魔女は限界集落に立つ
尻の感覚がなくなってから、三日が経った。
ヴィッキーは愛用の樫の木ほうきに跨がったまま、眼下に広がる絶望的なまでの「青」を睨みつけた。右を見ても海。左を見ても海。たまにトビウオ。
太平洋は、思っていたよりも三倍は広く、五倍は退屈だった。
時折、高度を下げすぎて波しぶきがブーツを濡らす。そのたびに、「ひゃっ」と情けない声を出しながら高度を上げる。威厳もへったくれもない。
ふと見ると、一羽の大きなカモメが隣を並走していた。カモメは「お前、そんな棒切れでどこまで行くんだ?」と言いたげな、妙に冷めた目でこちらを見ている。
「グスタフ。お前は不満はないか」
肩の上のカラスは、首だけ回してこちらを見た。艶のある黒い瞳に、疲れ果てた魔女の顔が丸く映っている。
「カァ」
「そうか。私はある」
ほうきで太平洋を渡ることが、前時代的であることは理解している。
しかし、ヴィッキーはキャッシュレス決済ができないためにオンラインでの航空券購入が不可能であり(現金払いの窓口は軒並み廃止されていた)、かくして自力飛行以外の選択肢が消えた。
風が髪を乱す。マントの端がばたばたと鳴る。ヴィッキーは目を細め、水平線の向こうに意識を向けた。長年の勘が、陸地の気配を告げていた。
日本列島が見えてきたのは、八時間と少しが経った頃だった。
最初は靄の中の影のようなものが、やがて輪郭を持ち、色を帯びた。緑と茶と、点々とした光。ヴィッキーは背筋を伸ばし、帽子のつばを直した。どれだけ疲れていようと、到着の瞬間には姿勢を正す。
それはフォン・ヘクセンベルク家に連なる者としての、最後の矜持だった。
海岸線を越え、内陸へ向かって高度を下げながら進む。田園と街が交互に現れ、やがて山が近くなった。
長野の山並みが、夕暮れ前の光の中に広がっている。
ヴィッキーは、少し黙った。
稜線の重なり方が、ヨーロッパのそれとは違う。もっと急で、もっと濃くて、薄い霞が谷に溜まっている。アルプスとも、ピレネーとも違う。
名前を持たない美しさが、そこにあった。
「……山は、悪くない」
目的地の集落が見えてきた頃、空の色はもう橙に染まりかけていた。
田んぼ。畑。屋根の低い古い家々。軽トラックが一台、農道に停まっている。人口七百人。そのすべてが今ここに収まっているような、こぢんまりとした静けさだった。
遠くから、何かエンジン音も聞こえる。
ヴィッキーはほうきの向きを変え、緩やかに降下を始めた。着地点をどこにするか、頭の中で段取りを組み立てる。
まず地に足をつけ、荷物を確認し、住居として割り当てられた物件を探す。古民家と書類には書いてあった。
「さて。グスタフ、着くぞ。粗末な歓迎でも——」
グスタフが急に羽ばたく。
バサッ、という音と衝撃がほぼ同時で、ヴィッキーの帽子がはじかれ、宙を舞った。
「グスタフ! 何を——」
視界が開けた瞬間、ヴィッキーは声を失った。
農道をトラクターが来る。こちらに向かって、まっすぐ、相応の速度で。高度があと三秒分低ければ、正面から接触していた。
ヴィッキーは反射的にほうきを引いて急上昇する。風を切る音。帽子がくるくると落ちていく。グスタフが追いかけて、嘴で拾って戻ってくる。
心臓が、魔女らしくない速さで打っていた。
トラクターが止まり、運転席のドアが開いて、人が降りてくる。
六十代と思しき女性だった。モンペに長靴、頭に手拭い。日に焼けた顔に、しかし険しさはみじんもない。彼女はヴィッキーを見上げて、目を細め——困惑でも驚愕でもなく、どこか「やれやれ」という顔をした。
「あらあら! 空から来るなら来るで、言ってくれりゃよかったのに!」
ヴィッキーは、二秒ほどかけて、その言葉を処理した。
空から来るなら言ってくれれば。
つまりこの女性は、空から人が来ることを、想定の範囲内に置いている。
「……連絡先を、存じ上げなかったもので」
口をついて出たのは、それだった。他に言葉が見つからなかった。
「あー、そりゃそうか!」
女性は快活に笑い、手拭いで手を拭いながらこちらに近づいてきた。
女性の名前は山田ハルコといった。
年齢は六十四。職業は農家。趣味は「漬物」と後で知ることになる。今は農道の真ん中で、ヴィッキーの全身を見ている。品定めではない。値踏みでもない。畑で芽吹いたものを確かめるような、純粋な好奇心の目だった。
「魔女さん?」
「……なぜ分かる」
「ほうきで空から来たから」
ヴィッキーは反論を探したが、見つからなかった。
「……論理的だ」
「で、農業研修の子?」
「研修という言葉は不本意ですが——」
「じゃあ研修ね」
ハルコはそう言って、トラクターのドアを閉めた。手拭いを肩にかけ、さっさと歩き始める。「うちの隣の古民家、掃除してあるから。行きましょ」と言いながら、もうかなり先を歩いていた。
ヴィッキーは、その背中を見た。
フォン・ヘクセンベルクの名を告げるべきだと思った。我が家は神聖ローマ帝国の時代から続く魔女の名家であり、四百年の実績と格式を持ち、少なくともヨーロッパ北部では知らぬ者のない——
ハルコがある角を曲がり、見えなくなっていた。
迷子になるわけにはいかないと、ヴィッキーは大きなトランクを引きずって、慌てて後を追う。
電柱の上で一部始終を眺めていたグスタフが、呆れたように鳴いた。
「カァ」
「……うるさい」
築八十年の古民家は、思ったよりも堂々としていた。
低い屋根と、黒ずんだ柱と、わずかに傾いた門柱。ヨーロッパの石造りとはまるで違う、木と土と時間の積み重ねだった。
傾きは傾きとして、しかし倒れる気配がまるでない。長い年月の中で、ゆっくりと地面と折り合いをつけてきた家の顔をしていた。
「掃除してある」とハルコは言ったが、縁側に大根が三本ぶら下がっていた。
「なぜ大根が」
「干す場所が足りなかったから。嫌なら後で移すよ」
「……いえ」
言えなかった。大根は悪くない場所にいる、とヴィッキーは思ったが、口に出す理由も見当たらなかった。
室内を見て回る。古い柱、土壁、天井の低さ。囲炉裏の跡が床の中央にあって、今は使われていないが、長年火を受けた木は独特の黒さをしていた。ヴィッキーは指先で柱に触れた。思ったより、冷たくない。
台所で何かが動く音がする。
「何をしている」
「お茶。座ってて」
「客に座って待てと?」
「客? あんたここに住むんでしょ。もう住人よ」
返す言葉がなかった。
ヴィッキーは畳の上に座ろうとして、座り方が分からず、一瞬止まる。グスタフが窓枠に腰を落ち着けているのを見て、何となく焦ってしまう。
とりあえず、足を折ってみた。
畳の感触が、足首から伝わってくる。草と土の、乾いた匂い。
窓の外に、山がある。
夕暮れの光の中で、稜線がくっきりとした影になっている。
悪くない——とは、顔には出さない。
お茶が出てきた。湯呑みに、茶色い茶。
「ほうじ茶」とハルコは言いながら自分の分も持ってきて、ヴィッキーの向かいに座った。「嫌いじゃなければ」
「嫌いではない」
一口飲む。
温度は丁度よく、苦みよりも香ばしさが先に来る。舌の奥に、炭の記憶に似た何かが残る。
「……土の匂いがする」
「そう? 普通のほうじ茶だけど」
「褒めている」
「あら、そう」
ハルコはそれだけ言って、茶をすすった。感謝でも驚きでもなく、ただ事実として受け取った。「そう」の一言に過不足がない。
ヴィッキーは、その「そう」が少し気になった。
フォン・ヘクセンベルク家の食卓でお茶を褒めれば、料理人は必ず恐縮した。商人は必ず値を上げた。同業の魔女たちは必ず「さすが」と返した。
「あら、そう」と言われたのは、初めてかもしれなかった。
グスタフが窓枠で静かに羽を繕っている。
夕暮れが、部屋の隅に溜まり始めていた。




