないと思うけど。どうせなら帰るときでしょ」
「うっ…」
「ほら、戻った戻った!!」
僕は何かの漫画のように、襟首をつかまれてずるずると教室へと引きずられていった。悔しくて、その後高貴に勉強を教えてもらった。
高貴には相手にされなかったが、尾行作戦は決行した。何日か続けて兄が帰るのを待ち伏せし、家に帰るまで尾行した結果、いくつか分かったことがあった。
まず友達は、僕よりも少ないということ。いつも大抵一人で帰っている。学校でつるんでいる人も、2、3人がせいぜいというところかもしれない。
そして、僕と乗っている電車が同じだった。しかも、僕の最寄り駅よりも2駅先というだけで、僕の家と大して距離はない。意外と近くに住んでいたようだ。ちなみに電車の中ではひたすら本を読んでいた。本好きなのは昔から変わっていないようだ。少しホッとした。
さらに尾行を続けて、家のほうまで行くと、住宅街にそびえるマンションに消えていく。黄土色の外壁の建物だ。僕はすぐに道順を覚えた。
しかし、兄について手に入れた情報はこれまでだ。おそらくこの作戦をずっと続けていればもっと分かることもあるのかもしれないけれど、今のところ毎日同じような行動パターンなので、これ以上新たな情報を仕入れられない。しかもこれを毎日続けることは不可能に近い。
どうにか兄と接触できないかと悶々と考えていたある朝、通勤ラッシュの電車でそれは起こった。
「…あ」
「…」
乗り込もうとした車両に、赤い髪の兄が乗っていた。引き返そうとしても、後から乗ってくる人たちに押され、結局兄と背中合わせの状態になった。
まさかここまで急接近するはずじゃなかったけれど、まぁいい。今日はツイている。
これなら兄も逃げられないし、学校までの数分間は話が出来るだろう。
「…なぁ、"くろき" 耀」
敢えて苗字を強調する。背後の人物は無反応だ。
「おまえ、いつの間に養子になったんだ?」
「……」
「黒木って誰? どういう関係?」
馬鹿兄は無言のままだ。腹が立って、後ろを振り返った。
「なぁ! ちゃんと話聞いてんのかよ!」
当の本人は、無表情のまま本を読んでいる。今口にした言葉はまるで耳に入っていないようだ。
「おい!」
むかつく。腹立つ。どうして無視するんだよ。いくら戸籍上繋がりがなくたって、おまえと僕は兄弟であり双子なんだ。
衝動的に、そいつの本を奪った。手元が空になったそいつは、温度のない瞳で睨み返してくる。全身に鳥肌が立った。
「……何」
「何じゃない…っ。僕の質問に答えろよ」
「…」
「どうして家を出ていったのか、弟の僕には知る権利がある。さぁ、言え」
力を込めて言ったはずだけれど、馬鹿兄はしばらく間を置いた後、小さく笑い出した。
「ふははっ…」
「…何だよ、何がおかしいんだよっ」
「清塚君、寝言は寝て言え」
彼は笑うのをやめ、小バカにした笑みを浮かべてそう言った。
「…は!?」
「それに、毎日つけてくるのやめてくれないかな。他人のプライバシーは侵害するものじゃないよ。そういうの、俺大嫌いなんだ」
胸に、心臓に、グサッと言葉の剣が突き刺さっていくようだ。痛くないのに痛烈な痛みを感じてしまう。その他人行儀な口調や笑顔が、さらに追い打ちをかけている。
「…他人じゃないだろ」
逃げ出したくなるのを抑え、やっとのことで言葉を絞り出した。
お願いだから、そんな顔しないでよ。まるで、本当に関係がないみたいじゃないか。
「…ここまで顔が似ていてどうしてどうして他人なんて言えるんだよ。戸籍なんて関係ないだろ!? 僕はた」
話の途中で口を塞がれた。いきなり触れられた手の体温に、顔が熱くなってしまう。
「……何でここまで理解力がないかな」
「は?」
同じ顔の兄には、いくぶん怒っているともとれる表情が貼り付いていた。
「おまえと関わりたくないから言っているんだよ。分かれよ」
本気で怒りを露にする片割れに、僕は返す言葉がなくなってしまった。
ただただ呆気に取られて、口を覆っていた手を離されるまで、身動きが取れなかった。
(関わりたくない…?)
「…ついでに、あの両親とも顔を合わせたくない。おまえたちには一切構ってほしくないんだ」
電車は次の駅に止まった。学校の最寄り駅の一つ前だ。ヤツは顔をうつむいて隠し、人の波に乗ってドアの外へ消えてしまった。
残されたのは、宛のない怒りと悲しみと、途方もない虚無感だった。
「…意味わかんない……」
どうしてこうなってしまったんだろうか。僕が探している片割れは、いったいどこにいるのだろう。
(耀…)
その後茫然としながら電車を降り、とぼとぼと学校に向かった。到着すると、あろうことか兄の方が先に着いていて、背が高くてチャラい男子生徒と談笑しながら廊下を歩いていた。その光景を見せられて、僕の悲しみはますます深いものへと変わっていった。
(他人だったらいいの?)
僕らの前を行く二人。金髪と燃えるような赤い髪があべこべに並んでいる。周りにも人が大勢いるのに、彼らのことしか目に入らなかった。その背中を見ていて、心が痛んだ。
(僕と関わりたくないって…)
その言葉が引っ掛かる。頭の中で、何回も繰り返して再生されてしまう。
昔はあんなに仲が良かった僕らなのに。
「…聖」
黙り込む僕に、後ろから高貴の声がし、肩に手を置かれた。
「おはよ。元気ないね」
「…うん、ごめん…」
「またお兄ちゃんのこと?」
僕は首を縦に振って、朝の出来事を細かく話した。
話し終わると、彼の眼鏡の奥は笑っていた。
「何があるのかは知らないけど、きっと大丈夫だと思うよ」
「…え」
「だって、他人なら普通に付き合ってるんでしょ? なら聖のことは他人だって思われてないんだよ。多分いろいろ理由があってのことなのかもしれないけど、まだ心の奥底では、聖と繋がりを断ち切れていないんだと思う。そしてそれはこれからも、絶対に断ち切ることはできないでしょ。…ということは、それが枷になることもあるけれど、逆に重い扉を開ける鍵にもなるということだよ」
頑張ってね、と誤魔化す高貴は、何が楽しいのかニコニコしている。普段無表情なことが多いだけに、こういう意味不明な笑みをされると身構えてしまう。
「…ん。頑張るけど、何で高貴はそんなに楽しそうなの」
「え? だって聖が恋する乙女みたいで可愛いんだもん」
「何が! 恋なんか!!」
「隠さなくたっていいよ。お見通しだから」
高貴は僕の背中をポンポンと叩く。もう恥ずかしいのか嬉しいのか悲しいのか分からない。
この感情は恋とは違う別なものだ。
ただ耀という存在が僕の中の一番だというわけで…てこの気持ちは何だろう。
もう自分でもよく分からなくなってしまったので、言い返さずに黙っていることにした。