♭Eps.10
「あっ、」
――一瞬、何が起きたのか分からなかった。
いや、正確には、分かっていたけれど理解したくなかった。
自分と同じ形をした人間が、目の前に立っていた。
♭♭♭
「はー…」
学校が始まって3日目。今日は身体測定とか健康診断をやるという日で、俺は朝っぱらから委員の仕事に駆り出されていた。
というのも、昨日のオリエンテーションの全部を零士に丸投げしたせいで、あろうことか保健委員になってしまったのだ。零士曰く、保健委員になって人に奉仕する心を学べば、優しくなれるらしい。零士にしてはいいことを言う。実際のところはよく分からないが。
「大丈夫ですか、黒木くん…」
ともに身長計や体重計を保健室から運び出すのは、同じ保健委員の春日井冬夜だ。小柄で、ふわふわ系の男子。フルートを専攻しているらしい。B組のナースはどちらも男だ。
「大丈夫、寝不足なだけだから」
ぶっちゃけてしまえば、全然大丈夫ではない。昨日夜中に目覚めてから、言葉通り睡眠らしい睡眠はとっていない。
「でも顔色良くないですよ…」
「うん、ちょっと不眠症なんだ。あ、冬夜、足元に虫」
「へ!?」
冬夜は慌てて飛び跳ねる。しかし4月の初頭、まだ孵化する虫も冬眠から目覚める虫もはいない。
「やめてくださいよ〜…」
「ごめんごめん」
からかうと反応が楽しい。こんなことに楽しみを見つけてしまうなんて、相当性格が悪い。
早朝から計具を体育館に運び出すという面倒な仕事を終え、冬夜と共に教室に戻った。教室はすっかり騒がしくなっていて、チャラ男の零士も登校していた。
「行こーぜ〜、耀」
SHRの時間が過ぎると、俺たちは着替えるために更衣室に移動する。行動を共にするのは、カチューシャとオールバックの零士と、冬夜と、あと隣の席の眼鏡くん。いつの間にか大所帯になっていた。
更衣室は、古めかしい一般棟のハズレにある。特に男子の更衣室は女子のものよりも遠く、不便な場所にある。女子は需要の問題からか、教室のすぐ近くにあるので、多分男子の誰もが羨んでいることだろう。
おしゃべりな零士以外はほぼ無言のまま、階段近くの狭い更衣室まで目と鼻の先というところまで至った。朝なのによくそんなに元気でいられる、とほとほと感心していたところ、慣れてきた風景に油断していた俺は、突然押しつけられた光景に目を疑った。
更衣室のドアが開いた。中から現れた、馴染みのあるシルエットが自分の目に飛び込んでくる。
「あっ、」
――一瞬、何が起きたのか分からなかった。
いや、正確には、分かっていたけれど理解したくなかった。
自分と同じ形をした人間が、目の前に立っていた。
(…うそ、だろ…)
事の始まりは、あまりにも突然だった。
反射的に足が止まってしまう。これ以上、近づけないと警告が出ているかのように。
「おい黒木、大丈夫か…?」
いきなり立ち止まる俺に、背後から心配の声がかけられる。しかしそれらはすべて、耳の奥で霞んでしまう。
栗毛色の髪、そして透けるように白い肌。
その北欧の血が混ざった顔立ちも、薄茶の瞳も、よく覚えている。
華奢な身体はそれなりに筋肉がついて、自分よりほんの少し大きくなっていた。
(……)
予期せぬ光景を前に、思考する正常な回路が奪われ、血流が逆流する感覚に囚われていた。
そいつも俺に気づき、俺と同じ薄茶色の瞳で見つめ返してくる。心臓が激しく暴れる。地面に縫い付けられたように、その場から動けない。
悪夢は現実を追ってきたと思った。
これは何かの間違いなのではないか。もしかしたら、また夢を見ているのではないか。
栗毛の君は、俺の名を読んだ。
もう夢なのか現実なのか分からない。
時間を忘れ、自分を忘れ、そいつの登場に目を見張る。あり得ないと、これは何かの悪夢だと、でもこれは現実なんだと、頭が混乱してしまう。
もう二度と、会ってはならない存在なのに。
胸が、苦しくなった。
「…大丈夫ですか、黒木くん」
冬夜の声に、我に返る。後ろを振り返れば、3人が揃って不安そうな顔をしていた。
「…あぁごめん、平気」
「そのわりには顔が青いですよ」
「何でもない。たいしたことじゃないよ。行こう」
俺は悪夢を睨み返し、勇気を出して歩き出した。
神がいるなら呪いたかった。
♭♭♭
悪夢のような再会から2時間が経った。身体測定の真っ最中で、冬夜と保健委員の仕事をしている。
遠くに、相葉たちがふざけ合っているのが見える。何も悩み事が無さそうで羨ましい。
俺はため息をつきたくなった。
まずいことになった。まさか弟が、同じ学校に入学していたなんて思っていなかった。
せっかく3年間顔を合わせずに済んだのに。罪深さから、弟に合わせる顔なんてないのに。
「はぁー…」
「五度目ですね」
「え?」
「ため息」
冬夜は呆れたように微笑んだ。知らないうちにそんなにため息ついていたのだろうか。
「…ん、ごめんな」
それも仕方ない。まさかの出来事に見舞われているのだから。
遠くから、何人か人がやって来た。俺たちが担当しているのは身長で、俺が身長計を操作し、冬夜が横で記録する。
その集団が測り終わると、また暇になった。何もしていないと、先ほどのことばかりを考えてしまう。
「残酷だよな…」
「はい?」
冬夜は驚いて振り返る。
「いや、こっちの話」
運命とは凄く残酷だ。きっぱり縁を切っていたのに、無理矢理引き合わせて俺を困らせている。もうどうしようもないというのに。
「…そう言えば黒木くん、さっきの人は黒木くんに何か関係あるんですか?」
「んー…」
冬夜の質問を横に流し、再び遠くを眺める。噂をすれば、その人物が友達を引き連れて歩いている。
胸がチクリと痛んだ。嫌なものを見た、そんな気分になる。
でもあいつは今の俺と何も関係ない。顔が同じという以外は、繋がりがないのだ。要するに、赤の他人。
「…なんだろうな」
弟がふとこちらを向いた。俺はすぐさま視線を逸らした。耐え難い時間だった。




