終章
彼女の白い背中が、森の奥に消えていく。彼女の精神は、僕が考えていたよりもさらに複雑になっていた。
時々、無邪気な子供のように笑いだし、その時は体が本当に軽くなったように跳ね回る。それはまるで、森の妖精のようにも見えた。僕の事を、父親かあるいは祖父だと思い込む事もある。
体は、成熟した中年の女性なのだから、力は強いので、抑え込むのは一苦労だ。
しかし一方で、彼女は正気に戻ると、老衰した老婆のように疲れきっていて、取憑かれたように、森に入っては研究に没頭する。
それは、恐ろしい魔女のようだった。この両極端な彼女の精神は、彼女の肉体を壊していくように見える。
僕は、何もできないまま彼女の白い背中を見る。痩せた体は痛々しく、心が締め付けられるような感覚に陥る。
僕には、彼女の研究を手伝う事はできなかったので、彼女の身の回りの世話をすることでしか彼女の役にはたてなかった。
彼女の研究がいつ、どんな形で終わるのかは分からない。
それが分かるのは彼女だけかもしれないし、彼女にすら分からないのかもしれない。
ある日、彼女がいつものように森の中に消えた。僕も、彼女が迷わないように着いていく。
彼女が正気の時は良いのだが、森の中で狂気に襲われたりすると、彼女は自分が今、どこにいるのか分からなくなるからだ。
これまでにも何度か、彼女が帰ってこない夜があった。
幸い、時間が経って、正気に戻り、切り傷だらけになって帰ってきたが、それ以来、私も森に入って彼女の側に居ることにした。
彼女が、何か珍しい蝶を見つけ、あれがカーヤップの書いた妖精の原型かもしれないと調べ始めた。
虫籠に、蝶を捕えて、一つ一つの特徴を書き出し、比較する根気のいる作業だ。
僕も、助言をしようとしたが、やはり専門的な知識がないと駄目なのか、彼女の書き出した文章さえ、ろくに解らなかった。
二時間ぐらいして、彼女が突然立ち上がり、フラフラと歩き出した。
僕は、悪い兆候かもしれないと判断し、彼女を揺さぶって目を覚まさせようとしたが、彼女は、かえって剣幕に脅えて泣き出してしまった。
子供のように泣きじゃくる彼女を引っ張って森の出口に向かおうとすると、彼女は、僕の手を引き離して、森の奥に走り出した。
僕は、とっさのことに驚いて、彼女を追い掛けたが、
彼女は一度も振り返ることなく奥に進んだ。
体力が衰えていた事もあり、何度も彼女を見失いそうになった。
急に開けた場所に出たかと思うと、そこは断崖だった。彼女は遥か下の方で蹲り、身動きが取れないのか、すでに絶命したのか、全く動かなくなった。
そこには、あの時捕まえた蝶が何億匹いるのか分からないほどの群れになって、羽を動かしながら木に止まっていた。
僕は絶望の中で立ちすくんだが、その光景は妖しげで美しくもあった。
彼女の求めていた妖精の伝承は、この木と関係があったのかもしれないが、迂回して崖を降りた僕は、彼女が冷たくなって横たわっているのを見ると、どうしようもなく沈んだ気分になるだけだった。