♭Eps.0
前作を書き直しています。
R-15となります。
[ Ⅰ. Prelude ]
記憶の片隅だけに存在する、双子の弟。
『――…イ…セイ…ッ』
僕の声に、君は振り返る。そして、天使のように微笑んだ。
自分と同じ10歳のはずなのに、その笑顔で心の凝りが溶けていく気がした。
『…なに? ヨウ』
『…何でもないよ』
『なんだよー、気になるよー』
『気にするなって』
『どけちー』
けちでもどけちでも何とでも言え。実際、何も用がなくて声をかけたので言うことはない。
君が隣にいるだけで、満ち足りた気分になる。だから言葉なんてそもそも要らない。
『…セイ、もう熱は下がったのか?』
『うん! もうバッチリだよー!』
本人は満面の笑みで言うけれど、この子は嘘をつく。しかも、双子の僕にはとても分かりやすい嘘を。
試しに彼の額に手を当ててみれば、まだまだじんわりと熱かった。
『…やっぱりな。まだ寝てなって言ったでしょ』
『…ごめんなさい。でも、もうやだよ。どんどんヨウに置いてかれる気がするんだもん』
セイは僕の肩に顔を埋め、口を尖らせた。密着した部分から、切なさと悔しさが流れ込んでくる。
『……置いていかないよ』
『嘘だ』
『ほんとだよ』
『…嘘だっ。だってヨウ、またテスト満点だったんでしょ?』
『まぁ…うん』
『やっぱり』
『セイだって、人のこと言えないでしょ?』
『えー、絶対ないない。僕、頑張っても70点とかだし。ヨウみたいに頭よくないし』
『セイは体弱くて寝込んでいることが多いから、その分ハンディキャップがあるだけだよ。実際はもっとすごいはずだよ』
『そーかなー』
そう言いながらセイは天を仰いだ。僕もヨウみたいになりたいよー、っと嘆く。僕はその肩を抱き締める。背は僕の方が少しだけ高い。
『よ、ヨウ!?』
『…焦らなくて大丈夫だよ』
こんな自分に劣等感なんて感じてほしくない。君は、僕以上のものを持っているのだから。
君がもし、くじけそうになったら僕が支えてあげるから。
そして、いつも守りたい。君を、どんなときも。
『……愛してるよ』
君を、永久に。
「――…耀っ」
背後で名前を呼ばれ、俺は現実の世界に舞い戻った。自分の身を振り返れば、薄暗い店内と裏腹に、高級感溢れるバーカウンターが、きらびやかな光を帯びて囲んでいる。
そう、俺は今、バーテンダーなのだ。
「…ぼーっとしてるんじゃない。手を動かせ、手を」
首の後ろで低い声がする。振り返って見上げれば、この店の店長もといマスターが、やさしげな顔を怒りに歪めて立っていた。
「……ごめん」
彼に謝り、慌てて作りかけのカクテルをシェイクする。マスターは念を押すように俺の肩を軽く叩いた後、再び自分の持ち場に戻っていった。
「……何かあったのぉ?」
酒をシェイカーからグラスにあけていると、目の前に座る化粧の派手な女が、甘ったるい口調で問いかけてきた。まさか思い出に浸っていたとは言えないので、俺は軽く微笑んでごまかした。
「……ちょっとね」
「やーん気になるぅ…その先は? 」
「………内緒」
「ケチ。…ますます聞きたくなるじゃない」
そいつの尋問に笑って過ごし、質問を制するようにピンクのカクテルを差し出す。
「どーぞ」
「ありがとぉっ…うわぁ…きれい…」
体格のいい女は、嬉しそうにグラスを受け取り、しばらくそのピンクの色合いをうっとりと眺めていた。しかしそれも一瞬のことで、グラスを傾けたかと思うと、仕事帰りにビールを流し込むがごとく、一気に飲み干してしまった。
「あー…美味しいっ……」
女は厚化粧が崩れそうなほど満足そうに笑い、グラスを木目調のテーブルに置いた。
「…ありがとう」
見ていて、ちょっと残念な気持ちになった。一気飲みで味など分かったのだろうか。礼は言ったものの、どうせ飲むならもう少し味わえばいいものを、と少し毒づいてみたりもした。
女は顔をさらに赤くしながら、頬杖をついてタバコをくわえる。そのタバコと女のきつすぎるほどの香水が絶妙に混ざり合い、あたりは異様な空気が漂っている。 思わず、顔をしかめたくなった。
俺は気を紛らせるためにグラスを拭く。照明の光が反射して、少々目が眩んだ。
「ねぇ…ヨウ」
時間を忘れて無心になっていると、女が先ほどよりもぼんやりしながら呟いた。
「…何」
「…あんたさあ、カノジョとかいないの?」
その言葉は、真っ赤なルージュをつけた唇から、煙と共に吐き出された。耳タコな話題に、内心ため息をつきたくなった。女はそういうことしか頭にないのだろうか。
「…いないよ。どうしたの、急に」
言うと、女はしばらく俺を疑い深く見つめ、視線を落として吸い殻にタバコをつついた。
「いやぁさ……あんたみたいないいオトコ、そこらの女がほっとくわけないと思うんだけど。やさしいし…頭もいいし。女からの告白なんて、二度や三度じゃ済まないでしょ?」
目の前の女がいたって真面目に言うので、俺は苦笑せざるを得なかった。
「…麗さん俺を買い被りすぎ」
「…そんなことないわ」
「ううん。俺はあなたが思うほどの人間じゃないよ。…それに告白を受けたとしても、それですぐに付き合うっていうわけじゃないか。気もないのに彼女を形だけ作ろうとしたって、相手が傷つくだけだろ」
「そんなこと言ってさ、」
女は視線を宙に漂わせ、煙を吐いた。
「…傷ついてんのはあんたなんじゃないの?」
「え…」
今まで耳にしたことのない言葉だった。グラスを拭く手を止め、俺は女を凝視する。
「……あたしには、あんたは何かを我慢してるように見えるけど?」
女の見透かすような視線に、ふつふつと得たいの知れない感情が沸き起こった。
我慢しているだなんてあり得ない。俺は昔に戻りたくないし、今の生活にすごく満足している。 俺の何が分かってしゃべっているんだと、言いたくなった。
「…俺は別に、今のままでいいんだ」
俺は何とか平静を装って、グラスを拭く。
「何も不満なことはないし、このままずっと……」
「何言ってんの!!」
女はテーブルをバンッと叩き、一同の注目を集めた。
「あんたみたいな若造、恋愛もしなくて仏にでもなるつもり!? しっかりしなさいよ!! 若いんだから、もっと弾けていいのよ? おとなしくなって生涯何もしなかったら、それこそ勿体ないよ!!」
女が怒鳴ったせいで、薄暗い室内はシーンとなった。俺は目のやり場がなくて、俯いていた。
どれほどそうしていただろう。しばらく経って、
「―……麗ちゃん」
マスターが、俺の背後から優しく声を掛けた。
「……許してくださいな。コイツにもいろいろあってそれどころじゃなかったんだよ。そのうち余裕が出てきたら、恋愛する気にもなるだろうがね」
彼は、ニコリと微笑んだ。あまりにも柔和なので、その場にいる誰もが見入ってしまった。
数秒して、女は、「あ、そう、」と顔を赤らめておどおどし始めた。
「何か…でしゃばってごめんなさい……でも、無理しないでね? ヨウ……」
「麗さん……いいよ。俺の心配なんて」
俺は作り笑いする気にもなれず、取りあえず言葉を返した。
気まずい雰囲気になり、無言で仕事をしていると、後ろからマスターに肩をぽんっ、と叩かれた。
「…耀、お前はもう上がれ。明日は入学式だろう」
「あ……うん」
「早く寝ろ。疲れているんだろう。連日手伝わせて悪かったな」
「…別に」
俺は女とマスターに軽く詫びを入れて、店を後にした。
「…ふっ、くく…」
裏口のドアを閉め、俺は抑えきれなくなった笑いを発散させた。先ほどの光景が滑稽でたまらない。
(なんにもしないで仏にでもなるつもり、か…)
確かにそうかもしれない。
俺は笑うのをやめ、暗い路地を歩いていく。口の中に残った笑いを唇で食い縛りながら、マスター、黒木真一の家であるマンションまで、店から500メートルの距離を進んだ。
この地域一体は、夜でも賑やかな大通りがある一方で、少し路地を入っていけば街灯がなく、女や子供が一人では歩けないような怖い道が多い。今でも、会社帰りのオヤジたちが通りすぎるたびに振り返ってくるのには、寒気がする。
やっとマスターのマンションにたどり着き、エレベーターに乗って15階のボタンを押した。ドアがゆっくりと閉まり、俺はホッと息をつきながらエレベーターにしばらく身を任せた。
途中、エレベーターは自分で押した階の手前で止まる。入ってくる人のため、俺は壁側に移動した。しかしドアが開いた瞬間、俺は息をのんだ。
開いたドアの向こうに、記憶にこびりついて離れない、黒髪の黒服男がいた。
「あれ……誰かと思えば…耀ちゃんじゃん」
男は、俺を見つけるなりニタリと笑う。心拍数が一気に急上昇する。
(何でこいつがここにいるんだ)
俺はそいつから目をそらす。
「その呼び方やめろ」
男は不穏な空気のまま、近づいてくる。考えるよりも先に、体が警戒を始める。息が上がり、めまいすら覚える。
「ねぇ耀ちゃん? いきなり消えるってどういうことだい?」
明らかに機嫌が悪い。俺は後退りするが、エレベーターという小さい部屋では、すぐに背中に壁が当たってしまう。
男の両手が、俺を壁に押しつける。
逃げ場所がない。
「お前に関係ねぇだろ」
「…冷たいなぁ…そんなわけないよね、耀ちゃん」
避ける間もなく、俺は男に食われるようにキスをされた。
「…んっ…」
タバコ臭いキスは、俺の頭をおかしくする。それでも口の中に強引にねじ込んでくるやつの舌を、何とか食い縛って阻止した。その攻防は長時間続いたが、俺が断固として受け入れないので、ヤツは諦めて離れていった。
「……強情だなあ」
男はクックと不気味な笑みを浮かべる。そして、俺の首筋に顔を埋め、下半身を妖しく撫で上げる。
耳の後ろをすれすれで触る舌先が、身の毛がよだつほど気持ち悪い。
「…晶人っ…、いい加減にしろ。俺はもう、お前と関係ない…っ」
「……どうかな」
男はポケットから、チャッと銀色の小型ナイフを取り出す。そしてそれを、俺の首に当てる。
「…耀ちゃんの身体はそう言っていないみたいだけどね。フフ…オレはまだ終わってないよ。これからもっと、愛してあげる」
男がケタケタ笑うのを睨みつけた。コイツになんか負けたくない。怯むなんて絶対にしない。
腹の底から抑えられない怒りが込み上げる。
「…失せろ」
「やだね」
「……殺すぞ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。怒りが余って笑いさえ込み上げてくる。
男は目を見開いて、一歩引き下がった。
「…失せろ。そして二度と来るんじゃねぇ」
言い放つと、男は声高らかに笑った。何がおかしいのか分からない。
「…分かった分かった。今日は許してやるよ」
今日はね、と男は耳元で囁き、エレベーターを降りていった。閉じたドアの内側で、俺は床にへたりこむ。
体が震える。嫌悪と、恐怖に。
"あいつ"を失った時のように。