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♯Eps.17












 『――おまえは僕の気持ち、考えたことあるのかよ…っ!』

 苦しそうに笑う、僕の半身。自嘲的な笑みとは裏腹に、口から吐き出された言葉は、追い詰められていた。

 その時だ、彼が何かを抱えていると分かったのは。それは彼が直接口に出したのではなく、その表情や仕草で感じ取ったのだ。

 だけれど、もう、遅すぎた。

 次の日には、彼の姿はどこにもなかった。


 最近、やたらと兄がいなくなった日のことを思い出してしまう。

 何故だろう。今じゃ同じ学校に通っているというのに。

 僕は練習をしに、音楽棟を歩いていた。明日はレッスンだから、その準備をしなければならない。それと定期演奏会で演奏する曲も練習しなければ。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは本当に難しい。というかベートーヴェンが難しい。特に第9番の『クロイツェル』は、最も難しい曲のひとつだ。

 まだ演奏会までに1か月以上あるというのに、もう今から心臓がバクバクいっている。入学したばかりなのにいきなり選抜されて、しかもこんなに難曲を渡されて、とどめには兄と共演で。展開が早くてついていけない。もう僕のキャパシティはとっくの昔にオーバーしている。

 練習室がずらりと並ぶ回廊にたどり着くと、まるでおもちゃ箱の中身みたいに、各部屋から漏れた音がごちゃごちゃに散らかっていた。練習室の鍵を確認しながら歩いていくと、その中からとびきりうまい音が聞こえた。

 振り返ってドアの小窓を確認した。胸が高鳴った。

 その部屋には自分と同じ顔の人間がヴァイオリンを弾いていた。

 僕は咄嗟に隠れ、彼の演奏に耳を傾けた。またもやドキドキしてきた。彼の演奏を聞くのは三年ぶりだ、その間ちゃんと練習してきたのだろうか、いやでもこの演奏は訓練を怠らなかった音だ、やっぱり耀はどんな姿になっても耀なのだ。

 (…よかったぁ…)

 ある意味ホッとした。

 だけれど、何だろう、この違和感は。彼の奏でる音は、洗練されていて誰が聞いてもうまいと感じると思う。なのに、何かが違う。

 どうしてだろう…。

 「…おい、何やってんだ」

 聞き入っていたら、ドアが開き、不機嫌そうな声が降ってきた。

 振り返れば兄本人がこちらを睨んでいた。

 「ああ、ごめん…っ、たまたま通りかかって…っ」

 「盗み聞きかよ」

 「いいじゃん…っ、久々なんだし」

 ふん、と鼻を鳴らし、部屋の中に引っ込む彼。僕は怒られたついでに話そうと、その後を追った。

 「ねぇ、耀、今の曲なに?」

 「何じゃねぇし。入ってくんなよ」

 「何でよケチ。だいたいさぁ、酷いんだよ耀は。鳩尾殴って動けなくしたりとかさ。あのあと大変だったんだからね」

 返事もせず、黙って楽器を構える耀。本当はここで何かを言ってくれればいいのだけど、僕を排除しないだけマシだ。最近は、前のようにはねのけられることは少なくなった。

 耀はまた練習を始める。昔と同じように。懐かしい。耀が隣にいて、僕が彼の伴奏をして。

 (あ、そうだ)

 ちょうど今二人揃っているんだ。

 「ねえねえ、耀、ちょっと合わせしない?」

 「……は?」

 「定演の曲! 僕この間譜読み終わったんだ。どうせ近々やるつもりだったでしょ?」

 僕は図々しくピアノ前に座った。耀は嫌な顔をしていたが、僕が鍵盤に手を置いて曲の冒頭部分を弾いてしまえば、嫌々ながらも伴奏の上にメロディーを重ねてきた。

 一音目から、鳥肌が立った。

 正直言って、気持ちが良かった。耀と音楽を創っているのだと思うと、胸が震えた。初めて合わせた曲なのに、耀とならすらすら弾けてしまう。普通はもっと、相手の音楽性の違いとか弾き方の癖に戸惑うことが多いのに。

 (…やっぱり耀はすごいなぁ…)

 適当に合わせているだけなのに、耀の演奏は完璧だった。音程も一ミリとしてずれないし、超絶技巧も軽くこなしている。天才少年は最初から出来が違う。それに合わせることができるなんて、なんて嬉しいことだろうか。幼い頃は僕がこんな曲は弾けなかったから、耀には大人の専属ピアニストがいた。でも今は、僕が出来る。

 (うれしいっ…)

 「おい」

 「…はい?」

 「テンポがどんどん速くなってる。気分が乗ると速くなる癖、まだ直ってないな」

 言われてテンポを落とした。注意されることがこんなにも嬉しいなんて。またしばらくすると、速い、と指摘される。なんだかんだ言いつつも、一曲全部通した。

 耀には小言を言われ続けたが、それも全部ひっくるめてすごく満たされた気持ちになった。これほど幸せになったのは、久しぶりかもしれない。喜びに浸っている僕を、兄は呆れたように笑い飛ばした。

 「何その顔」

 「…へ?」

 「馬鹿だな。一回合わせたぐらいで満足してんじゃねぇよ」

 厳しい言葉だが、耀の表情は柔らかかった。何だか最近耀との距離が近くなっている気がする。

 「やったっ!」

 「何?」

 「だって、いっぱい合わせしてくれるんでしょ? そう思ったら嬉しくてっ」

 「バ、何言ってんだよ。おまえな、遊びじゃないんだぞ?」

 知ってるよ、と返すも、顔がニヤニヤしてしまい、耀はますます僕のことを疑った。耀といられる日が増える。楽しみだ。

 「おまえなー」

 「分かってるよ、いつもノーテンキだよなって言いたんでしょ? ちゃんとやるに決まってるじゃん」

 「ならやれよ…」

 「はーいっ」

 母さんは僕のことをしっかりしてきたねと褒めたけれど、やはり耀の方が何倍も上だ。僕なんてすぐ図に乗ってしまうし、片割れが一緒なら、それだけで安心してしまうほどの大の甘ちゃんだ。僕らの関係は昔と何ら変わっていない。

 「ほら、練習の邪魔になるから、」

 シッシッ、と手をひらひらさせる兄。せっかく耀が心を開きかけているのに、退くなんて阿呆だ。

 「嫌だー」

 「嫌だじゃない。おまえも明日レッスンあるんだろ?」

 「あ…そうだった……」

 レッスン、その一言で現実に戻らされる。確かに、こんなところで遊んでる場合じゃないのだ。

 「じゃ、またな」

 「えー、」

 「俺は忙しいんで」

 無理やり追い出されてしまったけれど、先ほどの時間で僕の溝はかなり埋まったと思う。というか、耀の様子も少し変わってきた感じがする。

 (やっぱり兄弟が揃ったからなのかな。もしかして、最初の反応はあんなだったけれど、耀も嬉しかったのかな)

 ドアの向こうで、練習を再開する兄のヴァイオリンが聞こえる。その晩の母さんとの電話は、最長の二時間にも及んだ。


♯♯♯


 『初めまして、…おっと、こっちがヨウくんで、こっちがセイくんかな』

 僕らがまだ九歳か十歳になった頃。母親によそ行きの服を着せられ、少し高めのレストランに連れて行かれた。予約していたらしい奥の席には、眼鏡をかけた優しそうな男の人が先に座っていて、僕らの到着とともに立ち上がって手を差し伸べてきた。

 『二人とも、これからよろしくね』

 その人は、後に父さんとなる人だった。

 僕らの父親は二人いる。生みの父親は、ピアニストだった。彼も今の父さんと同じく全国を飛び回るような忙しい人だったから、大概家にはいなかった。しかし、たまにある休日は、自身の練習を控え、僕ら息子の相手をしてくれるような優しい父親だった。僕も耀もそして母さんも、父さんが大好きだった。

 しかし、それは突然訪れた。父さんは急死した。事故死だった。

 それからは生活が一変してしまった。僕らの家庭は崩壊寸前になった。独りなった母さんは、悲しみに明け暮れる時間も与えられず、家族のためによりいっそう仕事をしなければならなくなってしまった。僕らも父さんとの幸せな時間がなくなってしまったばかりか、母さんとも過ごす時間もほぼ皆無になってしまった。

 家では僕と耀との二人きり。両親がいないのはとても寂しかった。親戚はいるけれど、みな海外や遠方で、すぐに来られる距離ではない。僕は、父親が死んで一年くらいは気持ちがふさぎ気味で、毎日のように泣いていた。そのたびに耀に助けてもらっていた。それに比べて耀は強い。父さんのお葬式の時も、涙を見せずに僕や母さんを支えていた。父さんが亡くなった後は、耀が一家の大黒柱のようになっていた。

 だから、僕ら兄弟が家にいる時は、耀が母親と父親代わりだった。彼はヴァイオリンや勉強で忙しいというのに、炊事洗濯その他の家事をほとんど一人でこなしていた。耀はすごいと思う。しっかりしているから、母さんも安心して家のことを任せていた。僕も耀に頼りっぱなしだった。

 それが、小学生の時。耀は大人以上にオトナだった。

 そのような苦しい生活が二年ほど続いた。そして母さんが再婚相手を紹介する場面に戻るのだ。相手は父さんと母さんの共通の友人で、かつ母さんと同じオーケストラに所属していたり、音楽ユニットを組んでいたりと、親交が深かった人でもあったらしい。ある時、母さんが過労で倒れて、その人が病院まで連れて行った。その時から付き合いを始めたのだと二人は話していた。それから結婚は早かった。僕らが十一歳になった頃に母さんは再婚した。また、幸せな家庭が戻った。その時はそう思っていた。

 新しい父さんは、母さんそして耀と同じ、ヴァイオリンの人だった。僕も母さんもすぐに父さんと打ち解けたけれど、耀だけは初め少し違ったらしい。というのも、ボスライオンのように、自分のテリトリーに他の雄が近寄ってくるといい気がしない、まさにそのような状態だった。しかしそれも徐々に解消され、耀も新しい父さんと仲良くなった。それどころか、日が経つにつれて二人ともべったりになった。もともと耀のほうが父さんっ子だったから、耀が父さんに懐くのはほぼ必然的なことだった。

 しかし、その頃だろうか。耀が父さんのところにいってしまうので、僕は何となく面白くなかった。この気持ちは何だろう、耀を見ているともやもやする、イライラする。母さんが再婚するまで耀と二人きりになることが多かったからだろうか。そして自分の気持ちに気づく時が来る。この感情は、普通の兄弟に抱くものとは違うものだということを。

 小学校を卒業した頃。その頃は以前とは逆に、耀と過ごす時間がほとんどなかった。耀はその才能のあまり、演奏会にデビューして忙しかったし、留学するという話も出ていた。だから僕は中学生になる前に思い切って言ってしまったんだ。

 「好きだ」、と。

 もちろんそれはぎこちない告白だった。相手は兄だし、しかも双子同士だからだ。冗談だろ、と笑い飛ばされるのがオチだと覚悟をしていたからだ。

 しかし、告白を受けた後の兄は、意外なものだった。

 目を見開き、口を一文字に結び、しばらく硬直していた。僕も緊張して何も言葉が出てこない。お互いに無言のまま、しばらく見つめ合っていた。

 「はははっ…」

 乾いた笑いが響いた。僕は驚いて言葉が見つからなかった。兄が硬い表情のまま笑っていた。

 「何だよ、それ…っ、今さら何を言ってるんだよ」

 「え…なんで…!?」

 「今さら好きだなんてねぇ――ほんとに今さらだよ――おまえは僕の気持ち、考えたことあるのかよ…っ!」

 兄は僕を睨みながら小さく叫んだ。なぜ兄が怒っているのか分からなかった。そのような心当たりがないからだ。

 「…待って、どういうこと!?」

 「…ははっ…ごめんな、片割れがこんなんで……」

 苦しそうに笑う、僕の半身。自嘲的な笑みとは裏腹に、口から吐き出された言葉は、追い詰められている気がした。

 「ほんと、ごめん…」

 彼は僕に背を向けて泣き出した。兄が泣いているのを見たのは、その時が初めてかもしれない。もう僕は本当にパニックになった。

 その時だ、彼が何かを抱えていると分かったのは。普段たくましく見える背中は小さく見え、堂々とした肩は細かく震えている。

 その晩は僕らは何も話さなかった。兄に話しかけても上の空で、物思いに耽っていた。

 次の日には、彼の姿はどこにもなかった。

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