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魔女は畑を耕す(物理)  作者: 琴坂伊織
プロローグ

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1/2

魔女は現代に適応できていない

 魔女というのは、本来、呼び出されるものである。


 深夜の十字路で、嵐の晩に、蜜蝋の蝋燭を九本立てて、血と塩と月光で描いた印の中心に立って——そういう手順を踏んで初めて、魔女はその存在を認められる。少なくとも、ヴィクトリア=アストリッド・フォン・ヘクセンベルクはそう教わってきた。


 だから目の前の光景が、どうにも納得いかなかった。


 封筒だった。


 普通の、茶封筒だった。郵便番号を書く枠が印刷されていて、切手は欧州魔女協会の公式スタンプ——ほうきにまたがる老婆の横顔——が押されていたが、それ以外はどこにでもある事務封筒だった。


 ヴィッキーは封筒を持ったまま、ブリュッセル郊外の古びたビルの前に立っていた。表札には「欧州農業補助金管理委員会(第14分室)」とある。十七世紀から続く偽装工作の賜物だが、最近はEUの本物の農業補助金担当者が「ここ別の機関ですか?」と訪ねてくることがあって、それはそれで問題になっているらしい。


 ヴィッキーはため息をついて、扉を開けた。




 内部は外観と三百年ほど乖離していた。


 石造りの廊下。ランタンの炎。壁に並ぶ肖像画は全員が「ご本人存命中」であり、たまに咳払いをする。受付のマーガレットは十九世紀から同じ席に座り続けており、羽ペンとタブレット端末を同時に使いこなしていたが、本人曰く「どちらも使いにくい」とのことだった。


「会議室Bよ」とマーガレットは目も合わせずに言った。「急いで。シビル様、今日はご機嫌が斜めだから」


「いつもと何が違うんですか」


「角度」


 ヴィッキーは廊下を急いだ。




 会議室Bの扉は分厚い樫材で、取っ手に使い魔除けの紋様が刻まれていた。ノックすると、中からくぐもった声がした。


「入りなさい」


 ヴィッキーは胸を張って入室した。昔から、この部屋に入るときは背筋を伸ばすと決めていた。呼び出される理由に心当たりがないわけではなかったが、だからこそ姿勢で補う必要があった。


 長テーブルの上座に、老婆が座っていた。


 シビル=コルネリア=ヴァン・デル・マーレン。欧州魔女協会第十七代会長。推定年齢二百三十歳。白髪は天頂を周回する衛星軌道を描き、老眼鏡は鼻の先端に今にも落ちそうな角度で乗っかっている。


 テーブルの上は羊皮紙の書類で埋め尽くされ、その一角だけ妙に薄く光っているのは、老眼鏡がiPadと何らかの形でペアリングされているからだった。


 シビル本人は仕組みを理解していない。孫弟子の誰かがセットアップしたのだが、以来「目の前の空気に文字が浮かぶ」と思い込んでいる。


「ヴィクトリア=アストリッド・フォン・ヘクセンベルク」


 シビルは書類から目を上げずに言った。


「座りなさい」


「何用ですか、協会長」ヴィッキーは座りながらも声に矜持を込めた。「私は現在、第三級精霊との契約更新の時期でして——」


「現代社会適応指数」


 シビルが一枚の羊皮紙をテーブルに滑らせた。


「欧州魔女全体の、下位二パーセント」


 沈黙が落ちた。


 石造りの天井で、ランタンがぱちりと音を立てた。


「…………」


「スマートフォンを所持していない」シビルは読み上げる。老眼鏡の奥の目は書類に向いたままだ。「キャッシュレス決済の経験がない。検索エンジンの使用歴ゼロ。理由の申告欄には『念話で代替可能』とある」


「念話の方が——」


「疲れるのよ」


 シビルが初めてヴィッキーを見た。二百年以上の時間を通過してきた目が、静かにこちらを見ていた。


「術者が。毎回。あなたの念話を受け取るたびに、こめかみを押さえながら私に報告してくる。内容より先に『頭が痛い』と言われる念話に、どれほどの実用性があるというの」


 ヴィッキーは反論を三つ組み立てて、三つとも黙って解体した。




 制度の説明は簡潔だった。


 正式名称「現代社会適応強化研修プログラム」。通称「現社研」。対象は適応指数下位十パーセントの魔女たち。内容は魔法以外の手段で現代社会を生きること——つまり、電子機器を使い、公共交通機関に乗り、日常的な手続きを普通の人間として行うこと。期間は最低六ヶ月。


「赴任地は」とシビルは続けた。「くじで決まります」


「くじ?」ヴィッキーは聞き返した。「魔女が、くじを?」


「公平でしょ」


「伝統と格式を重んじる協会が、無作為抽選で——」


「伝統と格式で電気代は払えないのよ」


 シビルは事もなげに言って、小さな木箱をテーブルに置いた。中に紙片が入っている。折り畳まれた、これまた普通の、メモ用紙サイズの紙片が。


 ヴィッキーは一瞬、その箱を見つめた。


 これで運命が決まるのか、と思った。


 二百年の伝統と、それを軽やかに踏み越えるシビルの合理主義と、折り畳まれたメモ用紙一枚が、今ここで交差している。


 手を伸ばして、引いた。


 開いた。


 読んだ。


 シビルも読んだ。


 その瞬間、二百三十年を生きてきた協会長が——ほんの一瞬だけ、ほんの刹那だけ——視線を逸らした。


「……どこですか」


「日本」シビルは書類に目を戻しながら言った。「長野県。人口、ええと——」

 ヴィッキーの眉が、わずかに動いた。


「ええと、とは?」


 協会長が、羊皮紙の端をわずかに指先で折った。癖だ。何かを言いにくいときの。


「……数えるのが早いくらいの人口よ」


 沈黙。


 ランタンが、また鳴いた。


「それは」とヴィッキーはゆっくりと言った。「つまり」


「寒いところよ」とシビルは遮った。「山がきれい。空気がいい。静かで——」


「小さい」


「こぢんまりとしている」


「過疎」


「趣がある」


 二人は視線を合わせた。


 シビルは老眼鏡を押し上げた。


「魔女にとって、静かな土地は悪いものじゃない」


 それは慰めなのか、それとも二百年以上生きてきた者の本心なのか、ヴィッキーには判断がつかなかった。


 ただ、紙片に書かれた地名だけが、手の中に残っていた。


 長野県——そこに、どんな現代が待っているのか。どんな人間たちが、どんな電子機器を持ち、どんな不便と便利の中を生きているのか。


 ヴィッキーには、想像する材料がなかった。


 念話より疲れないものが、そこにあるといいと、ぼんやり思いながら、彼女は椅子から立ち上がった。

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