♯Eps.1
[Ⅱ.Capriccio]
「はいはいはい、これからSHR始めるよー、皆席についてー」
ここは私立桜ヶ丘音楽高等学校。
全国でも指折りの、音楽学校だ。
朝8時30分を回った教室に、髪の長い女の先生の、甲高い声が響きわたった。
「…皆さん、静かにしてー、出席をとりますよー」
僕は、この春からこの学校に通っている。
僕の家は俗に言う音楽一家だ。父親も母親もヴァイオリニスト。実は生みの父親は今の人と違うのだけれど、その人も国内で有名なピアニストだった。
両親は音楽家だけれど、別に親に決められてこの学校に来たわけではない。自分の意志でこの高校に受験すると決め、自分の実力で合格して入学した。
音楽を深く広く学べる場。それが桜ヶ丘音楽高校。僕はこれからの生活に胸が膨らんでいる。
だけど…――。
「………イ君、清塚聖君っ」
「は、はいっ」
先生がこちらを見ていた。そうだ、出席を取っている最中だった。
「考えことかしら。まぁ、新生活はいろいろあって大変よねぇ」
「は、はぁ…。すみません」
「あまり無理しないでね。……黒須玲君」
先生は再び出席を取り始めた。
――だけど、この学校に来たのはそれだけではない。
三年前に失踪した、双子の兄を探すためだ。
僕らは音楽家の両親の間に生まれてきた。そのためか、物心がつく前から、誰からとも言わず自然と音楽に興味を持ち始め、気付いた時には兄はヴァイオリンを、僕はピアノを習うようになっていた。僕は上達の遅い子供だったけれど、兄は、次第に頭角を現し、権威あるコンクールで優勝することも度々あった。8歳にしてプロのオーケストラと共演、各地でリサイタルを開催するなど、大人顔負けの実力を蓄えた彼は、音楽界では天才児と称されるようになった。
順風満帆にいっていたはずの僕の兄。しかし、ある日を境に状況が一変した。
理由もなしに、忽然といなくなったのだ。
誘拐なのか、家出なのか。当時も今も、全然分からない。ただ、神隠しにあったように、突然姿を消したのだ。
誰にも頼まず一人で探すなんて無謀な賭けだけれど、このことを大っぴらにできない。水面下で探さないといけないので、あえて大都市にあるこの学校を選んでやって来た。ここで、いろいろなところから情報を集めて、少しずつ彼のいる場所を探っていくつもりだ。
「セーイ、聖!」
後ろから、とびきり元気な声が聞こえてきた。振り返れば、短髪で黒渕の眼鏡の高貴が、飛び出してきた。
「なーなー、いつまでぼーっとしてるつもりだよ。もうSHR終わったぜ」
「何?」
「あのさ、静香さんのリサイタル、今週の土曜日だよね」
「あ、うん」
「そうだよね。ありがとう。おれ次こそは行きたいと思っててさー、絶対行くわ」
「ありがとう。母さんにそう伝えておくね」
高貴は、おう、と嬉しそうに笑った。静香さんとは、僕の母さんのことだ。両親は二人とも名が知られているので、毎日多忙を極めている。高貴も母の大ファンだそうで、たまに一緒にリサイタルを聞きに行くこともある。
「ところでさー、話変わるんだけど、隣のクラスに聖と似たような人がいる気がするんだけど」
「え」
僅かに胸が高鳴る。僕の席の前に立つ高貴の、眼鏡の奥にひそんだタレ目を凝視する。
「……ほんと?」
「いや、気がするだけだと思う…。ただね、スッゴい美形でハーフの顔してて、目立つんだよ。顔は聖に似てるかなーって思ったけど、雰囲気が全然違うんだよね。だからただの気のせいかも」
「ふーん……」
入学式にもらった新入生の名簿には、彼の名前はなかったと思う。でも、もしかして、もしかして、そのもしかしてだったら、早く兄に会いたい。授業が終わったら、休み時間にも隣の教室を見に行こう。
♯♯♯
「もしもし、母さん?」
学校が終わり、アパートにて夕食を終え、一段落ついたところで僕は電話を掛けた。
「あ、いま大丈夫? だよね?」
一人暮らしするにあたって、母さんとの取り決めで、週に一度は連絡を取り合うようにしている。忙しい親でも、子供のことはちゃんと気になっているらしい。
「……よかった。母さん昨日はリサイタルがあって躊躇ってたからさ。今日は仕事、何もないの?」
特に、兄がいなくなってからは、親子のコミュニケーション的なことは意識しているらしい。僕は別にどちらでも何とも思わない。昔から、親とはこれくらいの距離感だったのだから。
「…そう。ならいいんだけどさ。…学校? 学校は良かったよ。高貴も同じクラスだったし雰囲気いいし。あ、そうだ、今度週末にこっちに来てやる母さんのリサイタル、高貴行きたいって。あいつ、すっかり母さんのファンだからさぁ……」
僕にしては珍しく、1時間ほどしゃべり通した。やはり一人暮らしをしていると、口が寂しくなるらしい。母さんも久々の僕のマシンガントークに、ついていけていなかったみたいだ。
「…まぁ、そういうことだから。こっちは順調にやってるから。あとね、まだちゃんと確認してないからわからないけど、兄貴はいなそうだよ。隣のクラスに僕と似た人がいるって聞いて行ってみたけど、どこにもそんな人いなかったし。違う学校にいるか、それとももっと別の場所にいるかもしれない」
『そう、なの…』
「うん。だから僕は僕で地道に探してみるよ。母さんたちもそっちで探してて」
電話越しに重い空気が流れた。鉛のような沈黙の末、向こうがおもむろに口を開いた。
『…本当にごめんなさい……私がもっとちゃんとしてれば……お兄ちゃんを失うことなんてならなかったのに』
すすり泣く声が混ざっている。僕は頬が固くなった。
「失うだなんて縁起が悪いよ。耀はまだ生きてるよ。それは分かってる。それに、耀がいなくなったのは母さんのせいって決まったことじゃないだろ。まずその前に探し出したい」
そう、早く兄を見つけるんだ。会ったら言いたいことを言いまくってやる。
そして何発か殴ってやるんだ。
やっぱり、今でも愛しているから。
それが現実になる日が、そう遠くない未来だということを、この時の僕はまだ知らなかった。