魔女は現代に適応できていない
魔女というのは、本来、呼び出されるものである。
深夜の十字路で、嵐の晩に、蜜蝋の蝋燭を九本立てて、血と塩と月光で描いた印の中心に立って——そういう手順を踏んで初めて、魔女はその存在を認められる。少なくとも、ヴィクトリア=アストリッド・フォン・ヘクセンベルクはそう教わってきた。
だから目の前の光景が、どうにも納得いかなかった。
封筒だった。
普通の、茶封筒だった。郵便番号を書く枠が印刷されていて、切手は欧州魔女協会の公式スタンプ——ほうきにまたがる老婆の横顔——が押されていたが、それ以外はどこにでもある事務封筒だった。
ヴィッキーは封筒を持ったまま、ブリュッセル郊外の古びたビルの前に立っていた。表札には「欧州農業補助金管理委員会(第14分室)」とある。十七世紀から続く偽装工作の賜物だが、最近はEUの本物の農業補助金担当者が「ここ別の機関ですか?」と訪ねてくることがあって、それはそれで問題になっているらしい。
ヴィッキーはため息をついて、扉を開けた。
内部は外観と三百年ほど乖離していた。
石造りの廊下。ランタンの炎。壁に並ぶ肖像画は全員が「ご本人存命中」であり、たまに咳払いをする。受付のマーガレットは十九世紀から同じ席に座り続けており、羽ペンとタブレット端末を同時に使いこなしていたが、本人曰く「どちらも使いにくい」とのことだった。
「会議室Bよ」とマーガレットは目も合わせずに言った。「急いで。シビル様、今日はご機嫌が斜めだから」
「いつもと何が違うんですか」
「角度」
ヴィッキーは廊下を急いだ。
会議室Bの扉は分厚い樫材で、取っ手に使い魔除けの紋様が刻まれていた。ノックすると、中からくぐもった声がした。
「入りなさい」
ヴィッキーは胸を張って入室した。昔から、この部屋に入るときは背筋を伸ばすと決めていた。呼び出される理由に心当たりがないわけではなかったが、だからこそ姿勢で補う必要があった。
長テーブルの上座に、老婆が座っていた。
シビル=コルネリア=ヴァン・デル・マーレン。欧州魔女協会第十七代会長。推定年齢二百三十歳。白髪は天頂を周回する衛星軌道を描き、老眼鏡は鼻の先端に今にも落ちそうな角度で乗っかっている。
テーブルの上は羊皮紙の書類で埋め尽くされ、その一角だけ妙に薄く光っているのは、老眼鏡がiPadと何らかの形でペアリングされているからだった。
シビル本人は仕組みを理解していない。孫弟子の誰かがセットアップしたのだが、以来「目の前の空気に文字が浮かぶ」と思い込んでいる。
「ヴィクトリア=アストリッド・フォン・ヘクセンベルク」
シビルは書類から目を上げずに言った。
「座りなさい」
「何用ですか、協会長」ヴィッキーは座りながらも声に矜持を込めた。「私は現在、第三級精霊との契約更新の時期でして——」
「現代社会適応指数」
シビルが一枚の羊皮紙をテーブルに滑らせた。
「欧州魔女全体の、下位二パーセント」
沈黙が落ちた。
石造りの天井で、ランタンがぱちりと音を立てた。
「…………」
「スマートフォンを所持していない」シビルは読み上げる。老眼鏡の奥の目は書類に向いたままだ。「キャッシュレス決済の経験がない。検索エンジンの使用歴ゼロ。理由の申告欄には『念話で代替可能』とある」
「念話の方が——」
「疲れるのよ」
シビルが初めてヴィッキーを見た。二百年以上の時間を通過してきた目が、静かにこちらを見ていた。
「術者が。毎回。あなたの念話を受け取るたびに、こめかみを押さえながら私に報告してくる。内容より先に『頭が痛い』と言われる念話に、どれほどの実用性があるというの」
ヴィッキーは反論を三つ組み立てて、三つとも黙って解体した。
制度の説明は簡潔だった。
正式名称「現代社会適応強化研修プログラム」。通称「現社研」。対象は適応指数下位十パーセントの魔女たち。内容は魔法以外の手段で現代社会を生きること——つまり、電子機器を使い、公共交通機関に乗り、日常的な手続きを普通の人間として行うこと。期間は最低六ヶ月。
「赴任地は」とシビルは続けた。「くじで決まります」
「くじ?」ヴィッキーは聞き返した。「魔女が、くじを?」
「公平でしょ」
「伝統と格式を重んじる協会が、無作為抽選で——」
「伝統と格式で電気代は払えないのよ」
シビルは事もなげに言って、小さな木箱をテーブルに置いた。中に紙片が入っている。折り畳まれた、これまた普通の、メモ用紙サイズの紙片が。
ヴィッキーは一瞬、その箱を見つめた。
これで運命が決まるのか、と思った。
二百年の伝統と、それを軽やかに踏み越えるシビルの合理主義と、折り畳まれたメモ用紙一枚が、今ここで交差している。
手を伸ばして、引いた。
開いた。
読んだ。
シビルも読んだ。
その瞬間、二百三十年を生きてきた協会長が——ほんの一瞬だけ、ほんの刹那だけ——視線を逸らした。
「……どこですか」
「日本」シビルは書類に目を戻しながら言った。「長野県。人口、ええと——」
ヴィッキーの眉が、わずかに動いた。
「ええと、とは?」
協会長が、羊皮紙の端をわずかに指先で折った。癖だ。何かを言いにくいときの。
「……数えるのが早いくらいの人口よ」
沈黙。
ランタンが、また鳴いた。
「それは」とヴィッキーはゆっくりと言った。「つまり」
「寒いところよ」とシビルは遮った。「山がきれい。空気がいい。静かで——」
「小さい」
「こぢんまりとしている」
「過疎」
「趣がある」
二人は視線を合わせた。
シビルは老眼鏡を押し上げた。
「魔女にとって、静かな土地は悪いものじゃない」
それは慰めなのか、それとも二百年以上生きてきた者の本心なのか、ヴィッキーには判断がつかなかった。
ただ、紙片に書かれた地名だけが、手の中に残っていた。
長野県——そこに、どんな現代が待っているのか。どんな人間たちが、どんな電子機器を持ち、どんな不便と便利の中を生きているのか。
ヴィッキーには、想像する材料がなかった。
念話より疲れないものが、そこにあるといいと、ぼんやり思いながら、彼女は椅子から立ち上がった。




