序章
森は生命の終焉であり、海は生命の始まりである。 かの人は云った。それは過ぎ去り行く日々の忘却の彼方に忘れ去られたレインツリーの記憶の中に眠る一雫のような、甘美な夢のようであった。
僕が、其の言葉の意味を真に知り得るはずもなく、かといって一笑して、それは若き文学者の戯言だよ、といった非難めいた言葉を口にした訳ではない。
僕にできた事、すなわちその言葉を理解しようという努力の遂に及ばぬ所に、詠嘆があった。
「もう、僕は疲れてしまったのだよ」
僕は精一杯の感情を込めてそう言った。
それでも君は、君自身は僕の肉薄な知識と、あまりにも惨めな感受性を、憐れんだ目で見つめて
「その行為の果てにあるはずの、肉体と精神との剥離から得る甘美な夢に、徒労の負しか見えないのですか、貴方は」
と言うのだった。
窓の外には、鬱蒼と生い茂る木々の呼吸が、ざわめき立ち、さも無知なる事は罪であり、その追求を怠った僕に償罪の意志を申し立てている様だった。
僕は、一言も言葉を発する事なくセブンスターに炎を着けると、長い間、その煙が僕の肺に沈み込むのを眺めていた。
夕立の後の湿めっぽい空気が、だんだんと床や風を冷やしていく。
「寒くなってきた。そろそろ部屋に……」
と彼女を促した。
「恐れているのですね、私を」
と言った君は、私の方を振り向かずに扉の向こう消えた。
その背中は、静かな怒りというよりも、真に理解する者など居ないという諦めを顕しているのかもしれない。
僕は、その背中に手をやりたいと感じたが、やがてその偽りの慈悲が君をどんなにか傷つけるかもしれないと思い立ち、葛藤の内に手を下ろした。
僕が彼女と、最初に出会ったのは、もう何年も前だった。彼女はその頃、英文学の講師として私の大学に来ていた。やはり、彼女の父親は有名な英文学の研究者であり、その人を僕も尊敬してもいた。
彼女に会って、その事を話すと
「そういう事は父か、父の秘書の方に言ってください」
とひどく憤慨した。
僕は、非礼を詫びたが、彼女に印象を悪くさせたのではないかと思ったので、こう付け加えた。
「僕は、あなたの父親の事はよく知っていますが、あなたの事はよく知らないのです。よろしかったら、今度あなたの事を教えてください」
僕は、彼女をあの方の娘としてではなく、一人の英文学者として見ようと努めた。
「驚いたわ。父の事を下手な口説き文句に利用するなんて」
と彼女は心底、おかしいという顔をして見せた。
僕は弁解したが、彼女は確信を深めるばかりで、焦る僕をあしらった。
その夜、彼女は、自分が父の影に隠れていることの不満や、毎回繰り返される滑稽な学会のやりとりに対する苛立ちを僕に打ち明けた。
僕自身も、それに対する同様の見解を述べてみせた。
彼女との距離は縮まり、そのうち、より深い関係を築くようになっていった。
何年か経ったのち、彼女がカナダに行く事になったのをきっかけに、僕らは別れた。
別段、彼女との愛情が薄れた訳ではなかったが、話し合った結果、お互いにその方が楽であると判断したためだ。
それからの数年、僕は何人かの女の子と仲良くなり、別れた。その度に不思議と、彼女を思い出すということはなく、すっかり自然のままに彼女の不在を受け止めていた。
ある日、彼女が日本に帰ってきているという情報が耳に入った。しかし、彼女から知らせがあったのではなかったし、帰ってきているのなら連絡ぐらいあるだろうと思っていた。
後で彼女が僕に連絡しなかった訳が判明したのだが、彼女はカナダから白人のごく親しい男友達を連れてきていた。
僕がそんな事を知るはずもなく、僕は彼女に会いに行った。
彼女は僕に会おうとせずに、僕は忙しいという理由を真に受けて、その場を後にした。
ほどなくして、彼女はカナダに渡り、僕は行き場の無さを覚えたが、心の何処かでは、なんとなくではあったが、その理由も朧げに掴んでいた気がする。
そして、僕はまた、彼女がいない日々をごく自然に過ごした。以前ほど、恋愛に関して浮き沈みを繰り返す事はなかったにしても、数人との交際はあった。
だが少なくとも、その誰とも結婚しようという話はなかったように思う。
それが彼女を意識していた為であったのかどうかは、今ですら判断することは難しい。
ともかく、その様にして僕は、彼女と出会い、そして別れた。