♭Eps.8
「おやすみ」
「…うん」
夜も更けると、俺たち親子は、寝室のダブルベッドに並んで横たわる。ライトが消されると、寝室は暗闇に包まれて、俺は無意識のうちに父親の裾を握っていた。
「…ん、どうした、耀」
真一は俺の頭をわしゃわしゃと掻き撫で、額にキスを落としてきた。彼が触れた部分から、少しだけ、不安感が消えていく。
「…大丈夫だよ。俺がずっと側にいるんだから」
「…ん……」
「大好き」
そのまま背中に手を回され、強く抱きしめられる。柔らかな言葉は、萎縮した自分を溶かしていく。この人は、俺が暴走しないようにツボを押えている。
今夜もどうにか夢を見ずに寝られそうだ。
「…真一」
「何だ」
「あのさ…」
俺は真一の腕の中で目を閉じる。柔らかいシーツに包まれて、温かくて心地よい。
まるで、南極のペンギンになったみたいだ。親の下なら、凍てつく寒さも感じずに過ごしていける。
「昨日言いそびれてたことなんだけど。バイトの帰りに、晶人に出くわした」
「…え」
真一の声色が一気に固くなる。その名前は、俺達にとって呪いのようなものだ。
「どこで」
「このマンションのエレベーターで。途中から乗ってきたんだ」
「本当か。何か変なことされなかったか?」
「…ん、…ちょっと」
言い淀んでいると、真一は俺を安心させるように、髪を撫でてきた。しかし、考え込んでいるのか、言葉は何も発さなかった。
無言の時間が流れていった。
「…そうか、ごめんな」
真一は、俺の頭に顔を埋めるようにして呟いた。
「それは俺の不注意だったな。すまない。しばらくは店の手伝いもするな」
「…でも……」
「俺はおまえの安全が最優先だ。もう3年前の繰り返しはしない」
真一の言葉は、意志が固く、どこまでも揺るがない。俺はそれに頼るしかなかった。その言葉に委ねてしまえば安心だと思えるほど、真一の存在は大きかった。
これが、護られているということなのだろうか。もう真一がいない世界は考えられない。
「…ありがとう。そうする」
「ああ、そうしろ」
「…それが起因なのかは知らないけど、今とてつもなく胸騒ぎがするんだ……嫌な感じの…」
晶人に会ったからそう思い込んでいるのか、自分の身の周りで何かが起きそうな予感がする。それはいいことなのか、悪いことなのかは分からない。
しかし、この手の胸騒ぎは、だいたい外れない。
「耀」
少し間を置いて、彼がおもむろに語りかけてきた。
「…それはどんなに嫌な感じであっても、マイナスに考えないようにするんだ。負の感情はさらなるマイナスを呼ぶからな。それでも、何かあった時は、ただちに俺に言いなさい」
すぐに助けに行くから、と耳元で囁かれ、幸せな気分になったところで、睡魔に襲われた。甘いレム睡眠へ引き込まれ、彼がいるという安心感のもとに俺は深い眠りについていった。
その数時間後、珍しく連日熟睡して朝を迎えた。隣に眠る人はいつものように先に起きていて、朝食を作っていた。彼に出送られ、学校の最寄り駅に着くと、相葉零士が改札の外で手を振っていた。別に待ち合わせの約束をしていた覚えはない。ということは、待ち伏せだろう。
「おはよ、黒木耀」
やつは犬みたいに俺に近づいては、嬉しそうに近寄ってきた。まるで金色のチワワみたいだ。しつこい。
「…おはよ」
「なーなー、オレ、ケース新しくしたんだぜー?」
どうだー、と零士はくるっと背を向け、背負っているサックスのケースを見せつけた。銀色でメタルな上に、髑髏と巣を張った蜘蛛がでかでかと彫られている。明らかにヴィジュアル系。確かに自慢するだけのことはある。
しかし、どこでそんなの売っているのかは疑問だ。
「ふーん。人寄りつかなそう」
「えー、それー!? もっと、格好いいとかないのー!?」
「ないかな」
ちぇー、と口を尖らせる零士。今日も髪型はワックスでガッチリ決めてある。眉毛もきっちりと刈り揃えているのを見ると、ヴィジュアルだけには相当なこだわりがあるようだ。
「なあなあ」
チャラ男こと零士は、また馴れ馴れしく肩を組んできた。暑苦しい。
「お前のこの赤い髪は地毛? それとも染めてんの?」
「…聞いてどうする」
「いやだって、見た感じ耀ってハーフじゃねぇの? だから地毛もあり得るのかなーって思ったんだけど」
何となく、こいつには答えたくない。確かに俺の生みの父親はハーフだったけれど、それをわざわざ零士に教えたくはない。
「…染めてるけど」
「何だ、俺の仲間じゃんっ。よく見たらピアスまで開けてやがるし。耀ってヤンキーなん?」
顔の近くでニタニタと白い歯を見せて笑う零士。頭の悪そうな顔して、能天気お天気。誰もお前なんかと一緒にされたくない。
「…離せ」
「お?」
「お、じゃねえし」
「もしかしてツンデレキャラ?」
「うざい」
本格的に引き剥がした。基本的に、真一以外には触れられたくない。零士は少し困った顔をして笑っていたが、構わずにまた擦り寄ってきた。
「なー、耀、仲良くしようぜ〜、同じクラスじゃねぇかよ〜」
「うざい」
いっこうに状況が変わらぬまま、学校に到着した。桜の花が咲き乱れている大きな門をくぐり、小さな校庭を抜け、一般棟と呼ばれる古い建物に入った。ここは各クラスのHRや一般科目の授業を行う棟で、その横の音楽棟とも繋がっている。
俺たちは入り口近くの階段を上る。自分のクラスの教室くらいは覚えたが、まだ何回かしか訪れていないので、他の部屋の位置関係はあやふやだ。
「耀、今日人多くね?」
「気のせい気のせい」
人ごみを掻き分けて自分たちの教室に足を踏み入れる。音楽棟と違い、こちらは木造の名残のある年季の入った校舎なので、教室の中もひと昔前の雰囲気が漂っている。
クラスメートたちがおはよう、と挨拶してくる。それらを適当に返し、自分の席に着いた。まだ零士以外は誰も分からない。あまり興味はないから、それで支障を来すことはないけれど。
「耀〜」
学校に着いてもなお、零士は纏わりついてくる。俺は自分の席で本を読もうとしていたのに、かまってちゃんは本を取り上げ見事に邪魔してくる。
「読書なんて根暗なことしてないで、とりあえず話そうぜ〜」
「何でお前なんかと」
「あ、今お前なんかとって言ったな? その台詞、あとで後悔するぜ!」
「意味わかんねぇよ。どっか行けよ」
「拒絶されればそれるほど、近づきたくなる……これは恋!?」
「うざい」
結局、嫌々ながらも零士のペースに乗せられてしまい、またほぼ一日中この暑苦しい男に付き合わされることになった。しかし、今日は授業などはなく、オリエンテーリングが主だったので、決めごとはすべて零士に丸投げした。うるさいし鬱陶しいけれど、従順な犬だと思えば悪くない。
…そう思ったのも、一瞬だけだった。
「耀!」
最寄り駅の改札付近で、違う制服を着たスラリとした男が、片手をスラックスのポケットに突っ込みながらこちらに手を振っていた。
デジャヴ。しかし、その人物は真一ではない。少なくとも、あの親父よりは落ち着いている。塩顔とよばれるあっさりした顔立ちを目にしたら、それまであった胸のしこりがスッと融けてなくなるのが感じられた。
「…翔」
「よかった。駅は同じで」
彼は、寄りかかっていた壁からむくりと体を起こし、こちらへゆったりと近づいてくる。反対に俺は、いそいそと彼のもとへ歩み寄る。
「ごめん、待ったか?」
「…全然。というか、耀ならいくらでも待てる」
翔は自分の言ったことに小さく笑った。俺もつられて口元が緩んだ。
「……意味わかんな」
「自分でもそう思った。でも、耀ならもう何も気にしないよ。中学の時からの仲だからね」
「待った時は怒れよ。俺が腐るだろ」
「はいはい」
俺たちは和気あいあいとしながら、帰り道を共にした。こいつは矢崎翔といって、中学からの付き合いで、俺が唯一友と呼べる存在でもある。俺は幼少の頃からヴァイオリンをやっているが、翔もたまたまピアノが弾ける人間だったので、それがきっかけで仲良くなった。
「突然どうしたのかと思ったよ。いきなり電話かかってくるんだもんな」
「ごめん」
「いいよいいよ、耀が会いたいって言ってくれること、そんな滅多にないし」
「ちょっとホームシックになった」
「ははは。耀らしい」
駅を出て、駅を中心に続いている大きな通りを、肩を並べて歩いた。この通りは夜になると、居酒屋のキャッチであふれる繁華街になる。中学時代も、ここをよく二人で通っていたことをしみじみ思い出す。
「…今度のさー、真一さんのところでやるライブ、曲何やる?」
「うーん…定番のやつは結構やってるからなぁ」
養父である真一の店では、ほぼ毎日、プロやセミプロのミュージシャンのライブがある。おまけで、俺と翔もたまに演奏させてもらっている。
「うーん、あんまり今は思いつかないや。というか、思いついても上手くまとまんないや」
「俺も。まあ、もう少し後でもいいよね。…あ、耀、俺んち寄ってく?」
「うん」
大通りを外れ、いりくんだ住宅街を縫うように歩いた。彼は高校に入学するにあたって、一人暮らしを始めている。翔のアパートは、俺が住んでいるマンションより駅に近い。そして防音室だ。昔から彼の家に入り浸ることがよくあったけれど、この好条件なら、それがさらに増える予想だ。
翔のアパートに着いて、俺たちはしばらく何もせずにくつろぎ、お互いの近況を語り合った。同年代なので、真一よりかは話しやすい。
お互い会話の花を咲かせている一方で、俺は、近頃覚えていた胸騒ぎがさらに大きくなったのを感じた。




