♭Eps.9
――そこは、見慣れた自分たちの部屋。
オフホワイトの壁紙の小さな部屋に、勉強机一対と、二段ベッドとクローゼットが、ひしめき合うように設置されている。
部屋の広さにそぐわぬ大きな窓には、自分と同じ背格好の片割れが、窓枠にもたれるようにして外を眺めていた。手のひらほど開けた窓から、柔らかな風が入ってくる。それは、彼の栗毛色の髪をさらさらとなびかせていく。
すぐに夢だと分かった。現実にはこんなに穏やかな風景はない。
夢の中まで現実的に考えてしまう自分に嫌気が差したが、幻想でも片割れの姿が見られだけで、心が落ち着いてしまう。ただ、ぼんやりとその華奢な背中を眺めていた。
せ、い、と自分の口が動いた。音としては聞こえていないが、自分でははっきりとそう言った。一歩踏み出そうとした途端、えも言われぬ激痛が、体中を襲った。
――お前は、悪い子供だ。
首を縄で絞められているように、苦しくて息ができない。気づいたら穏やかな風景はどこにもなく、漆黒の闇が目の前に広がっていた。土のような地面に倒れ込み、やけどのように爛れた痛みにもがいていても、そばには誰もいない。声もかすれて、助けを呼ぶ声すら出ない。
――お前など、生まれてきたのが間違いなんだ。
低い男の声が耳どころか身体をつんざく。やめて、と懇願しても、男の声は止まらない。激痛ももはや感じないくらいに痛み、体は震え、手足がばらばらになっていく。
…っ、…ぅ、
どこかで、誰かの声がする。早くこんな夢から覚めたい――。
「…よう、耀…っ!」
目を開ければ、蛍光灯で真昼のように明るい部屋にいた。心拍数が上り、気持ち悪いほど脂汗をかいていた。ベッドに横になる俺に、翔は上から心配そうに覗き込んでいた。
「…大丈夫か!? 凄く魘されてたぞ」
「翔…っ」
友人の顔を見たら、ホッとした。よかった、夢から解放された。
同時に、急に怖くなる。現実世界と夢の世界の境界線が曖昧な気がしてならないからだ。夢が現実に追ってきそうで、怖い。
俺はベッドから起き上がり、ふらつく足で洗面所に向かった。胸のあたりにムカムカとしたものが込み上げてきたので、顔を洗う前に、トイレで嘔吐した。
「…大丈夫か?」
様子を見ながら、翔が洗面所に入ってきた。そしていたわるように俺の背中をさすった。春早々、翔には迷惑をかけてしまった。
「…ごめん……」
「気にするな。夢見が悪いのは相変わらずなんだな。これは泊めて正解だったかも」
その言葉を背中で聞きながら、顔を綺麗にした。翔に肩を組んでもらい、二人三脚でベッドに戻る。
しばらく悪夢に悩まされずにいたというのに。気を抜けば、すかさず隙をついてくる。
「耀、俺の肩に頭載せて」
「…ありがとう」
ベッドに並んで座り、俺は翔の肩に寄りかかった。夢の残像が目の裏に焼き付いている。
気持ち悪いし、目は冴えているので眠れない。気分は最悪だ。
「…落ち着いてきたか?」
「…ん…ちょっと」
「どんな夢見てた?」
翔は俺の背中を撫でた。まるで泣きじゃくる子どもにするように。
「……分からない。自分でも不可解極まりない夢だった」
「…そうなんだ。いつになったら悪夢を見なくて済むんだろうな」
いつまでも過去に縛られたくない。だけど、簡単には手放してはくれない。
「…分からない……」
疲弊しきった身体を完全に彼に預け、目を閉じた。寝て疲れるなんて馬鹿みたいだ。
結局、その後一睡も出来ずに朝を迎えたのだが、この悪夢に続きがあることは、その時の俺はまだ知らなかった。




