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♯Eps.13

♯♯♯


 「定期演奏会ですか?」

 4月の半ばのある夕方、僕は校長室に呼ばれていた。何の話かと思えば、6月に行われる学校の定期演奏会に出演しないか、ということらしい。

 「…そうだよ。毎年夏と秋に開催しているのだがね。秋の演奏会ははオーディションをかけて出演学生を選抜するのだが、夏に行われるものは、成績上位者だけが出られるものなんだ。君はそれに該当する。是非出演してほしい」

 白髪で温厚そうな印象の先生は、窓の近くに置かれた机の上で指を組みながら、ゆったりと話しかけてきた。そして、鷲鼻にずり落ちた眼鏡を、中指でずり上げた。

 僕は校長先生の発した言葉に重圧を感じずにはいられなかった。だってそれは、学校代表ということだ。嬉しい半分、怖いが半分。

 それ以前に、僕は成績上位者に入るのだろうか。兄とは違って上位という言葉に縁遠かったから、そんなことを言われたらビビってしまう。

 「あのー…」

 「そういえば君は、清塚啓成(きよづかよしなり)君と芦ノ宮静香君のところの次男だったかな?」

 「……あ、はい…」

 校長先生は僕の言葉をスルーして、レンズのまるい眼鏡を拭き始めた。その間も興味津々といった目でこちらを見つめてくるので、僕は頭から爪の先まで緊張が走った。

 「…そうかそうか! でもあれだよね、産みの父親は……」

 「あ…はい。玉木俊文(たまきとしふみ)です」

 「あー、そうだったね、玉木君ね。彼は天才だったよ。彼に出会った時は、久しぶりに目を見張るピアニストが現れたと、興奮したものだよ」

 それから永遠と父さんの話で時間が埋め尽くされていった。機嫌がいいのか、校長先生は次から次へと父さんたちや母さんのエピソードを披露していく。最初は真面目に聞いていたけれど、時間が経つにつれ、次第に退屈になってくる。しまいには、何のためにここにいるのかあやふやになってくる。

 「あの、校長先生…定期演奏会の件なのですが…」

 「…ああ、すまんすまん。玉木君と芦ノ宮君の子どもたちがうちの学校に入学したと聞いてね、つい嬉しくなってしまったよ。そうだね、本題に戻そう。清塚君、君は演奏会に出てくれるかね?」

 「…はい。是非出させていただきたいです」

 「そうか。それは良かった。……それにしても、遅いなぁ…、もう一人、来るはずなのだが…」

 校長先生は、僕越しに部屋の扉を見つめた。

 つられて自分も振り返った。そして、まるで古い洋館から引きちぎって建付けたような、簡素な部屋には似合わぬ豪華な扉を眺めた。しかし、扉の外は静まり返っていて、誰かが来る気配はない。

 (もう一人、ということは、もしかしたら…)

 再び校長先生と向かい合った。

 「あの…つかぬことをお聞きしますが、僕はソロでの出演なのですか?」

 「いいや、違うよ…あのね…」

 君の、と校長先生が言いかけた時、僕らの会話を遮るように、バタン、と扉が開いた。

 「おい…っ」

 怒声に反射的に振り返れば、そこには絶賛仲違い中の片割れが、肩で息をして立っていた。

 「えっ耀!?」

 「おい隆次郎、どういうことだよ…っ」

 僕はとっさに悲鳴を上げてしまったが、兄は僕には一切目を向けずに、大股で校長先生のところに詰め寄った。僕は驚いて後ずさり、壁の本棚に背中をぶつけてしまった。

 「どういうことってどういうことだい」

 「お前が一番分かってることだろ…っ、これはどういうことだよ…っ!」

 双子の兄は校長先生の机に手をついて、鬼のような形相で掴みかかっていた。しかし先生は笑顔を崩さない。すごい光景だ。

 ちなみに隆次郎と言うのは校長先生の名前だ。いきなり名前で呼び捨てなんて…どういう仲なんだろう。

 「…どういうことも何もないよ。耀、君()成績だけは優秀だからな」

 「表に出さない約束だったろ」

 「……そんなこと約束したっけかな?」

 「しただろ! この老いぼれ(じじい)!」

 兄は盛大にため息をついて、近くにあったソファに身を投げた。右足は苛ついたように一定速度でリズムを刻み、眉間には深いしわが彫り込まれていた。

 僕はすっかりあっけにとられてしまっていて、開いた口が塞がらない。変貌してしまった兄の姿は見慣れたけれど、感情を露わにする姿は初めて見た。

 一体この人たちはどんな関係なのだろう。僕には知らないことだらけだ。

 「…老いぼれ爺とは聞き捨てならんな。まだそこまで老いてはないぞ」

 「同じようなものだろ」

 「いいや。老人だが、おまえのために尽力している。老いぼれてなどいない」

 ふん、と腕を組み顔を背けてしまう兄。まったく僕の出る幕はない。

 校長先生はふう、とため息をつき、哀愁こもった瞳を兄に向けた。

 「…それにな、耀、これは君のためでもあるんだ。今のままだと、いつまで経っても抜け出せないだろう?」

 「だからって、何でこいつなんだよ…っ、」

 「耀、おまえの方こそ分かっているはずだ」

 同じ顔の兄弟は、グッと押し詰まった。言いたいことがあるのだろうが、口に含んだまま吐き出せないのだろう、校長先生を睨む横顔と一文字に結ばれた唇とがそう物語っていた。

 本棚の影に身を潜めていた僕はというと、彼らの話にまったくついていけなかった。彼らが日本語をしゃべっているのかどうかさえ分からない。誰か分かりやすく訳してほしい。

 ただでさえ、兄が登場して頭がこんがらがっているのだから。

 「…というわけで聖君、」

 先生は、いきなりこちらに話を振り、ニコリとはにかんできた。その正面にいる兄は、依然として先生を睨んたまま動かない。先生と兄の、と言うよりも、兄と僕の間に、肌がヒリヒリするくらい緊迫した空気が漂っている。

 「君は、君のお兄さんと二人で出てもらうことになる。いいかね?」

 「…は、はい……」

 「だそうだ。耀、君はやってくれるね?」

 校長先生は再び兄の方に目配せた。兄の横顔はまた一段と険しくなったけれど、口から出てきた言葉は酷く穏やかだった。

 「……分かったよ。どうせ拒否権なんてないんだろ」

 「そうだ」

 「その代わり、一回きりだからな」

 「一度で十分だ」

 ふん、と鼻を鳴らし、気性の荒い片割れはソファから立ち上がった。聞いていてもやはり状況が飲み込めなかった。しかしこれは、演奏会で共演することになったということだろうか…?

 信じられない。兄と共演なんて、いろいろな意味で緊張する。でも内心、少し嬉しい。

 兄と演奏することなんて滅多にないし、もしかしたら、これが何かのきっかけになるかもしれない。今は喧嘩ばかりしているけれど、本当にしたいのは喧嘩なんかじゃない。もっともっと兄のことを知りたいし、近づきたいんだ。

 帰る、と身を翻して校長室を出ていく兄。取り残された僕に、校長先生は微笑みながら、追いかけなさいと促す。僕は先生に軽くお礼の挨拶をし、彼の後を追いかけた。


 「…耀っ!」

 部屋から飛び出せば、片割れは数十歩先を足早に歩いていた。僕は廊下をまるで短距離走みたいにして走った。

 「待ってよ!」

 千載一遇のチャンス。これを逃したら、兄ときちんと話し合う機会はもう訪れないかもしれない。そうしたら、いつまでもズルズルと平行線を引き続けるだけで、何の解決にもならない。

 近づいたら、思い切って兄の腕にしがみついた。

 「おい…っ」

 「待ってよ…っ、話したいことがあるんだ」

 走ったせいで息が上がる。兄の方を見上げれば、すごく嫌そうな顔で見下(みおろ)していた。

 この表情にも慣れたものだ。最近、耐性が強くなってきているように感じる。

 「耀が何を考えているのかは分からないけど、僕は耀と演奏会に出るからね? そこは絶対に変えないからっ」

 「聖…」

 「それと今まで酷いこと言ってごめん…謝るから」

 ごめん、と何度も泣いて謝った。思えば、兄と再会してから酷いことばかりを言ってきた。

 いくら心を開かない兄に苛立っていたとはいえ、怒らせるのも無理はないし、険悪になるのは当然だろう。

 そんなことを続けていても、関係が良くなるはずがない。ギクシャクした関係のまま演奏会に出ても、いい音楽が作れないだろう。

 もう寂しい思いはしたくない。目の前にいるのに、無視され続けるのはもう嫌だ。

 「ごめん…、本当にごめん。関わりたくないって言ってるのに聞き分けがきかなくてごめん…でも僕は耀と離れるなんてできないよ…」

 「…」

 「もう過去のことは聞かないから…3年前のことももういいから…、せめて、学校にいる時だけでいいから、耀のそばにいたい…っ」

 耀は押し黙ったまま、困惑したように眉根を寄せていた。それもそうだろう。耀に対して悪口雑言ばかり言っていたのに、手のひらを返したかのように下手に出て謝っているのだから。

 怒っているのかレスポンスがない。僕は慌てて腕を離した。

 「…あ、ごめん、迷惑だったよね…い、今のは取り消し」

 「…分かったから…、」

 「…え…」

 予想外の言葉に首をもたげる。動揺しているのか、耀は目を泳がせて横を向いていた。初めて鉄仮面のような無表情が崩れていた。

 「分かったから泣くなよ。昔と変わらなすぎだろ。…馬鹿」

 (う…そ、)

 すました顔はどこに行ったのやら、今は僕の存在に困っているのか、珍しく挙動不審になっている。

 それよりも、耀が昔のことを持ち出してくれたことの方が意外だった。

 「…馬鹿だよ、おまえは。…こんな家出した放蕩兄貴にまとわりついて。…得することなんて何もないのに」

 「そんなことないよ! 耀がどんな風になっても、耀なのは変わらないんだから」

 「それが馬鹿だと言うんだ。今の俺を見れば分かるだろう? ただのろくでなしだぞ?」

 「いいよ、ろくでなしても。だって耀だもん」

 ほんと馬鹿、と耀は苦笑いして歩きだした。僕はその苦笑の意味を知りたくて、ハエのように追いかけた。

 「馬鹿は耀だよ…? 僕は今でも耀が好きなんだ…っ!」

 僕の叫び声に、耀ははたりと歩みを止める。それを見て、自分の失言に思わず口を手で塞いでしまう。

 (怒ったかな…怒ったよね…?)

 「…やめろ」

 案の定、地から這い上がるような低音ボイスで言いのけられる。

 「耀……」

 「そういうのやめろ…虫唾が走る。俺たちはもう小さな子どもじゃないんだ」

 「ご、こめん…」

 「そんな気持ちを抱いているのなら、俺は降りるからな」

 声が、震えていた。

 やはり迷惑なんだろうか。兄の冷たい切り返しに、胸が痛くなった。

 彼は再び歩み始めた。僕は後を追うことも出来なくて、その場に茫然と立ち尽くしていた。

 

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