♯Eps.4
茫然自失とはこういうことなのだろうか。
涙も何も出ず、帰途についた。
『…こういうことだよ――』
あいつの腕が首に巻き付いたと思えば、いきなり唇にキスをしてきた。吃驚して、体が硬直してしまう。
『聖ーー、』
甘い囁きと共に、ついばまれていた唇をさらにこじ開けられ、濡れて温かい耀の舌が舐めるように侵入してきた。
一体何が起こっているのか。
『ーー…んんっ…んぅっ』
舌を引っ込めるけれど、耀のそれによって強制的に絡めとられてしまう。最初は嫌だったけれど、いつの間にか呼吸をすることも忘れて、キスに夢中になってしまう。
『ーーん…よ…う……』
気持ちよさに変な声が出てしまう。状況が把握できていなくたってそんなのはどうでも良い。耀のキスに酔いしれていた。
どうしよう、僕。無性に胸がドキドキしている。昔から好きだった相手だからかーー。
頭の芯から蕩けたところで、ふっ、と耀との繋がりは離された。
しばらくキスの余韻に浸っていたけれど、頭がすっきりしてきて、今の状況を考えてみる。
目が覚めてきた僕に、ニヤリと淫らな目が笑っていた。
『…え?』
『分かるだろ? 家を出てからは、これで生計を立てていたんだ』
は? それって……。
目の前にはふしだらな笑みを浮かべている耀。そんなこと、信じたくない。
『…え、…え??』
『分からないならいいよ、そのままで。どうせぬるま湯育ちのおまえには分からないだろ』
『は…』
『今言っただろ。もう俺は、前のいい子ちゃんぶった兄ではないんだ。もう、俺とは関わるな』
『意味分からない』
『馬鹿だな。ならもう一度言う。もう二度と俺に話しかけるな。目障りだ』
やつはきっぱりと言い放ち、覆い被さっていた僕の体をどけた。そして、背中の埃をはらい、校舎へと歩き出した。
せっかく捕まえたと思ったのに。このあとに残るモヤモヤは何だろう。
どんどん小さくなる後ろ姿を見つめ、このままではいけないと焦燥感が募る。
『待って!』
僕は屋上のコンクリートを蹴りあげ、最小限の歩数で彼のもとに駆けつけた。急いで前に回り込んで立ちふさがる。
『…何』
あからさまに嫌そうな顔をされる。唾をごくりと飲んだ。
『…何でそんなこと言うんだよ!? 何があったんだよ!? …何かおかしいぞ!?』
『何が』
『僕の知ってる耀じゃないっ…』
『だからそう言ったろ。物分かりの悪いやつだな。…どけっ』
『どかないっ』
兄は必死に食い下がる僕を見て、ため息をついた。
『……あのな、聖、』
『どかない。…耀が何と言おうと、僕は耀が話してくれるまで追いかけるから』
『…はいはい、好きにしろ』
『……何だよ、それっ…』
こめかみに血管が浮き出そうなほど、癪に障る言い方だ。もうほぼ涙目の状態になりながら、両手で兄の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
『おまえ、それで許されると思っているのか!? 今までの不祥事はそれで水に流せると思ってんのか!?』
『聖、お願いだから俺に構うな』
『構うよ!! 僕の片割れだもん!!』
『……あのな』
兄は僕の手を取り、ドアに押しつけた。そして僕と同じ顔をギリギリまで近づけて、不機嫌そうに言った。
『…俺に犯されたいのか』
綺麗な顔が至近距離にある。鼓動が高鳴る。
『…え?』
『俺は今更おまえたちに赦しを乞おうなんて思ってないし、そういう人間なんだ。生憎おまえと住んでいる世界が違うんだ。もう俺と関わらない方がいい』
眉間にシワを寄せながら、兄は僕を押し退けてどこかへ行ってしまった。
「あーーもう!!」
ピアノ練習の最中も、先ほどの光景が頭に浮かんで邪魔をする。全然集中できない。
「何で…何で…あいつは」
結局、何も話してくれなかった。
いや、ひとつは話してくれた。
(…嘘でしょ………)
現実を受け止められなくて、僕はドサッと音を立ててベッドにうつ伏せに倒れこんだ。
今でも唇に残る感触。中途半端に空いた口に舌がするりと挿入し、慣れた感じに掻き乱していった。今でも思い出すと背筋がぶるりと震える。
あれはいたずらにやったような動きではなかった。熟練された技のように感じた。
(……嘘でしょ…)
耀が売春なんて。久しぶりに再会した双子の片割れが、まさかそんなことをしていたなんて。
「…なぜ?」
分からない。そこを教えてほしいというのに、まともに取り合ってくれない。
(…でももしかしたら、本当のことじゃないのかもしれない。再会した僕を遠ざけるための口実なのかも…でもそしたら、何でそういうことをするの? 僕と関わってはいけない理由があるの? やっぱり売春してたから…? もう何がなんだか分からないよ……)
悲しい。悔しい。…憎い。
兄が口にしたすべての言葉は、頭を棍棒で思い切り殴られるのと同じくらいの衝撃だった。
僕はずっと兄のことを探し求めていたのに。再会したら体たらくになっていたし、向こうは相手にさえしてくれない。
血の繋がった兄弟なのに。一番近くにいた存在だったのに。
「…何だよ、それ…っ、…住む世界が違うって何だよ…っ」
完全に隔絶の表現を使われ、僕はすぐには立ち直れないくらいに打ちのめされていた。
兄は僕の憧れだったし、息をするのにいなくてはならない存在だった。生まれてからずっと耀の隣が僕の居場所だった。それは兄の方も違わない。
しかし彼がいなくなって、心の中心はぽっかりと空いてしまった。再会した今だって、そのままだ。
(あ…そういえば…確か、僕の名字はなかった気が……)
慌ててスクールバッグに手を伸ばし、厚手の和紙を取り出す。入学式にもらった、新入生全員の名簿だ。
(自分のクラスにはいなかったから…B組から…)
なるべく名前に焦点を当てて一人一人確認する。その答えはあっという間に見つかった。
「耀…黒木、耀…!?」
五十音順の真ん中辺りだ。耀という名前は他にはない。無論、自分の名字も他にはなかったから、これは間違いなく兄の名前だ。
「はは…笑っちゃうよ…っ」
教科書体で印刷された3文字は、その事実を裏付けるものだった。
血は繋がっているけれど、戸籍上兄弟ではない。いや、正確には兄弟だけれど、家族じゃない。
半分は兄の言っていることが理解できた。
「…でもどう言うことだよ、これ……」
可笑しくて悲しくて、乾いた笑いが込み上げる。しかし、目頭からは熱い滴。
名前まで変わっているなんて。
あんなに近いと感じていた存在が、まるで電車に乗り合わせた他人くらいに遠い存在に思えてしまう。
いくら感傷的になっても、胸中に負った傷は癒されなかった。
「…どうして、こうなっちゃったんだよ……っ」
その晩はひとしきり泣いてしまった。なぜこんなに涙が止まらないんだろう。
涙が枯れるのと同時に、僕は兄を取り戻すことを決意した。