♯Eps.12
「うわー、何かおれ緊張してる」
今日は、母さんのリサイタルがあった。会場は、シンフォニーホール。1000人近く収容出来る、大ホールだ。
リサイタルは超満員で、大喝采のうちに終わった。母さんの演奏はいつものように素晴らしかった。伴奏者とのやり取りも緻密で隙がない。音色の美しさも、音楽の力強さも、内側から湧き出るような情熱も、今の僕には真似できない。
改めて、母さんはすごいのだと思った。久々に胸に覚えた感動。早く家に帰って練習したいと駆り立てられるほどだ。
終演後、僕と高貴は大ホールのロビーでウロウロしていた。というのも、母さんの楽屋に一言挨拶しておこうと思ったのだが、楽屋の入り口がわからない。母さんは今、サイン会で長蛇の列となったお客さんを相手している。実の息子がそれに顔を出すのも恥ずかしいので、先に楽屋に入ろうとしたのだが、館内で迷ってしまったのだ。
「僕も緊張してきた…」
「何で聖が緊張するんだよ」
「いやぁ…だって久々だし…」
親でもあるけれど、尊敬する音楽家でもあるからね。
「あ、聖、ここじゃない?」
「え? あそうだ」
周りの壁と同化した隠し扉。隣にはガードマンも立っている。ここだ、これはきっと楽屋へと通ずる道だ。
僕はスーツ姿のガードマンと話をつけ、中に入れさせてもらった。薄明るい廊下を指示通りに進めば、舞台下手が見え、さらに先に進めば楽屋がずらりと並んだ通路に突き当たった。
「うっへぇ、ほんとに来ちゃったよ…静香さんと会えるヨまじで」
「はいはい」
興奮する高貴は適当に受け流して、母さんの部屋を探した。手前から二番目のドアに、「芦ノ宮静香様」と書かれた貼り紙がしてある。芦ノ宮とは母さんの旧姓で、昔から演奏家として活動する際は元の姓を使っている。
「あった、あそこだな。先に入っててって言われたから、高貴、入るよ」
「え? 良いのマジで。おれ部外者なのに」
「いいんだよ。何遠慮してんだよ。さっきまで会いたいって騒いでたくせに」
「だってしょーがねーじゃんか」
きらきらと目を輝かせる高貴。それはいいのだけれど、鼻の下が伸びている。
実の息子としては、ちょっと複雑だ。
ドアを開ければ、部屋の中は花束で溢れかえっていた。おそらく今日来ていたファンの人から贈られたものだろう。甘くてくらくらしそうな花の香りに、頭がぼーっとしてしまいそうだった。
「すげーな、やっぱ静香さんって、熱烈なファンがいっぱいいるんだ」
高貴はそれらを舐めるように眺め、ポツリとそう呟いた。僕はそばにあったソファに腰掛けた。母さんのリサイタルはいつもこんな感じだ。
「そうみたいだね。特に、中高年の男性ファンは圧倒的に多いみたい」
「そうかー。やっぱりなー」
しばらくの間高貴と二人でソファでくつろいでいた。開演前から感じていた緊張からは一気に解放され、欠伸が出始めていた頃、扉をノックする音が聞こえた。はい、と扉に駆け寄ると、深い紫色のドレスを身にまとった母さんがにこやかに入ってきた。
「あら、聖、」
艶やかな顔立ちと上品な化粧。うん、確かに男性に人気があるのも分からなくない。
「母さん、今日はおつかれ。すごく良くて感動しちゃった」
「そんなこといいのよ、今日はわざわざ来てくれてありがとう。あら、高貴さんまで」
母さんは部屋の奥の方に目をやり、優雅な身振りで微笑んだ。高貴の方を振り返ると、顔を赤くしながら会釈していた。
「す、すすすすごく良かったです」
「ありがとう」
とりあえず、母さんの前でカチコチになる高貴を見ているのが楽しかった。人間って過緊張すると動きがロボットみたいになるらしい。
「…何笑ってるんだよ!」
「あはは、ごめんごめん」
眼鏡の奥で、顔を真っ赤にする友人。僕は面白いのであえてフォローしなかった。
その一方で、同じ顔のあの人のことを思い浮かべていた。
早く母さんにあのことを伝えなければーー。
♯♯♯
「…え…本当に?」
母さんは信じられない、という顔をしていた。母さんは今、僕のアパートに泊まりに来ている。
「…それは、本当なの?」
「うん。兄さんもあの学校に入学してたんだ」
リサイタルが終わってからは、高貴と僕ら親子二人で夕食に出かけた。そこからは高貴とは別れ、アパートについたらすぐに、兄のことを残らず話した。
驚きのあまり、母さんは口に手を当て、目を見開いた。完全に平常心を失っているようだ。
「本当にそうなの? 生きてたのね!?」
「…うん……生きてたのは生きてたみたい」
「そう、それなら早くあの子の元へ行かなくては…っ」
「……母さん」
焦燥と歓喜が入り混じった表情を浮かべる母さん。ヴァイオリンを弾いていた時の強くてしなやかな女性というイメージからは程遠い。彼女も一人の母親であり、一人の人間なのだ。
「それがね、今出来ないんだ。兄貴の様子がおかしくて」
「様子がおかしい…?」
「…うん。なんて言ったらいいのか分からないけど、ちょっと、オカシイんだ。少なくとも、以前の耀と180度違う」
「…どういうこと?」
「僕にも分からない。でも、ただならぬ雰囲気なのは確かだよ」
不良よろしく乱れた身なり。眉間にはいつもシワが寄っていて、不機嫌そうな顔をしている。弟の僕はまるで他人扱いで、見る目が冷たいし素っ気ない。養子になったとか、売春していたとか言うし、どんな災いが彼に降り掛かったのか分からない。
おまけに、僕や両親のことが嫌いらしい。家族想いだった彼は、いつの間に親不孝者になったんだろうか。
考え込む僕の横で、母さんはまぶたに涙をためていた。
「…母さん大丈夫?」
「…でも、とりあえず生きてくれていて良かったわ…」
母さんはそのスラリとした指でハンカチを取り出し、涙を拭った。僕はそれを見て胸が痛くなった。母さんにこんな顔をさせるなんて、あいつは相当罪深い。
何があっても絶対に兄を取り戻す。そのためなら僕は何でもする。
改めて、母さんに向き直った。
「…母さん、念のため、まだこのことを誰にも言わないで。父さんには言ってもいいけど。だけど、まずは僕があいつに近づいてみるから、それまでは知らないふりをしていて」
「聖、……」
「あいつは養子縁組して別に養父が存在するみたいだからさ。その人がどんな人か、あいつがどんな環境にいるのか分からないうちは、変に刺激すると良くないから」
もしかしたら、その養父が黒幕かもしれないから。
涙を拭いていた母さんは驚いたように一瞬僕のことをじっと見つめた。そして一文字に結ばれた口元が、僅かに弧を描いた。
「…分かったわ…父さんにもそう伝えておくわ。それにしても、あなた、家を出ていく前のお兄ちゃんに似てきたわね」
「え…」
「物言いがはきはきしていて、まるで耀かと思ったわ。以前では考えられないくらい、あなたもしっかりしてきたのね…」
思いもよらぬ言葉に、僕は複雑な気持ちになった。確かに、兄がそばにいた頃は兄に頼りっぱなしだった。病気もしていたし、軟弱で人見知りで、幽霊みたいと馬鹿にされたこともあった。しかし兄がいなくなってからはそんなことも言っていられない。自分で出来ることは自分でしないと、周りから取り残されてしまう。そうして時が過ぎていくうちに、今日まで来たのだ。
「褒めるに至らないよ。僕は高校生なんだから。あの時の耀は小学生だからね。比べ物にならないよ」
そう、比べ物にならない。僕と兄では、持ってる才能も器も違うんだ。
だから、耀があんな風になってしまったのは、許せないし惜しいんだ。本来なら高貴なる存在なのだから。
♯♯♯
母さんにはそう言ったものの、それからは何ら進展はなく時間だけが経過していった。
廊下ですれ違うたびに何度か話しかけたけれど、全部華麗に無視されてしまう。無礼、不人情極まりない。
いくら関わりたくなくても、僕らは双子だ。切っても切れない絆があるんだ。
あいつがどんなに断ち切ろうとしたって、絶対無理な話なんだ。大体、家出した理由だってちゃんと教えられていない。関わりたくない、なんて理由になっていない。それならばどこに問題があったのか教えて欲しいものだ。
来る日も来る日もまるで僕のことは存在しないかのように振る舞う兄に腹が立って、ある日、音楽棟の廊下で出くわした兄を、誰もいない練習室に連れこんだ。バタン、と勢い良くドアを閉め、すぐには逃げられないように、内鍵を閉める。
「…何のつもりだ」
「何のつもりもどのつもりもないだろ! 徹底的に無視しやがって!」
「……ふん」
悪びれもせず、兄は不機嫌そうに鼻を鳴らす。昔想い合っていた相手は、腕を組んでピアノの椅子に腰掛け、不満そうに貧乏揺すりをしている。
そんなに僕といるのが嫌なのだろうか。目も合わせたくないほど、僕は耀にとって邪魔な存在なのだろうか。
寂しい。
「何でそんなに偉そうなんだよ。何様だよ」
「……聖」
「何だよ!! 僕はずっと心配してたのに…っ!」
また喧嘩を始めてしまった。
本当はこんなことしたくないのに、兄を前にすると、抑えていた感情が爆発してしまう。
多分僕がもっと大人にならなければならないのだろうけれど、自分をコントロールすることができない。
こんな日が何度もあった。兄とすることといえば口喧嘩。しかしそれはほぼ僕からの、一方的なものだ。
日を追うにつれて、僕らはますます険悪になっていった。




