♯Eps.3
身体測定という春恒例のイベントが終わると、もう昼を過ぎていた。僕は手持ちぶさたになり、学校の中を探検することにした。初め高貴と回っていたのだが、途中で彼は帰らなければならなくなり、僕はひとりぼっちになった。どこかで兄の姿がないかと探していたが、意外と見つからない。ちなみに、彼がどこのクラスなのかも知らない。何せ、彼を認識したのが今日の朝なのだから。
(―…会いたい…今すぐ耀に会いに行きたい…ても、どうすれば…)
部屋のあるフロアは制覇し、配置についてはすべて頭にいれた。残すは、最上階の屋上だけだ。
(屋上か…ありきたりだけど行ってみるか…)
目の前のすすけた階段を、足取り重く上った。もしかしたら屋上にいるかもしれない、そんな楽観的な思いがふと頭をよぎった。屋上に続くドアノブには、開放厳禁と書かれたプレートがぶら下がっていたが、何故か鍵がかかっていなかった。
ためらいがちに屋上に踏み入れる。そしてすぐ見回す。日は傾き、空は夕陽色に染まった美しい風景の中に、フェンスに寄りかかっているひとりの男子生徒がいた。
いた。やっぱりいた。この後ろ姿は、見慣れたものだ。
僕はどぎまぎしながら抜き足差し足で彼の背中に近づく。夢じゃない。本物だ。やっと彼に会えたんだ、今くらい無条件で喜ばせてくれ。
「…待て」
「え」
気配を消して近づいていたというのに、すぐに感づかれてしまった。僕はだるまさんが転んだのごとく、片足を上げた体勢のまま止まらざるを得なかった。
「…よ、ヨウ…」
あまりにもひどい仕打ちだ。というか、僕の鍛錬が足りなかったのか。
僕が半泣きになっていたら、彼は、くるりと体の向きを変え、僕と向かい合った。
僕と同じ顔、体つき。僕より凛とした目元と意志の強そうな口元は、ずっと昔から変わっていない。身にまとう、独特な優雅なオーラも健在だ。
あぁ、やっぱり耀だ。すごく会いたかった。早く彼に抱きつきたい。
ピクリと動こうとしたところ、また「待て」と命令をされる。待って、僕は犬じゃない。
「耀、僕だよ、聖だよ」
「……」
彼は僕の発言に応答せず、ただこちらを鋭く睨むだけだった。同じ顔で同じじゃないから言えるけど、顔が整ってる分だけ、怒っていると怖い。
僕はどうしていいかわからず、立ち尽くした。兄はいっさい表情を変えない。何を考えているのかさっぱり読み取れない。
「―…清塚 聖…」
数分後、彼は眉毛をぴくりとも動かさずに言った。
「…久しぶりだな」
「耀…――」
「大きくなったな…」
そう言いながら、彼が薄く微笑んだ気がした。見とれてしまいそうになるのを振り切って、僕は彼に詰め寄った。
「――っ今までどこに行ってたんだよ!? すごく心配したんだよ!?」
僕は感情的になって、彼の胸元をぐいと引っ張り上げた。けれど、兄は蝋人形のように、白く冷たい顔をしていた。
「…」
「僕や母さんたちがどんだけ心配して――母さんなんて、おまえのことで気を病んで、身ごもってた赤ちゃんを流産しちゃったくらいだぞ!!!」
ちょうど彼がいなくなって1か月ほどしたときだった。それ以来、母さんはショックで子どもを作らないでいる。
僕がさんざん怒鳴り散らしたというのに、兄は表情ひとつ変えない。唇も、一文字に結んだままだ。
「…どこ行ってた…っ、何してた…っ、黙って通せると思うなよ…!」
僕らはそれから何も言わないまま、にらみ合った。まるでどちらがすぐに折れるか試すゲームのように。
ここで喧嘩になったとしても、大丈夫。僕らなら、きっとまた前みたいになれる。
「…っふっ、くくっ……」
しかし、次の瞬間、彼はあざ笑うかのように、小さく笑い出した。度胆を抜かれた気がした。
「な、何笑ってるんだよ」
「……その赤ちゃんは、産まれてこなくて幸せだ」
彼はニコッと笑った。あり得ない。まるで、昼ドラに出てくるような悪女のようだった。
「な…に…」
「そのままの意味だよ」
聞き返しても、にっこりと笑われるだけで、事実が覆されることはなかった。
「ふざけるなっ!!」
カッとなって、気づいたら手が出ていた。片方は胸ぐらをつかだまま、片方の拳が思い切り兄の頬を殴っていた。
「何が幸せだよ!? おまえが殺したも同然だろ!? 何年も何年も僕たちを心配させて……おまえはいったい何様だ!? 何をしに家を出て行った!?」
僕に罵倒されても、殴られても、涼しい顔して肩についた埃を振り払う兄。むかむかする。僕は、こいつがいったい何なのか分からなくなってきた。
「しらを切るつもりかよ……」
「聖、」
「…何だよ!!」
「どけよ。フェンスに押しつけられている状態じゃ、話しにくい」
「そんなの知るかっ…僕は、おまえからすべてを聞くまで離さない…っ」
また数分間、いがみ合った。今度は長かった。
兄がすうっと薄茶色の目を閉じ、穏やかな表情で言った。
「…聖、確かに俺は、謝らないといけないことがある」
再度、目を開けた。まるで何かを諦めたような、力ない笑みを浮かべていた。
「…ごめんな、もう俺は兄じゃない。俺たちは兄弟じゃないんだ」
「…は?」
「言葉の通りだ。俺はもうおまえとも、あの家とも関係ない」
意味が分からない。こいつ、ちゃんとした日本語をしゃべっているのだろうか。それよりも、頭がおかしくなったのではないだろうか。
「ちゃんと日本語しゃべれよ。何言ってるか分かんない」
「だから、俺たちはもう兄弟じゃないんだよ。血が繋がっていてもね」
「…どういう…」
「じき分かるよ」
「分からないよ! だから聞いてんだろ…っ。というより、家を出てから何してたんだ!」
「………聞きたい?」
静かに聞き返してきた兄は、悲しそうな顔をした。急に、自分が悪者になった気分だ。
…それでも。
「聞きたいに決まってるだろ。…それだけ心配してたんだから」
「…そう」
兄はそう素っ気なく返事をすると、いつもの無表情に戻り、感情のない瞳でこちらを見据えた。
無言で見合っていると、兄の白い手が僕の首に巻きついてきた。
全神経に緊張が走った。